♦️124『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の東西への分裂

2017-10-17 22:27:28 | Weblog

124『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の東西への分裂


 379年、ローマ帝国にテオドシウス1世(379~395)が、東の皇帝として即位する。彼は、侵入するゴート族をひとまず食い止めた後、かれらとの和解に漕ぎつける。ゴート族は、「同盟者」として帝国内での定住を認められる。その彼の宗教政策は、殊の外厳しかった。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出す。392年年には、異教信仰を処罰することを打ち出す。その後に西帝をめぐる内紛も鎮め、394年には「四分統治」をやめてローマ帝国最後の統一を果たすまでに、覇権を築き上げる。この間、反乱や何かで自分に刃向かう者に対しては、厳格に対処していく。
 そのテオドシウス帝が395年に死ぬ。遺言により、17歳の長男アルカディウスが東側を、11歳の次男ホノリウスが西側を再び分割統治することになる。東側は、コンスタンティノープルを首都とする。そして西側は、以後、ミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承していく。
ところが、西ローマ帝国の方を引き継いだホノリウスは、政治には疎い人物であったらしい。こちらの方では、その後もゲルマンの侵入や勢力拡大が激しかった。西ゴート族はアラリック王が出て、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回る。

 そして、西ローマ帝国は、アラリック王のイタリア侵攻に押される形でラヴェンナに遷都するにいたる。そうなってからのイタリア全土は、ますますもって西ゴート族の軍隊に蹂躙される。それでも西ローマ帝国の将軍スティリコの活躍で、アラリックと対戦してアラリックの侵攻を再度にわたって阻止する。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままであったという。
 反スティリコ派の面々は、元老院と官僚の多数派を形成していた。彼らは、成人になったホノリウス帝を権威付けるべく、408年、スティリコ将軍に罪を被せて処刑してしまう。果たして彼らは、本当に国のためを考えて事を起こしたのであろうか。そしてホノリウス自身は、ここに名ばかりの王になり替わるのであった。優秀な守り人を失った西ローマ帝国を軽んじて、アラリックはイタリア侵攻を再開する。

 そして迎えた410年、彼の軍はローマ市を陥落させ、大いなる略奪行為を行う。アラリックはこの年に没したが、ホノリウス帝との協約により、418年には、西ゴート族はイベリア半島において、西ゴート王国(418~711)を築くにいたる。
 その後からは、ヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んできては、住処を広げていく。西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的な統治はせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいとなっていく。こうなると、どうにもならない空気となっていく。423年にホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命が続く。傭兵として雇われたゲルマン人が、将軍となることにもなっていく。 

 451年からは、民族大移動の原因をつくったフン族の大王アッティラの軍が西ヨーロッパに侵攻してくる。西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦うものの(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握るところでもあったので、傭兵隊長は皇帝の権威も代弁するにいたっていく。そして迎えた476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケルは、前の傭兵隊長の子であるところの、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、その後をオドアケル自身はイタリア王位(476~493)を名乗るにいたったことで、西ローマ帝国はついに滅亡するのであった。

(続く)

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○○105『自然と人間の歴史・日本篇』心の平安を求めて(真言宗)

2017-10-17 21:07:20 | Weblog

105『自然と人間の歴史・日本篇』心の平安を求めて(真言宗)

