♦️391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、~1931)

2017-10-08 20:42:11 | Weblog

391『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズムへの道(ドイツ、1919~1931)

 はじめに、ファシズムの語源は大層古い。もともとは、古代ローマに先立つエトルリア時代の「ファスケス」を発祥とし、斧の周りに木の棒を束ねたものを指していた。

 しかして、古代ローマの共和制政治下では、護衛官はこれを担いで独裁官や執政官といった権力者の後ろを歩く習慣があったのだと。これからすると、まさに「威を借る」の類であり、「俺はこれだけの権力を手にしているのだ」ということを人民大衆に知らしめていたのであろうか。
 

 1919年1月には、ドイツ労働者党が結成される。アドルフ・ヒトラーは、同年9月に、この小政党の内情を探るよう軍から派遣されて入党する。

 1921年2月には、ヒトラーがこの政党の党首となり、1920年2月に党名変更していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の舵取りを引き継ぐのであった。

 同年、ワシントン軍縮会議が開かれる。1922年4月、イタリアのラッパロでドイツ共和国とロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国(ソヴィエト・ロシア)との条約、通称「ラッパロ条約」が結ばれた。この条約は、革命後のソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約であり、またドイツも国際的孤立から脱出する狙いを込めた。

 1922年10月24日、ナポリでムッソリーニの率いるファシスト党大会が開催され、4万人のファシストたちが ローマへの進軍を行い。かれらの狙いは、国王により強力な政府を樹立することであった。

 1923年1月、フランスとベルギーが語らって、ドイツ領ルール地方へ進駐する。ドイツによる、ヴェルサイユ条約による賠償金の支払いが滞っていることをもって、占領を正当化しようと目論んだもの。


 ドイツでは、経済混乱があった。1923年11月15日を期して、ドイツのレンテン銀行が不換紙幣を発行した。第一次世界大戦中から始ったドイツのインフレーションの最中であった。当時は、金準備が不足していた。そこで、土地を担保とした不換紙幣としてレンテン銀行から発行し、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと引き換えた。これによってインフレが鎮静に向かうと、1924年からは金準備に基づくライヒスマルクに切り替えられた(詳しくは、例えば、塚本健「ナチス経済」東京大学出版会)。


 ドイツでは、1923年11月、ヒトラーが、ミュンヘン一揆をおこす。かれらは、賠償金そのものの支払いに反対する。

 1924年、ロンドン会議でドイツの賠償金軽減を内容とするドーズ案が承認される。

 1925年には、陸軍元帥であるヒンデンブルクが右翼政党の帝国大統領統一候補になり、次いで大統領(~1934)に就任する。この時の彼は、一応、憲法への忠誠を誓った。1925年12月、ロカルノ条約が締結される。これで、西部国境の不変更と中欧の安全保障体制を目指す。

 1926年9月、ドイツが国際連盟に加入する。1927年には、失業保険法がつくられる。

 1928年6月、ミュラー(社会民主党)の主導下による大連合内閣が成立する。久しく野党であった社会民主党から人民党までの幅広の政権が生まれたことで、24年からの相対的安定期が続くかに思われていた。同じ1928年、パリ不戦条約が締結される。1929年6月、ヤング案の調印が行われ、先のドーズ案が修正され、ドイツの賠償支払いが新たに規定された。7月には、ヤング案に対する反対闘争にナチスが合流する。


 1929年10月には、世界大恐慌が起こる。この時は、へルマン・ミュラー保革連合内閣の時代だった。

 そのヨーロッパのドイツでも、生産の急落と大量失業が現実化していく。ドイツの支払う賠償金の重要な出元がアメリカからの借款(しゃっかん)であったことから、これにより経済復興に精を出し、イギリスとフランスに賠償金を支払い、それを元手にこれら2国がアメリカに借金を支払うとのサイクルがやせ細っていく。

 ドイツでは、1930年3月、そのへルマン・ミュラー大連合内閣が崩壊する。同年9月の.総選挙で国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス党、)が帝国議会選挙で躍進し、第2党となる。当時は、ブューニング内閣の時代。

