23『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活
縄文期の東日本の遺跡の多くでは、複雑な紋様の入った、独特の風貌の縄文式土器が沢山見つかっている。その中には、新潟県篠山遺跡(十日町)出土の深鉢形土器や国分寺出土の俵形甕(かめ)、それに亀ヶ岡式土器に代表されるような芸術的作品に近いものもある。それらは写実的なというよりも、情念の赴くままに隆起をつくったり(隆起紋)、穴やくぼみをこしらえたりで、まさに空想の所産と見え、どちらかといえば「爬虫類の脳」より前頭葉のなせる技であるとでもいっておきたい。
とりわけ新潟の信濃川中流域(新潟県十日町市、津南町や長岡市などの信濃川沿い)出土のものは、なかなかに独特であるとされる。この遺跡からは、これを含む928点が出土しているそうで、中には煮炊きに使った材料の「おこげ」が付着しているものもあるとのこと。人々は火を使っていた。かれらは、土器に食材を水とともに放り込んで煮炊きすることにより、アクやエグさや苦み、さらには毒抜きをして食べることをしていたのであろうか。
そんな縄文式土器の中での代表格が、十日町市篠山遺跡から出土したという深鉢型土器にして火焔型土器(国宝にして「縄文雪炎」の愛称で知られる、十日町市博物館所蔵)であって、約5000年前の縄文時代中期(紀元前3500~紀元前2500)の作陶と推定される。この縄文雪炎だが、高さは46.5センチ、最大径は43.8センチとなっていて、縄文人たちが日常生活に食事用として用いていたと理解してよろしいのか、どうなのだろうか。その写真を観ると、「縄文」の命名であるのに、「縄の目の跡はあまり強く残っていない。縄を押しつけてできた文様ですら、一部消した様子さえうかがえる」(雑誌『ノジュール』2017年9月号、JTBパブリッシング)とのこと。
全体の造形としては、筒状の下の部分は平凡に感じられる。その上に、あれやこれやの、一種名状しがたい形をした上部が載っているのが、特徴的だ。まずは、突起が宙を目指すかのようにそそり立つ。四方にせり出した鶏頭冠(けいとうかん)状把起や、複雑に波打った縁に鋸状の突起がせり出している。それらの突起は規則正しい並び方はしてなく、得体の知れない何やらがうねりながら、それぞれが自己主張しているかの様。2番目の特徴は、縁取りがあることだ。それは、飾りたてられており、この縁に口をつけて中のものを飲み干すのには、苦労が伴うことだろう。この土器などは、さながら「俺はここんいるんだぞ」と何かを訴えているのであろうか。
この列島には他にも多種な縄文土器が伝わっており、これらの写真をじっと眺めていると、縄文時代とは、私たちが普通に考えているような貧しく、厳しい日常かぎりであったのではなく、人々が感覚で感じる時間は比較的緩やかに流れていたことが覗える。生物学者の福岡伸一氏も、縄文時代の人々は、案外、ロマンに綾取られた豊かな精神世界に生きていたのではないかと推測しておられる。
「しかし、時間がとうとうと流れていた縄文期にはー縄文時代は1万数千年も続いたー今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々ともつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのです。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があったのです。
狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の我々ほど長時間、労働に身を捧げていたわけでもありません。縄文の民の実労働時間を正確に知ることはできませんが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2~3時間ほどの労働によって、集団は社会生活を営んでいるそうです。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていたのでしょうか。鼻を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは子どもと遊んだりして楽しく暮らしていたのではないでしょうか。」(福岡伸一「生命の逆襲」河出書房新社、2013より)
とはいえ、当時の人々の暮らし向きは、現代とは様変わりの原始的生活に近いものであったろうし、寿命も一般には、精々30台くらいものでしかなかったのではないかと考えられる。この時期の日本列島人なるものは、本格的な農耕は行わないものの、単なる採取や狩猟の経済に留まらず、某かの食料栽培や家畜の飼育を行いつつ、それらにまつわり縄文式土器を多用するという、世界にほとんど類例のない「縄文文化」を築いていった。そのユニークさを評価しつつも、大局的に見た縄文人の生活の自由さとは、あくまでこの時代の限られた時空の中での一コマとして考えられるべきだと思う。
(続く)
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