 空海(くうかい、弘法大師、774~835)が東大寺の戒壇院にて具足戒を受け、正式な僧となったのは、803年(延暦22年)のことである。その翌年、彼は藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)らの遣唐使の一行に加わることにする。肥前の松浦郡田浦(まつらぐんたのうら)から、全4隻のうち第一船に乗った。第3、第4の船は航海の途中で連絡を断ち、2隻だけが大陸に到達した。
 空海は、774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)に生まれた。生家は裕福であったようで、15歳にして京の都に上り、18歳になると大学に入って儒教や道教などを学ぶ。いずれもあきたらず、大学を途中でやめて、ただ一つ深い関心を持った仏道の修行に明け暮れるようになっていく。四国や近畿の諸国を健脚で渡り歩くうち、仏教へ帰依するに至る。20歳にして河内の槇尾山で得度を受け、剃髪して僧侶の仲間入りをする。空海は、その彼が22歳の時3度目に改めた法名にほかならない。
804年(延暦2年)の遣唐使で最澄と同じ機会を得て入唐した空海であるが、大乗仏典のうちの「大日経」の疑義を解く師匠を探していた。「大日経」の原典はインドの古語であるサンスクリット語で書かれており、正式名は『大毘盧遮那成仏神変加持経』といい、その漢訳は724年、唐の仏僧、善無畏らが行った。ここで毘盧遮那如来は、菩提心とは何かを、こう語りかける。
 「金剛手言。如是世尊願樂欲聞。佛言菩提心爲因。悲爲根本。方便爲究竟。祕密主云何菩提。謂如實知自心。祕密主是阿耨多羅三藐三菩提。乃至彼法、少分無有可得。何以故。虚空相是菩提無知解者。亦無開曉。何以故。菩提無相故。祕密主諸法無相。謂虚空相。」
 この漢文は、次のように書き下しされる。
「金剛手言さく、是の如し、世尊、願楽(ねがわ)くは聞かんと欲す。仏言さく菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す。秘密主、云何が菩提ならば、謂く実の如く自心を知るなり。秘密主、是の阿耨多羅三藐三菩提は、乃至彼の法として少分も得可きこと有ること無し。何を以ての故に。虚空の相は是れ菩提なり、知解の者も無く、亦た開暁(さとる者)も無し。何を以ての故に。菩提は無相なるが故に。秘密主、諸法は無相なり、謂く虚空の相なり。」
 ここに「大日如来」とは、あの奈良の大伽藍・東大寺の大仏(毘盧遮那成仏(びるしゃなぶつ))の別名に他ならない。如来とは、すでに悟りを得た者をいうのであるが、ここにいう「大日如来」は、もっと広大無辺をいうらしい。つまり、万物を照らし、すべての生き物たちを幸福に導く神性を備えた、すでに悟りを得た者を意味する存在、いやそれ以上の「神」とでも言うべきだろうか。ちなみに、この教典に出てくる「大日如来」は、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、多数説としては現在のネパールのルンビニで誕生した、あのゴータマ・シッダッタ(パーリ語で(Gotama Siddhattha))その人のことではなく、彼のことを神格化させたところの、人間の想像上の覚醒者、俗的には「仏」のことだと考えられる。その初代の仏から数えて7代目の生き仏としてあったのが、長安の青龍寺の住職の恵果和尚(けいかわじょう)であり、若き空海はその恵果と運命的な出会いを経験するのである。
 ところで、この恵果なる人物は、先に暦のところで述べた中国僧の一行禅師と関わりがある。一行という人は、中国に来てインドの密教を伝えていた金剛智(こうごうち、インド名はヴァジラボーディ)と善無畏(ぜんむい、インド名はシュバカラシンバ)の二人から、それぞれ金剛界、そして胎蔵界の密教を授けられる。そんな一行には、金剛智から教えを授かった不空(ふくう、インド名はアモーガヴァジュラ)と、善無畏から教えを授かった玄超(げんちょう)という二人の兄弟弟子がいた。
 ちなみに、平安期に入唐した空海にインド発祥の密教を授けた人物として知られる長安の恵果(けいか)は、不空と玄超の二人を師と仰ぎ、かれら二人からその法灯を受け継いだ人物にほかならず、その教えがさらに空海へと海を渡って伝わっていくのである。このような法脈でみる限り、空海は一行の相弟子の孫弟子となるではないか。
 恵果和尚としても、空海に会って、後継者にと意を固めたに違いない。さっそく、寺の道場において、「胎蔵界・金剛界の二つの灌頂(かんじょう)と、この両方に係わる伝法灌頂を空海に与える。そのほか「三蜜の加持」についても授ける。「遍照金剛」の法号は、その時の灌頂名に他ならない。空海が師匠から受け継いだ真言の教えは、密教の秘技を含む。その儀式がどんなであるかは、今でも厚いベールに包まれている。そのあらましは、田村圓澄氏による「空海」(「人物日本の歴史3王朝の文華」小学館、1976)に、こんな説明がある。
 「大日如来は、智慧と慈悲のふたつのはたらきをもっているが、智慧を表すのが金剛界である。如来の智慧は金剛石(ダイヤモンド)のように堅く、すべての煩悩を破る力をもっている。慈悲は胎蔵界として表される。母の胎内で子がは育てぐくまれるように、如来の慈悲はいっさいを抱き込む。
 この智慧と慈悲をそなえた仏の位に到達したことを示すのが、灌頂すなわち頭の上に、水を注ぐ儀式である。密教の法式により荘厳された道場で、師であるあじゃりが受者の頂(かみ)に水を注ぎ、また法具を与え、大日如来と等しい宝冠を頭上に置く。受者は大日如来の印を結び、みずから大日如来に等しいことを自覚する。即身成仏、すなわちこの身このままが仏になったのである。
 真言宗の教典には、真実が隠されている。真言以外の仏教を顕教(けんぎょう)、すなわち、あらわに示された仏法と呼ぶのに対し、真言を密教とよぶのはこのためである。したがって真言密教は、絵図によって相伝される。」
 およそこのようにして、空海は、第7祖の恵果に次いで、真言密教の第8祖となったのだ、とされる。そして、空海は日本に全てを持ち帰り、816年(弘仁7年)43歳のとき、天皇の許しを得て、高野山に修験道場のための土地をもらいうけ、金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立する。
 その彼は、僧のみならず、実に多芸多才の人でもあった。821年(弘仁12年)には、朝廷に願い出て、「別当」の職を名乗る資格を手に入れる。そして生まれ故郷の讃岐に帰ることを考えていたものか。おりしも、現地で築池使をしていた浜継が空海を迎えに上京し、まんのう池の修復工事の指導を請うと、空海は沙弥一人と童子四人を連れて讃岐に入っていく。そして、現地の灌漑工事の総監督に就任する。するとたちまちのうちに噂を聞きつけた民衆が集まり、修復工事はわずか3ヶ月かそこらで無事に終了したのだと、讃岐地方に伝わる。この工事だが、空海が中国にいたおり、僧の法顕(ほっけん)がスリランカのシンハラ王朝(紀元前3世紀~1815)から習得してきた土木・灌漑技術を教わったのだという説がある。そのシンハラ王朝だが、大昔から現在のスリランカ(セイロン島)にあった王国で、アーリア系のシンハラ人の系統であり、シンハラ王朝は最後の王朝であるキャンディ 王国がイギリスに滅ぼされるまでの約2300年続いた。前3世紀にはインドのマウリヤ朝アショカ王の息子マヒンダによって仏教(上座部仏教、釈尊のひらいた原始仏教に近い)が伝えられた。
 823年(弘仁14年)には、空海は、嵯峨天皇から京都の東寺を任せられる。この寺は教王護国寺と改められ、以来、高野山の金剛峯寺とともにあって、日本における真言密教の法燈を守る中心に位置してきた。821年(弘仁13年)らなると、朝廷から讃岐の国の満膿池(現在の香川県仲多郡満膿町)の修復工事を指揮してほしいと頼まれ、現地を訪れたことが伝わっている。教育でも、「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)として学校を創立しており、これは我が国で最初の庶民にも解放された学舎であったことが伝承されている。
 なお、これに関連して「いろは歌」をつくったのが空海であるとも言われるが、「だが、空海作ではありえない。彼の生きた九世紀前半の日本語には、四十八の音節があった。ヤ行のエ(ye)とア行のエ(e)が失われて四十七音節になったのは、十世紀の末ごろであった。空海が作るとすれば、四十八文字でなければならないのだ」(陳舜臣「元号の還暦」中公文庫、1992)と言われる方が説得力が感じられる。空海が没したのは835年(承和2年)で62歳の時であった。死に臨んでは、弟子達に「生後、今いくばくならず、汝らよく住して、慎んで仏法を守れ、われ永く山に帰らん」と訓戒を残し、食を絶って入寂する道を選んだことが伝わっている。没後の921年(延喜21年)、醍醐天皇より弘法大師(こうぼうだいし)の諡(おくりな)を送られ、これが21世紀に入った今日まで、この国の多くの人々から親しみを込めて呼び慣わされている。
 こうして当時の仏教界で一世を風靡した最澄と空海であったが、この二人には交友があった。それを伝えるものに、811~3年(弘仁2~4年)に空海が最澄に宛てた手紙「風信帖」がある。手紙は、元は5通あったのが、現在に3通が残り、これらのうち最初のものとされるものには、「風信雲書、天より翔臨す。これを披(ひら)きこれを閲(けみ)するに、雲務を掲ぐるがごとし」(本文は漢文、ここでは書き下し文にしてある。木本南○(きもとなんそん)「弘法大師空海・人と書」朱雀書房、2003から引用)に始まり、『摩訶止観』を送ってもらったお礼が述べられ、今度またお会いして「仏法の大事因縁を商量」(同)したいと述べている。こうした「風信帖」3通は、彼の書の中でも「灌頂暦名」と双璧をなすのだといわれる。彼のこの書を拝見すると、雄々しく、それでいて繊細な息遣いの書聖の息遣いまでがつとに伝わってくるかのようである。
 空海その人は、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「平安の三筆」と呼ばれる希有の達筆であった事でも、広く知られる。なお、9世紀には漢字の草書体から生まれた仮名(かな)が完成を迎えていた。これの影響を受けての「優美で流麗な運筆の和様」(河野元昭監修「日本美術史入門」平凡社、2014)を「平安の三蹟」として、小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の3名人をあてがう習わしも現代に伝わる。

