682『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのグレナダ侵略
経済学者にして、長くイギリスに暮らしていた森嶋通夫は、アメリカのグレナダ侵略を
こう評している。
「1983年秋以後、彼女の対ソ外交は変化し始めたと見られうる。グレナダ事件では、彼女はアメリカの実力行使に反対したが、キューバやソ連を強く非難しなかった。
ついでにいうならば、日本人はグレナダ事件から学ぶべきである。グレナダ侵攻に際して、レーガンが事前にサッチャーに電話した時、彼女はグレナダと同じ「連邦」に加盟している国の首相として侵攻に反対の意向を表明したにもかかわらず、レーガンは「グレナダはアメリカの裏庭だ」と称して武力で共産勢力を島から一掃した。英米のように「親類」の間柄でもこういう有様である。(中略)
なおレーガンは「アメリカが行ったことは侵略ではなく救出作戦である。イギリスは誤解している」と言っていたが、「たとえ目的は正しくとも手段は選ばなければならぬ」というのがイギリスの立場であるから、誤解しているのは、アメリカであると言わねばならない。」(森嶋通夫「サッチャー時代のイギリスーその政治、経済、教育ー」岩波新書、1988)
これは当時のスクープであって、親密な間柄といわれたアメリカとイギリスの間でさえ、事安全保障問題となると、アメリカは自分の裏庭のことだがら、好きなようにやらせてもらう、という訳なのであったらしい。
(続く)
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681『自然と人間の歴史・世界篇』フォークランド戦争(1982)
1598年、オランダ人が初めて上陸しました。1764年にはフランス人が東島に上陸、一方西島にはイギリス人が上陸しました。その後、今度はスペインがフランス人から東島を購入するとともに、西島からイギリス人を追い出しました。イギリス人は西島を取り戻しましたが、それもつかの間再度スペインに奪回されてしまいました。
1820年、スペインから独立したリオ・デ・ラ・ラプラタの連合州(現在のアルゼンチン)、フォークランド諸島の領有を宣言しました。1824年になると、同島をマルビーナスと名付け、総督を任命して統治を始めました。スペインはこれより先の1811年には、同島の放棄を宣言していました。イギリスはと言えば、1829年に連合州の統治
に対抗して戦端をひらき、1832年に西島を、その翌年には東島を武力で奪還しました。
1833年、フォークランド諸島が英国の支配下に置かれる。以降、現在まで、同諸島は英国の領土であり続けている。1845年、スタンリー(Stanley)が正式にフォークランド諸島の首都となりました。
それから、さらに時が流れていく。1965年、国連総会が決議第2065号を採択しました。この中で、英国とアルゼンチンの両国に対しフォークランド諸島の領有権問題について平和的な解決策を探る交渉を行うよう促しました。1966年、国連の呼び掛けを受けて英国とアルゼンチンがフォークランド諸島の領権有問題について協議しました。しかし、双方が譲らず協議は不調に終わりました。
そして迎えた1982年3月中旬、アルゼンチンの業者がサウス・ジョージア島に上陸しました。イギリス側からみると、アルゼンチン人がフォークランド諸島を占領したわけで、黙っていられない。これを巡って英国とアルゼンチンの間でフォークランド紛争((マルビーナス諸島紛争)が持ち上がる。続く4月2日にはアルゼンチン軍がフォークランド島に上陸しました。イギリスのサッチャー内閣は、これを許すまいと、キャリントン外務大臣を更迭し、大艦隊の派遣を即決しました。そして両軍は、戦闘を始める、これを「フォークランド戦争」と呼ぶ。
1982年6月、フォークランド(マルビーナス)諸島紛争での戦闘ですが、英国の勝利に終わりました。1983年12月 アルフォンシン大統領就任し、民政移管しました。1989年7月、メネム大統領が就任しました。
(続く)
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693『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(輸出大国・日本への影響)
円の対ドル相場の上昇はどのような影響を日本経済に及ぼしたでしょうか。円相場の上昇が26円/ドルから140円/ドルへと(260-140)/260=46%上昇したとしましょう。輸出は日本の輸出事業者Aと米国の輸入事業者B、また輸入は日本の輸入事業者Cと米国の輸出事業者Dとの取引としましょう。輸出入の金額はそれぞれドル建てで10万ドルとしましょう。