 また、この年には、ドイツの賠償支払いにつき、ヤング案が発効となる。1930年になると、ロンドン軍縮会議が開催される。1931年10月、ナチスを含めた右翼が国民戦線を結成する。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


♦️157『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル系4国の盛衰

2017-10-08 09:22:10 | Weblog

157『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル系4国の盛衰

 モンゴルの国家は、初代のチンギス・ハン((?~1227)の死後、様々な変貌を遂げていく。その中心となるのが中国を支配する、クビライ・ハーンを宗主(そうしゅ)とするモンゴル帝国・元(げん、中国読みでユアン、1206~1368)であったが、それ以外にも、大まかに四つのモンゴル系国家を形成していく。その一つは、イル・ハン(イル・ハーン)国(ウルスともいう、以下同じ)で、1258年にアッバース朝の首都ダマスクスを破壊してからは、当地の現状に馴染んでいく道をたどり、やがてティグリス、ユーフラテスの二つの川流域とイランの山岳地帯を支配するにいたる。都はタブリーズ(イラン西部)と定める。二つは、モンゴルのチャガタイ家がたてたチャガタイハン(チャガタイハーン)国(1227~1370)で、シリダリアとアムダリアの川流域を支配する。三つは、オルダ・ハン(オルダ・ハーン)国で、イルティシ川流域を版図とする。四つめは、キプチャク(ジョチ)・ハン(キプチャク(ジョチ)・ハーン)国(1226~1502)で、ヴォルガ川周辺を統治するにいたる。
 これらのうちイル・ハン国(1255または1260~1335)は、西アジアに進出したフラグ(在位は1255~65)が建国する。本国宗家(そうけ)のモンケ・ハンが急死し、1260年にフビライとアルクブケがともにハン位についたことで、カラコルム帰還をあきらめて西アジアにウルス(国家)を建設することを決意したものといわれる。ここに「イル・ハン」の「イル」とは、トルコ語で国のこと、これに「ハン」(「大ハン(ハーン)の代理人」)をくっつけている。チンギス・ハン以来のモンゴルの正式な血統を標榜することで、この名を権威の象徴としていた訳である。
 その統治の形としては、なかなかの知恵者であったろう。他の三つのアラブ以西に進出した国家と同様に、ここでもモンゴル人たちは自分たちの宗教を持ち込まなかった。それどころか、他の三家とともどもイスラム(イスラーム)教に改宗し、イスラム世界での主要なムスリム勢力として、いわば社会の上部構造を占めるにいたる。こうして「モンゴル人第一主義」を掲げながらも、統治の基本としては現地の慣例なりを重視するとともに、現地の人間力を使っていくというやり方を編み出していく。
 フラグが死ぬと、その子アバガが第2代ハンとなる。1270年にチャガタイ・ハン国のバラクがホラーサーン地方に侵攻したのを撃退する。つまり、この代になると、モンゴル人同士が戦うことも出て来る訳だ。アバカは、イランを中心に、イラク、シリアを支配しても飽きたらず、エジプトを本拠とするマムルーク朝(1250~1517)と対立する。1278年には小アジア(現在のトルコの一部)のルーム・セルジューク朝を属国とした。北方のキプチャク・ハン国とも、アゼルバイジャンやコーカサス地方の領有をめぐって対立したのが伝わる。さらに東に向かっては、デリー・スルタン朝があったが、特段の動きはなかった。
 その後は、だんだんにイスラーム化していき、その過程で国力もだんだんに化向いていく。1335年、第9代のアブー・サイードが宮廷内で皇后に殺害されるという事件が起きる。ここでフラグの血統が絶え、イル・ハン国はなくなったと見るのが一般的だ。それからは、王朝を支えていた諸侯はそれぞれ継承権を主張して争い、留まることがなかった。1353年にはトルコ・モンゴル系やイラン系の地方政権が各地に割拠抗争するようになって、国家としての一体性が失われていく。15世紀にはティムール朝(ティムール帝国. 1370~1405、中央アジアから西アジアを支配したイスラーム教国家でティムールが一代で築いたものの、彼の死後ほどなく崩壊)に吸収される。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