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 それから、空海その人にまつわる宗教観念というのがあって、現代仏教学の建設者の一人といって差し支えなかろう、中村元(なかむらはじめ)は、こんな問題提起をしている。

 「ことに日本の密教の特徴的な信仰のひとつとして、従前の密教に見られないものは、日本密教における弘法大師観である。弘法大師(こうぼうだいし)は承和2年3月21日、高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)で亡くなったが、真言宗の信仰によると、弘法大師はそのとき禅定(ぜんじょう)にはいって、将来弥勒仏(みろくぶつ)がこの世に下生する時を待っているのである。
 だから弘法大師は死んだのではない。いまなお生きているのである。だから特別の資格のある高僧が、時期を定めて、弘法大師がいまなお禅定に入って座しているところの奥の院に入って、衣をかえてあげることになっている。では大師はいまどうなっているか、それは秘中の秘で凡俗の者に語ってはならぬとされている。日本においてのみこのような信仰が成立したということは、呪術(じゅじゅつ)的観念と前に述べた特定個人の霊威を重んじる日本民族の思惟(しい)方法に根ざしていると考えざるをえない。」(中村元(なかむらはじめ)「日本人の思惟方法」春秋社、2012)
 ついては、同宗徒の信仰というものの中には、このことを知った、もしくは知っていることの感動なり畏怖の念を



(続く)
 
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○○521『自然と人間の歴史・日本篇』憲法9条の改正で徴兵制はあるか