まず輸出に付いてみると、260円/ドル×10万ドル=140円/ドル×18.6万ドルとなって、Aの円手取額が左辺の2600万円であったものが、円高後は140円/ドル×10万ドルとなるので、そのままでは差し引き1200万円の減収となるでしょう。
Aは依然の円手取額を維持するには、輸出価格の引き上げは(18.6万-10万)/10万=86%とならねばなりません。この事例において、仮に輸出品の円建て輸出価格が日本側のコスト削減によって20%引き下げられたとしましょう。そうすると、2600万円×0.8=2080万円となって、140円/ドルの新相場の元でのドル建て輸出価格は、本来なら18.6万ドルに引き上げなければならないところを、14.9万ドルへの値上げに圧縮できることになります。
そこでもし、この間に米国の同じ製品の製造コストが何らかの要因によってこれを上回って上昇するならば、当該製品の対米輸出競争力は減退するどころか、強化されるでしょう。もしこのような状況が日本の主要な対米輸出品について起こり続けることなるなら、このメカニズムはとめどもなく進行することになります。
輸入についてはどうでしょうか。Cが輸入手形を決済するために必要とされる円資金は、円高以前は10万ドル×260円/ドル=2600万円でした。それが円高後には10万ドル×140円/ドル=1400万円となり、差し引き1200万円の円資金の節約ができます。
もしCにとっての輸入採算、つまり仕入れ原価が2600万円とすると、輸入商品の国内販売価格を1200万/2600万=約46%まで値引きできることになるから、その分需要が増大する可能性が出てきます。あるいは、Dに対して2600万/140円/ドル=約86%までドル建て輸入契約価格の引き上げに応じられるでしよう。
円の対ドル相場の上昇が我が国の債券市場に及ぼす影響としては、国内の企業によるドル建て債券の発行による資金調達が増えます。つまり、ドルなどの外貨に向かっていた資金が国内に還流して円での資金供給、つまり円での資金運用に向けられるのであるからドル売り・円買い→ドル安・円高になる→日本国内での債券の購入が増える→国内金利は低下への道筋となります。
これに対して、今後円高が見込まれるのであるから円での資金需要、つまり円での資金調達は減少、代わってドルでの海外の企業や投資家による日本国内の資金調達、債券取得の動きが活発になります。これはドル売り、円買い→ドル安→ドル安・円高になる→日本国内での債券発行の減少から、この面からも国内金利は低下に向かうことになるでしょう。円高を好感して債券利回りが低下するというのもこの同じ文脈での出来事といえるでしょう。」
(続く)
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692『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(その経緯)
1980年代半ばからの、円高下の国際通貨制度についての国際協調について、丸尾(筆者)の説明にこうある。
「80年代も後半になると、国際通貨制度をめぐる調整の動きが増しました。
85年9月、G5(ニューヨーク)で、主要通貨の対ドル・レートの上昇が望ましいとの認識のもとに政策協調で合意しました。
86年5月の東京サミットで。経済指標を勘案しつつ政策協調わ推進するため、G7を創設。G5も存続で、サーベイランス10指標を例示しました。
86年9月、日米蔵相会議(ニューヨーク)で、米国が日本に内需拡大要求しました。
86年9月、G5とG7(ワシントン)。日独が主導で成長重視の経済運営をめざす。
86年10月、日米蔵相共同新聞発表。円・ドル相場はおおむね現在の基礎的条件と一致した水準であると言明しました。
87年1月、日米蔵相会議(ワシントン)で、為替相場の安定を再確認。ドル安には共同介入も辞さずの構えでした。
87年2月、G5とG7がパリで開かれ、G7にはイタリアが欠席。これ以上のドル下落は各国の成長に有害。サーベイランスの主要項目はインフレ率、成長率、国際収支、財政収支、金融情勢、為替レートであると表明しました。
87年4月、G5とG7がワシントンで開かれ、2月のパリ合意を再確認。サーベイランスは各指標を政策調整にどう活用するかかを幅広く討議しました。
87年6月、ベネチアサミット。為替相場の一層の変化は成長の逆効果との認識で一致しました。
