124『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の東西への分裂
379年、ローマ帝国にテオドシウス1世(379~395)が、東の皇帝として即位する。彼は、侵入するゴート族をひとまず食い止めた後、かれらとの和解に漕ぎつける。ゴート族は、「同盟者」として帝国内での定住を認められる。その彼の宗教政策は、殊の外厳しかった。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出す。392年年には、異教信仰を処罰することを打ち出す。その後に西帝をめぐる内紛も鎮め、394年には「四分統治」をやめてローマ帝国最後の統一を果たすまでに、覇権を築き上げる。この間、反乱や何かで自分に刃向かう者に対しては、厳格に対処していく。
そのテオドシウス帝が395年に死ぬ。遺言により、17歳の長男アルカディウスが東側を、11歳の次男ホノリウスが西側を再び分割統治することになる。東側は、コンスタンティノープルを首都とする。そして西側は、以後、ミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承していく。
ところが、西ローマ帝国の方を引き継いだホノリウスは、政治には疎い人物であったらしい。こちらの方では、その後もゲルマンの侵入や勢力拡大が激しかった。西ゴート族はアラリック王が出て、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回る。
そして、西ローマ帝国は、アラリック王のイタリア侵攻に押される形でラヴェンナに遷都するにいたる。そうなってからのイタリア全土は、ますますもって西ゴート族の軍隊に蹂躙される。それでも西ローマ帝国の将軍スティリコの活躍で、アラリックと対戦してアラリックの侵攻を再度にわたって阻止する。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままであったという。
反スティリコ派の面々は、元老院と官僚の多数派を形成していた。彼らは、成人になったホノリウス帝を権威付けるべく、408年、スティリコ将軍に罪を被せて処刑してしまう。果たして彼らは、本当に国のためを考えて事を起こしたのであろうか。そしてホノリウス自身は、ここに名ばかりの王になり替わるのであった。優秀な守り人を失った西ローマ帝国を軽んじて、アラリックはイタリア侵攻を再開する。
そして迎えた410年、彼の軍はローマ市を陥落させ、大いなる略奪行為を行う。アラリックはこの年に没したが、ホノリウス帝との協約により、418年には、西ゴート族はイベリア半島において、西ゴート王国(418~711)を築くにいたる。
その後からは、ヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んできては、住処を広げていく。西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的な統治はせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいとなっていく。こうなると、どうにもならない空気となっていく。423年にホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命が続く。傭兵として雇われたゲルマン人が、将軍となることにもなっていく。
451年からは、民族大移動の原因をつくったフン族の大王アッティラの軍が西ヨーロッパに侵攻してくる。西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦うものの(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握るところでもあったので、傭兵隊長は皇帝の権威も代弁するにいたっていく。そして迎えた476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケルは、前の傭兵隊長の子であるところの、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、その後をオドアケル自身はイタリア王位(476~493)を名乗るにいたったことで、西ローマ帝国はついに滅亡するのであった。
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