2017-10-17 19:28:16 | Weblog

521『自然と人間の歴史・日本篇』憲法9条の改正で徴兵制はあるか


 2015年に成立した集団的自衛権発動を可能とする安保法制導入の関連で、日本に将来徴兵制が敷かれることがあるかについて、問題となる。2017年秋の衆議院選挙において、憲法第9条の変更を政府与党(自民党と公明党)がしたいとの意思を明確に表明するに至っている。このため、今日では、近い将来、この条文に自衛隊が追記されるなりする可能性が大いにあるとの見方が流れている。もちろん、それには、国会での発議と国民投票をクリアしなければならないが、そうなると論議に顔を出してきそうなのが、ここで取り上げたい、徴兵制なのである。
 これまでのところ、政府は「徴兵制はありません」と言っているものの、その法的根拠は示していないし、未来永劫ないとは言っていない。そもそも、首相をはじめ政府役職に属するこの国の政治家たちのほとんどは、官僚のつくった答弁書を墨守するのに徹しているのではないか。だから、政府統一見解とやらの、「当面の結論」のみ述べて、多くは語ろうとしない。
 さて、日本国憲法の中で、将来の徴兵制防波堤になりそうな憲法規定を探すと、第18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、其の意に反する苦役に服させられない」がある。しかし、憲法第9条に自衛隊が明記され、国民に国防の義務を課す内容の改正が通れば、関連法で徴兵制についての規定が設けられる可能性が出てくるのではないか。この問いに、この条文をかざして、国民は徴兵を拒否できると抗弁できることになるのであろうか。
 因みに、大韓民国における兵役義務については、大韓民国憲法の規定を頂点とし、その詳細は兵役法など関連法規に定められている。ちなみに、基本的人権にかかわる規定については、日本国憲法と大韓民国憲法との間でほとんど差異が見られないことに、留意していてほしい。(なお、以下の(1)~(8)の部分は、おおよその検討をつけていただくために掲載しています。確定情報ではありませんのでご注意ください。正確には、専門サイトをお探しなさるか、韓国語表記の法令、さらに韓国法令の日本語訳サイトをご参照ください。)
(1)大韓民国憲法(2015年1月時点でのもの)
第5条①(「項」、以下この記号を用いる)
大韓民国は、国際平和の維持に努め、侵略的な戦争を否認する。
②国軍は、国家の安全保障び国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。
第39条①
 すベて国民は、法律が定めるところにより、国防の義務を負う。
②何人も、兵役義務の履行に関して、不利益な処遇を受けない
(2)大韓民国兵役法第3条(兵役義務)(2015年1月時点でのもの)
①大韓民国国民の男子は、憲法及びこの法律が定めるところにより兵役義務を遵守しなければならない。女子は、志願により現役に限り兵役に就くことができる。
②この法律によることなく、兵役義務に対する特例を規定することはできない。
③兵役義務者であって6年以上の懲役又は禁錮の刑の宣告を受けた者は、兵役に服務することができないし、兵籍から除籍される。
第5条(兵役の種類)
①兵役は、次の各号のように現役・予備役・補充役・第1国民役及び第2国民役に区分する。
 1.現役:徴集又は志願により入営した兵及びこの法律又は軍人事法により現役として任用された将校・准士官・下士官及び武官候補生
 2.予備役:現役を終えた者その他この法律により予備役に編入された者
 3.補充役:徴兵検査を受けて現役服務をすることができると判定された者の中から兵力需給事情により現役兵入営対象者として決定されていない人及び公益勤務要員・公衆保険医師・徴兵専担医師・国際協力医師・公益法務官・専門研究要員・産業技能要員として服務又は義務従事しており、又はその服務若しくは義務従事を終えた者その他この法律により補充役に編入された者
 4.第1国民役:兵役義務者であって現役・予備役・補充役又は第2国民役でない者
 5.第2国民役:徴兵検査又は身体検査の結果、現役又は補充役服務はできないが戦時勤労召集による軍事支援業務は、耐えられると決定された者その他この法律により第2国民役に編入された者
②予備役に編入された者は、予備役の将校・准士官・下士官又は兵に、補充役に編入された者は、補充役の将校・准士官・下士官又は兵に、第2国民役に編入された者は、第2国民役の下士官又は兵に区分する。
③兵役義務者は、それぞれその兵役の兵籍に編入され、兵籍管理に関して必要な事項は、大統領令で定める。
(3)大韓民国兵役法施行令第128条(2012年改正まで)
 2012年の韓国兵役法施行令改正により、1994年1月1日以降に出生した在日同胞を含めた海外同胞は、18歳以降37歳までの通算韓国滞在期間が3年以上になれば、「在外国民2世」にならず、兵役義務が発生するようになる。
(4)大韓民国兵役法第64条(第1国民役の兵役免除等)(2010年1月25日改正まで)
 ①地方兵務庁長は、第1国民役として第1号(身体等位が6級に該当する人だけに該当する)又は第2号に該当する者は、必要に応じて徴兵検査をせずに兵役を免除することができ、第1号に該当する者のうち身体等位が5級に該当する者及び第三号に該当する者は、必要に応じて徴兵検査をせずに第2国民役に編入することがている。
1.全身奇形、病気、心身障害などにより、兵役に耐えられない人
2.軍事境界線以北の地域から移住してきた人
3.第65条第1項第2号の事由に該当する人(傷痍軍人)
(5)兵役法第18条((1999年2月5日改正まで)
①現役は、入営した日から軍部隊として服務する。ただし、国防部長官が許可した者は、軍部隊外で居住することができる。
②現役兵(支援によらずに任用された下士を含む。以下同じである。)の服務期間は、次の通りである。
 1.陸軍は、2年
 2.海軍及び空軍は、2年6月。ただし、海軍の海兵の場合は、2年とする。
 (なお、兵役期間の基本については、2016年1月1日から改正法が施行され、2年6月になった模様であるが、確認できていない。筆者)
(6)兵役法第11条(1999年2月5日改正まで)
①兵役義務者は、19歳になる年に兵役に耐えられるか否かの判定を受けるために地方兵務庁長が指定する日時及び場所(地方兵務庁又は軍病院等をいう。以下同じである。)で徴兵検査を受けなければならない。ただし、軍必要及び兵役資源の需給等を考慮して19歳になる者の一部を20歳になる年に徴兵検査を受けさせることができる。
②徴兵検査を受けなければならない者がこれを受けず、又は徴兵検査が延期された者であってその延期事由が消滅する者は、その年又はその翌年に徴兵検査を受けなければならない。
③徴兵検査は、身体検査以外に必要な場合には、人性検査等を実施することができる。
④第3項の規定による身体検査は、外科・内科等身体のすべての部位を検査しなければならず、必要な場合には、臨床病理検査・放射線撮影等をすることができる。
(以上は、諸種のインターネット情報と高橋和之編『新版・世界憲法集』(岩波文庫)、「韓国WEB六法」などの、日本語訳されたものから適宜選んで引用させていただいているため、韓国語原文に当たることをしていません。追って、原文に当たって検討を進める予定でおりますので、ご了承ください。)