(続く)
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696『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(アルゼンチンの1980~1990年代)
アルゼンチンについては、どうであったのだろうか。この国では、1983年6月、アルゼンチンで1/1,000のデノミを実施する。通貨単位がペソ・レイからペソ・アルヘンティーノへ変更となる。1985年6月、アルゼンチンで1/1,000のデノミネーション(通貨単位の切下げ)が実施される。通貨単位がペソ・アルヘンティーノアウストラルに変更となる。1988年、アルゼンチンでハイパー・インフレ(急激な物価上昇)が起き、インフレ率が数千パーセントに上昇する事態となる。
そして迎えた1991年3月27日、アルゼンチンは「兌換法」を公布し、以後11 年間に亘り維持することになる。これは、通貨ペソを1米ドルに交換することを保証し、固定相場制を採用するとともに、通貨の発行に外貨準備の裏付けを与えることで通貨の信頼性向上を図ろうとするものであった。米ドルとの固定相場を維持するようになったため、通貨ペソはドル以外の通貨に対してドルに連動して変動することになり、その当時強いドルを標榜する米国政府の為替政策の影響を引きづられることになったのは否めない。
このような自国通貨ペソの高値推移は、貿易相手地域として大きな比重を占める欧州通貨に対しても起きていく。また、1991年1月には最大の貿易相手国であるブラジルの通貨切り下げと変動相場制への移行があった時には、アルゼンチンのペソはブラジル・レアルに対してもペソ高に転じる。これらは、アルゼンチンの輸出競争力を相対的に低下させ、貿易収支が赤字傾向を深める結果をもたらす。1992年1月のアルゼンチンにおいては、今度は1万分の1のデノミを実施する。通貨単位がアウストラルからペソに変更になり、米ドルとのペッグ制も始める。
それからのアルゼンチン対外経済については、貿易の約3割を依存するメルコスール(南米南部共同市場)域内での貿易・投資がアルゼンチンの対ブラジル貿易黒字の増加を伴って拡大していく。このことで、1995年のメキシコ債務危機以降のアルゼンチンへの投資が増え、そのことで経済が発展させる役割を果たす。しかし、1999年初にブラジルが大幅な通貨切り下げを伴う変動相場制に移行してからは、アルゼンチンのブラジルへの輸出は転機を迎える。これに対し、1991年4月、アルゼンチンは1ドル=1アルゼンチンペソのドルベック制をとるにいたる。
(続く)
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695『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(ブラジルの1980~1990年代)
1989年、ブラジルは1/1,000のデノミを実施し、通貨単位がクルザードから新クルザードに変更される。翌1990年、財政破綻でブラジルがデフォルト(債務不履行)の事態に陥る。総額620億ドルは、国債破綻としてこの時期までとしては史上最大規模であった。1991年1月には、ブラジルでは通貨レアルの大幅な切下げが行われる。年率で約3,000%というハイパー・インフレを招く事態にもなる。同年3月には、ブラジルで預金封鎖が行われる。1993年、ブラジルが1/1,000のデノミを実施し、通貨単位がクルゼイロをクルゼイロ・レアルに変更となる。1993年3月、ウルグアイで1/1,000分のデノミが行われ、通貨単位がウルグアイ・ペソに変更となる。
参考までに、この間のブラジルの債務の積み上がりだが、1992年末で1211億1000万ドル。1992年2月の主要債権国会議(パリ)において、公的債務のうち36億ドル強の繰り延べで合意しいた。1993年12月、日米欧の債権銀行団との間で350億ドルに新債務削減戦略(ブレデイ構想)を充てることで合意に漕ぎ着ける。
1994年、その対外債務の積み上がりに喘ぐブラジルが1/2,750のデノミを実施し、通貨単位もクルゼイロ・レアルからレアルに変更する。1994年7月、ブラジルは、物価安定化政策「レアルプラン」を導入し、市中の通貨をすべて米ドルにリンクした新通貨に切り替えるにいたる。同月から1999年1月にかけて、ブラジルはドルペッグ制(目標相場圏制)に依る。このブラジルでのドルペッグ制採用により、ブラジルでは、1994年に2,700%であったインフレ率が、1997年には年率4.8%と沈静化に向かう。そこで、通貨当局は新通貨レアルによる通貨安定に動く。1997年後半に入ってからは、アジア通貨危機、そして1998年のロシア金融危機などの影響により、ブラジルにおいても外国資本の流出が発生し、だんだんにそれが増えていく。