(続く)

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♦️831『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年8月23日~1999)

2017-10-17 12:20:28 | Weblog

831『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年8月23日~1999)

 1998年8月23日、混乱の中に改革派のキリエンコ首相は通貨混乱の責任をとる形で辞任させられました。エリツィン大統領によって、臨時首相代行にチェルノムイルジン前首相を指名しました。それでもうまくいかず、さらには保守派のプリマコフが首相に就任しました。8月26日、1ドルが9.5ルーブルに下落。ロシア政府は対ドル為替取引の不成立の宣言を宣言しました。8月27日、外国為替取引を全面停止しました。9月7日、ロシア政府は再度の対ドル為替取引の不成立の宣言をしました。これにより1ドルが30ルーブル以下に為替相場が下落しました。9月11日にはドゥビーニン中央銀行が辞任しました。
 1998年のGDP(国内総生産)は対前年比で5.3%減少、物価上昇率は84%上昇しました。このときのロシアの実態経済がどのような状況にあったかについては、ここで簡略化した総需要の式で当時を再現してみましょう。
 いまロシア一国の総需要Yが消費C、民間投資I、輸出Xから輸入Mを差し引いた純輸出(XーM)から成り立っているとしましょう。ここで政府による投資Gがないのは、当時のロシア経済がそのまま(デフォルト)では、景気刺激なりの政府投資を続けられないほどの財政逼迫の状況にあったことを想定したものです。
そうすると、Y=C+I+X-M・・・・・・・(1)
 ここで投資Iと輸出Xは自分で決めるものであり、他方、消費Cと輸入Mはそれぞれ所得に影響を受けます。
C=Co+cY・・・・・・・(2)
M=Mo+mY・・・・・・・(3)
 ここでcとは限界消費性向であり、mとは限界輸出性向です。
この(1)、(2)及び(3)より、Y=(Co+I+X-(M+)・・・・(4)
(1)の総生産Yと(2)及び(3)の総所得Yとは同じとしているので、次のようになります。
Y=(Co+cY)+I+X-(Mo+mY)
Y=Co+I+X-Mo+(c-m)Y
I=(Co+I+X-Mo)/Y+(1-c+m)
(Co+I+X-Mo)/Y=1-(cーm)
Y(1-c+m)=Co+I+X-Mo
Y=(Co+I+X-Mo)/(1-c+m)・・・・・・・(5)
 さて、いま輸出Xが△Xだけ伸びて、他の要素には変化がないとしよう。それが△Yだけの所得変化を引き出したとすると、
△Y=△X/(1-c+m)・・・・・・・(6)
 このうち1/(1-c+m)は貿易乗数と呼ばれ、(6)は輸出の増分は貿易乗数分だけ所得を増加させることを意味しています。
 次に、この△Yは輸出を増大させるでしょう。この変化は貿易収支にどのような変化を及ぼすのでしょうか。
(3)式より△M=△Xーm△Yだから、
△Xー△M=△Xーm△Y=△Xーm△X/(1-c+m)=(1-c)△X/(1-c+m)・・・・・・・(7)
(6)と(7)から、輸出Xが増えると、所得Yと貿易収支もともに拡大することが読み取れます。
 そして、ロシアの経済を閉塞状況から脱却させたものも、第一の力は輸出の力でした。
 プリマコフ首相は、企業が売り上げた結果として持っている外貨の75%をルーブルに交換することを決めました。ルーブルの切り下げで輸出停滞現象に歯止めがかかったところへ、国がかれらの獲得した外貨の集中管理を打ち出したものです。これでルーブルが持ち直しました。
 1999年からは鉱物資源の価格が上昇します。1999年11月には石油輸出税によって外貨の流入が始まりました。原油価格は1バレル当たりで30ドルから35ドルまで上昇。外貨準備高は、1998年末時点で100億ドル(金60億ドルを含む。)、2000年280億ドル、2001年360億ドルへ伸びました。
 ロシアの経済を閉塞状況から脱却させた第二の力は国際金融支援の力でした。具体的に言うと、2002年2月には、ロシアと日本、米国、そして押収の銀行団による債権銀行団会議(ロンドン会議)が開催されました。この中で、ロシアが背
負っている債務を証券化する方向で調整しました。
 こうした内外からのアプローチにより、ロシアを席捲した経済危機はしだいに遠ざかっていきます。
 1998年1月、ロシアがデノミネーションを実施しました。デノミネーションの実施は、1998年1月のことであり、このときは通貨単位を1000分の1に切り下げる、つまり旧 1,000ルーブル=新1ルーブルとする。それとともに、1ドル6.2ルーブル(旧6,200ルーブル)の上下15%幅を3年間維持することになりました。それからの消費者物価上昇率の推移(対前年比)(外務省ホームページより)ですが、1997年:11.0%、1998年:84.4%、1999年:36.5%、2000年:20.2%というものでした。
 1998年8月、財政悪化を背景にロシア通貨のルーブルが急落しました。これにより、対外債務支払いの一時凍結、為替取引の全面停止などに追い込まれました。1998年9月、外国為替制度の目標相場圏を撤廃し、「管理変動相場制」に移行しました。そして1999年のGDP(国内総生産)で見た経済成長率は、前年のマイナスから一変して5.4%の上昇。工業生産は11.0%、農業生産は4.1%の増加を示しました。
 これらの経済的な小康状態復帰を背景に、プリマコフ政権下で、銀行再建が進められました。金融機関再建庁が設置され、21行について業務健全化計画が立てられました。3年間で再建できるように総額190億ルーブルの財政資金を投下しました。また、先端産業の設備投資促進のために開発銀行を設立しました。

(続く)

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♦️830『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年7月~8月22日のロシア)

2017-10-17 12:19:19 | Weblog

830『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年7月~8月22日のロシア)

 1998年7月になると、通貨ルーブルはさらに減価し、国際市場(資本市場)での資金調達が難しくなりました。ロシア政府は紙幣発行を開始します。これは後日に手形等を発行して市場の資金を引き揚げるのではない、いわゆる不胎化介入ではなく、一方的に国家が信用を与えるものであったことから、物価は再び上昇します。その率は45%。こうなると、投資家が国債を買っても、そのカネはインフレーションによって価値が下落していくのであるから、償還してもその率だけ受取額が目減りすることでしょう。したがって、金利はそれを投資して賄える水準にまではい上がっていきます。
 ここでの波及効果として、ロシア政府の発行するルーブル建て国債の価格が急落し、デフォルト(債務不履行)されかけたことがあげられます。なぜ金利が上がれば国債の価格が上がったのでしょうか。
金利(%)=表面利率+【{(償還価格ー債券価格)/残存年数}/債券価格】×100
 この式により、何がおこったかを考えてみましょう。
 まずは、必要な予備知識から。たとえば、いまある国債の年利が20%で、満期になるのが10年、償還価格と発行価格をともに100とすると、
金利(%)=20%=20+【{(100ー100)/10}/100】×100
これがいま5年経って、市場の金利が30%に上がったとすると、
金利(%)=30%=20+【{(100ーX)/5}/X】×100
 これからXを求めると、X=75となって、100ー75=25だけ価格は下落するでしょう。
 今度は逆に、これがいま5年経って、市場の金利が10%に下がったとすると、
金利(%)=10%=20+【{(100ーX)/5}/X】×100
 これからXを求めると、X=133.33となって、100ー133.33=ー33.33となり、33.33だけ価格は上昇するでしょう。
 これでひとまず準備ができたので、前提にできるだけ近づけてロシアの状況を再現してみましょう。
 第一段階として、金利100%のときの価格は、つぎのようになるでしょう。
(金利(%)=100%=100+【{(100ー100)/0.5}/100】×100
 第二段階として、3か月後には金利が150%になります。このときの価格は、次のようになるでしょう。
金利(%)=150%=100+【{(100ーX)/0.25}/X】×100
100+(400ー4X)/X=1.5/1
1.5X=500-4X
5.5X=500
X=90.90が導かれます。
 こうした動きが有って、市場はだんだんと変化していったと考えられます。勢い、無制限に国債を売り続けるロシア政府の姿勢に危なさを覚えるようになり、国債を買い控えるようになります。これに対して、ロシア政府は引き続き買ってもらうため、そして何よりも増え続けた国債の償還に要する費用を捻出するべく、さらに高利回りの国債を発行するようになります。償還期間が1~6か月単位の短期国債の主力を占めていたのは6か月物の短期国債でした。
 それが1998年7月がさらに進むと、利回り100%を超える、そうなると、6か月後の満期には1.5倍のカネを払う必要が出てきます。そのため、ある時点からは、国債の利子を払い続けるためにこそ、国債を発行し続けるという構図となっていきます。危険とわかっているのにその危険なことにズルズルのめり込んでいったのです。
 ところが、これでも焼け石に水の類で、このままでは、即デフォルト(債務不履行)ということではないが、民間にそれを賄うに足る貯蓄がない場合は、そのままに放置していおけば本当の国家債務不履行となりかねません。そこで、国債を発行してドル資金を調達できなくなった政府は、その苦しさから、事態打開を目指して通貨ルーブルの切り下げ、民間対外債務の支払い凍結といった荒療治に出ます。
 そこで、次に、これ以後、具体的な経過がどうなっていったのかかを、少し振り返ってみましょう。
 1998年7月24日にはロシアは公定歩合を60%に引き下げました。8月13日、株式相場急落で取引所が一時停止となりました。これを憂慮した主要7か国(G7)とIMF当局者がロシア経済問題で緊急電話会議を行いました。1998年8月17日、ロシア政府はルーブルを対ドルで最大24.7%切り下げました。具体的には、ルーブルの目標相場圏を1ドルが6.2ルーブル・プラスマイナス15%の水準、すなわち5.25~7.15ルーブルから同6.0~9.5ルーブルへ切り下げました。また、民間対外債務(非居住者へのローン、証券担保付きローンの返済に係るもの)を17日から90日間猶予(モラトリアム)を発表しました。三番目として、非居住者に対して、彼らがルーブル建て債券投資をすることへの制限がありました。四番目としては、1999年末までに償還期を迎える短期国債を中期国債へと切り替えるルーブル防衛措置が取られました。
 1998年8月17日からの混乱の中で、改革派のキリエンコ首相は「これはデフォルトではない。期間をのばすだけだ。」と事態の沈静化を図りましたがうまくいきませんでした。その頃の新聞報道によれば、それまで国債の購入について政府に協力的であったロシアの産業金融集団(FIG)の中にも国債消化など政府・金融当局の財政運営、そして国内経済の先行きに懐疑的になるところが出てまいります。
 「さらに過去2年間政権に協力的だった民間銀行、エネルギー企業などの離反が目立ち始めた。IMFに約束した短期国債発行停止は国内銀行の利潤の元を絶つことになるし、徴税強化に対しては国内最大企業のガスプロムをはじめ有力企業が抗議の声を上げている。これらの議会や財界の大部分が政権の方針にそっぽを向いたことが今回の金融危機の背景にある。」(日本経済新聞、1998年8月18日)と。
 こうして、1ドルが9.5ルーブルに下落(一説には、8月17日のその日のうちに1ドルが6.3ルーブルから9.5ルーブルへと変化した。)。ロシア政府は対ドル為替取引の不成立の宣言を宣言しました。8月27日、ロシアは外国為替取引を全面停止しました。9月7日、ロシア政府は再度の対ドル為替取引の不成立の宣言し、これにより1ドルが30ルーブル以下に為替相場が下落しました。
 当然の事ながら、ロシアの銀行には市民が預金払い戻しに殺到しました。日本の新聞各紙も8月17日「両替所に列をなすモスクワ市民」を写真で報道しました。銀行の多くは、窓口を閉めるか、預金の払い戻しに応じたものの、資金の枯渇により、営業停止へと追い込まれていきました。そしてこの間も、政府はルーブル紙幣を印刷するため輪転機を回しつつルーブルを増刷し続けました。国内商品市場での急速なインフレーションはやむところを知りませんでした。