1998年秋、ブラジルの経済運営は「自転車操業的」と言われ、1999年1月までに350億ドルの資金が引き揚げられました。外貨準備は300億ドルに減少した。レアル下落の背景には、GDPの8%といわれる財政赤字があった。1998年11月、415億ドルのブラジルへの国際的支援がなされる。
それからのブラジルの政策当局は、金利の引上げや財政の緊縮策などの対策を行なったが、それでも金融不安はやまず、1999年1月13日、ブラジルは、事実上の通貨切下げを打ち出す。その幅は、従来二重に設けられていた変動幅のうちの狭い変動幅を廃止し、広い変動幅を下限の比較で約7.6%切り下げるものであった。1月15日、ドルに連動してきた通貨レアルが事実上の変動相場制に移行する。1月18日、中央銀行がこれを正式に表明する。1998年11月からの国際支援の決定後にも資金の流出が続いていた。そのため、1994年から続けてきた「レアルプラン」を放棄せざるをえなくなる。
この当たりの事情については、次の説明がなされている。
「ブラジル経済は欧米などの投資を誘致し、外資系企業を中心とした成長を続けてきたが、その際の「決め手」になったのは、レアルをドルとほぼ固定させた為替管理であり、かも国内金利を高水準に維持することによって国際投資家にとりあえずの「ローリスク・ハイリターン」を保証したことであった。ところが、1998年秋の世界的な金融市場の混乱によって、ブラジルの「自転車操業的な経済運営」への警戒感が台頭し、99年1月上旬までに350億ドルの資金が引き揚げられ、外貨準備は約300億ドルへと急減した。」(「中南米の経済と西半球主義」)
ブラジルの政策当局は、金利の引上げや財政の緊縮策などの対策を行なったが、それでも金融不安はやまず、そのため1999年1月にはブラジルはそれまでの固定相場制を放棄し、変動相場制へ移行する、その結果、レアルは大幅に下落する。これより先、1994年末には同じ中南米のメキシコが変動相場制に移行していた。
(続く)
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403『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・デンマーク)
1397年、マルグレーテ1世の下、北欧三国によるカルマル連合(~1523)が成立する。1660年、絶対王政の時代であった。1849年、憲法が発布され、二院制議会となる。
そして迎えた第二次世界大戦の時代。ドイツ占領軍へのデンマーク国民の非服従については、次のように語られている。
「政府が民衆の脆弱な抵抗しか期待しえないような場合、あるいは占領が被占領国の関与しない戦争との関連で行われ、侵略者が直ちに政府を転覆しようとはしないような場合には、「協力なき適応」という、より柔軟な政策が、犠牲を最小におさえて、時の経過とともに成功を収める可能性をもつかもしれない。
1940年から43年のあいだドイツ占領軍にたいしてデンマーク政府のとったコースがその適例である。なるほど、デンマーク政府は適応政府の枠内において、ドイツ側に外交や経済上の譲歩を行い、義勇軍(主としてデンマーク・ナチスからなる)の結成や反コミンテルン同盟への加入などを余儀なくされた。しかし、立法・司法・行政などの諸機構は占領軍の直接統制を免かれ、合法的政府の保護のもとに民衆全体の「ナチス化」を阻止し、ナチス協力者を孤立化させた。
こうしてドイツ軍の干渉から自由な分野を確保することによって、のちの全国民的な抵抗の拠点をつくりだすことが容易となった(U・ボッホ「1940年ー43年のデンマーク政府の政策ー「協力なき適応政策」のモデル・ケースとして」エーベルト編「市民的抵抗」所収、1970年)。
この段階のデンマークの事例は、むろん「市民的防衛」にとって模範的なものとはいえないかもしれない。しかし、特定の状況においては、協力と全面的抵抗とのあいだに受け入れられる中道がありうることを示すものであろう。」(宮田光雄「非武装国民抵抗の思想」岩波新書)
(続く)
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