(続く)

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♦️829『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(その前史、1997~98年6月)

2017-10-17 12:18:14 | Weblog

829『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(その前史、1997~98年6月)

 ソ連解体後のロシア連邦の経済は、おおむねトンネルを抜け出せないまま、推移していきます。そんな中でも、金融面は、1992年7月、外国為替の複数相場制から中央銀行公表レート制へ移行しました。1993年7月、旧ソ連邦ルーブル紙幣から新ロシア・ルーブル紙幣への切り替えがありました。1995年1月、財政赤字の中央銀行借入れを禁止しました。短期国債発行方式に移行しました。同年7月、外国為替において、目標相場圏(コリドール制)を採用しました。
 そして1996年6月、ロシアとしてIMF8条国となりました。毎日新聞は、このことを伝えています。
 「日本が国際通貨基金(IMF)8条国になった。これにより国際収支の悪化を理由にした為替取引制限ができなくなり、民間が行う外国との資本取引や輸入貿易制限がほぼ30年ぶりに解かれた。円は交換可能通貨になった。本格的な開放経済体制移行に際して、政府はとくに声明を出し、先進国への仲間入りを宣言、国民の協力を求めた。経団連など財界各団体も決意を明らかにした。」(1964年4月1日付け毎日新聞より引用。)
 そして迎えた1997年4月、外国人(非居住者)による国債投資の段階的自由化が開始となりました。参考までに、この間の消費者物価上昇率推移(対前年比)(外務省ホームページより)は、次のとおりでした。1992年:26.1倍。1993年:9.4倍。
1994年:3.2倍。※1995年はデータがありません。1996年:21.8%。一進一退で、推移していましたから、庶民の生活はさぞかし大変だったでしょう。
 1992年1月の価格自由化を境にハイパーインフレーションが起こり、1995年まで継続しました。その後、1998年の財政金融危機後に再び増加を見ました。そして、1997年を迎えた頃、その間政府の財政はますます多額の国債を継続的に発行することてだ賄われるようになってきていました。そうした鳴り物入りのロシア国債を国内で買ったのは、ロシアの金融産業グループ(FIG)が筆頭でした。塩原俊彦氏の論考によれば、1997年4月1日現在のFIG内銀行の国債投資残高、及びその額の1996年10月1日の残高からみた増加率は、づきのようなものでした。
 「①ナショナル。リザーブ銀行4412(100万ルーブル)、ー2.99%。②オネクシム銀行2564、681.72%。③国際金融会社(MFK)1013、188.72%。④インコム銀行3439、75.13%。⑤インペリアル銀行479、ー24.44%。⑥SBSアグロ4869、68.20%。⑦モスト銀行212、189.84%。⑧アルファ銀行1288、271.32%。」(塩原俊彦「現代ロシアの政治・経済分析」丸善ブックス、1998)
 こうして中でロシアは1998年を迎えていました。1998年1月1日をもって、ロシアは従前の1000ルーブルを新1ルーブルとするデノミネーションを実施しました。
 1998年5月半ばから短期国債の利回りが40%程度から118%程度まで急上昇しました。7月22日、連邦財務省が短期国債の新規発行オークションを中止しました。7月24日になると、IMF(国際通貨基金)による第一トランシェ48億ドルの割り当てがありました。8月12日には、7月7日に取り決められていた世界銀行からの構造調整融資の15億ドルのプログラム枠の中から3億ドルを借り入れました。
 1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。この状況のもとで、7月13日にはMF(国際通貨基金)などによる総額約230億ドルの国際金融支援が合意されました。伊藤光晴氏は、こうのべています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)

(続く)

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♦️828『自然と人間の歴史・世界篇』1995~1999年の世界金融とロシア金融危機(国際的視点から)

2017-10-17 12:16:45 | Weblog

828『自然と人間の歴史・世界篇』1995~1999年の世界金融とロシア金融危機(国際的視点から)

 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが第二期クリントン政権の財務長官に迎えられました。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばくという離れ業を次々としていったのでした。
 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていきます。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破しました。1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に
警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫きました。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ株価は1999年3月には10000ドルを突破しました。
 海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
しかし、このように金融大国への波に逆流もあったのは事実です。その中で、ひとたびこの波が逆になるとどのようなことになるかを教えてくれたのが1998年7月から9月にかけてのロシア金融危機でした。
 これより先、1997年からのアジア金融危機では、米英の金融機関とそれの意を汲むIMFは自らの影響力と利益拡大のために奔走していました。その傍らで、彼らはロシアに「黄金」を見つけていました。しかし、そのロシアに金融危機が近づいてくるに及んで、状況は一変します。そして迎えた1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。そして迎えた7月13日、IMFなどによる総額約230億ドルの国債緊急融資を合意しました。伊東光晴氏は、こう論評しています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 さて、かれら米英を中心とする金融機関の中で得意な位置を占めていたのが、ヘッジ・ファンドの面々でした。その中でも、米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)でした。
 このCTCMの最大の収入源は、ロシアの国債とアメリカの国債を巡っての裁定取引(さや取り)でした。それは、簡単な例で言うと、投資家は性質(満期までの期間、クーポンレート、信用度)が似通った両方の債権を市場から探し出します。まずはアメリカの利回り10%の国債を買い入れる、としましょう。それから、いま割高感のあるアメリカ国債を売っておき、その一方で割安感のあるロシアの利回り20%の短期国債を買っておきます。この場合、支払い不能になる可能性がより高い代わりに高い利回りが期待できるの債権A(「ジヤンク債」)がロシアの国債であり、利回りは安いものの安全性に勝る債権Bとの間に発生する理論値からの乖離を利用して膨大な利益を上げていくのです。
 このことを、具体的な簡単な例でなぞってみることにいたしましょう。その後時間が経過して市場が動き、米国債の利回りが年20%とロシア国債のそれとの差が同一となり(または縮まり)(他の条件は変化なしとして)、両者の関係が理論値価格に届いたら、こんどはアメリカの国債を買い戻し、ロシア国債を売りますと、その差額分(収益)から取引手数料を差し引いた分が投資家の利益となるでしょう。CTCMは「平均で30倍以上」のレバリッジ(取引金額/保証金)で投資家の資金をかき集めて投資を行い、そこから莫大な利益を得ていました。ところが、いまロシアに金融危機が起きて、ルーブルそのものの価値がドルに対して暴落するようになると、ルーブル建てのロシア国債の利回りは急上昇することになり、本来は縮まるはずの両者の金利差が逆に拡大してしまうことで、利益が上げられなくなったのです。 
 ここにリスクの顕在化に直面化した投資ファンドがジャンク債=ロシア国債を大量に手放そうとしたために事態は悪化していきました。そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来て、外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちはそれらの債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちのロシア国債以外のアメリカ国債などの債権や株式のたたき売りを始めました。
 こうしたロシア金融危機の進展により、米系金融機関は大きな痛手を受けました。中でも、ヘッジファンドの雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 1998年8月17日、ロシアがついに債務不履行(デフォルト)か、という事態に見舞われました。その結末については、1998年8月23日の日曜日、政府のルービン財務長官とFRBのグリーンスパン議長が取り持った、ニューヨーク連銀11階の会議室での金融機関14社の集まりでCTCMへの資金拠出で支えていくことが決まったことでした。後にグリーンスパンがキャピタル・ヒルの銀行委員会公聴会で「席を貸しただけで、政府機関として具体的な救済に乗り出したわけではない」と言い張ったように、あくまで民間による民間の救済を実現すめるために仲介の労をとった、ということでしたが、その会議を事実上主導したのはニューヨーク連銀のピーター・フィッシャー副総裁であり、彼は各社の代表を前にして、連鎖的な倒産を回避するには、「LTCMの破たんは絶対に避けなければならない」ことを言い放ったと伝えられています。
 このロシア発の金融危機は、ニューヨークばかりでなく、ロンドン、香港、シンガポールも、モスクワも、フランクフルトも、世界の名だたる金融市場のほとんど至るところで、動きがありました。その後も数回にわたる14金融機関の会議の後、「「14社が均等に2億5000万ドルずつ出し合って、総額35億ドルの緊急資金を注入する」という線で、なんとか折り合いをつけたのではないかといわれているところです。その直後ですが、1998年10月、ロシアで投資に失敗したヘッジファンドが損失を削減するために、ドル売り・円買いに入りました。まさに、やられたらやり返すといった彼らのしたたかさを、ここに垣間見ることができます。」(拙ホームページ「アメリカの政治経済社会の歩み」より抜粋)

 以上述べてきたことをまとめると、およそ、つぎのようになるのでしょう。海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
 そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来る外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちは債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちの債権や株式のたたき売りを始めました。米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 こうして通貨ルーブル安がさらなる債券安、株安を次々に誘発していったと考えられるのです。こうした場合、彼らヘッジファンドの面々が事の発端をなしたとしても、その波紋が広がるにつれ連鎖的な損失を内外のあらゆる層の投資家たちに及ぼしていく。それを裏付けるかのように、ヘッジファンドのCTCMの巨額の損失に対して、そのCTCMに投資していた米国系の銀行が債権回収できなくなる事態を見込んで、FRB(米国連邦制度理事会)が動き、具体的に言うと、ニューヨーク連邦準備銀行総裁の要請で1998年9月23日、アメリカ大手証券会社と銀行が会合し、ゴールドマン・サックス、メリル・リンチ等の金融機関16行が数千億円規模の緊急融資をして、これが米国発「世界金融恐慌」に発展する芽を摘んだとされています。

(続く)

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