♦️150『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

2017-10-07 19:29:58 | Weblog

150『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

 アッバース朝(750~1258)は、イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫を世襲のカリフとする、アラブ国家である。その支配は、西はイベリア半島から東は中央アジアまで、北アフリカの一部も支配に入れていく。ウマイヤ朝に続く、このアッバース朝の血統だが、ウマイヤ家に対抗したイスラームの有力一族だといえる。ムハンマドと同じハーシム家の一族に属し、ムハンマドの叔父のアル・アッバースの血統だといわれる。ウマイヤ家に対する反発が強くなる中、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭して来るのである。
 ともあれ、イスラーム世界を統治するカリフの地位をアッバース家が奪い、今度は自分の家の中で世襲していくのである。ウマイヤ朝の血統は根絶されたらしい。新王朝の都は、第2代マンスールからバグダッドに定める。顧みれば、ウマイヤ朝のは「アラブ至上主義」であった。それが、アラブ人以外のイスラーム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まった。そのことを梃子として、アッバース家のクーデターが成功した、その意味を込めて、この変革を「アッバース革命」ということもある。
 アッバース朝からは、内政にも工夫が見られる。アラブ人だけに依存しない国造りを目指していく。官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してゆく。アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラーム帝国の維持に努める。こうして、イラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラーム帝国」の段階に入っていく。
 アッバース朝の最盛期においては、中央アジアでは中国の唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。しかし、その一方でウマイヤ朝の残存勢力が遠く西方のイベリア半島に自立し、756年にその地で「後ウマイヤ朝」を建国する。8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、ハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。しかし、9世紀以降のイスラーム世界は分裂の傾向を強くしていく。バグダッドでの実権は諸侯へと流れ、カリフ支配は形骸化していく。イベリア半島の後ウマイヤ朝に続き、エジプトのファーティマ朝が10世紀初めにカリフを称するに及んで、3人のカリフがならび立つことになる。
  946年には、首都バクダッドにおいて、イラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062)が成立する。そのことで、アッバース朝のカリフの地位さえもが名目的な存在となってしまう。1055年には、セルジューク族がバグダッドに入城してカリフを救出する。それからは、セルジューク朝のスルタンがカリフから政治権力を貰い受ける形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになっていく。
 11世紀末の十字軍時代には、アッバース朝のカリフはバクダードの周辺を治めるだけになっていた。セルジューク朝とファーティマ朝が対立していた。それらのため、イスラム勢力は、一致して十字軍と戦うことができなかった。キリスト教勢力がパレスティナにエルサレム王国を建てることを許すにいたる。イスラーム勢力の反撃を実現したサラーフ・アッディーン(サラディン)が、アイユーブ朝を建てたものの、その彼の死後は、カリフを保護する力はなくなる。13世紀に入ると、西の方からモンゴルの勢力が攻めてくる。1220~31年、モンゴル軍による最初の大規模攻撃が行われる。帝国内のいくつもの都市が破壊されていく。
 1256年、モンゴル系のイル・ハン朝が、現在のイランとイラクの地を支配するにいたる、そして迎えた1258年、モンゴル軍は首都バグダッドを攻撃する。40日間の攻防の後、首都は陥落し、破壊された。アッバース朝カリフのムスターシムは投降したものの、「皮の袋に封じ込まれ、バクダッドの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」(牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書)とも、「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である」(D.ゴードン著、杉山正明・大島淳子訳『モンゴル帝国の歴史』1986)ともいわれる。

(続く)

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♦️149『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)

2017-10-07 19:28:31 | Weblog

149『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(ウマイア朝)


 アラブ世界の正統カリフ時代(632~661)に続くのが、イスラム勢力のウマイア朝(661~750)である。これに至る前段の630年代には、彼らはチグリス・ユーフラテス河畔一体を支配する。642年になると、ササン朝ペルシアを、イラン高原からカスピ海南方に追いつめ、撃滅する。一方、東ローマ(ビザンツ)帝国に対しても、攻撃を行う。エルサレムからシリア方面、またエジプトのナイル川下流を攻撃して手に入れる。
4代にわたる「正統カリフの時代(632~661)」を過ごして、その領域は、東はインドと接し、西はアフリカ北岸をカルタゴにまで到達するという、驚くべき勢いであった。
 その数年前の656年から661年にかけて第一次の内乱をくぐり抜けるのだが、この間アリーなる人物がイスラム教団の正統カリフ時代第4代のカリフの座にあった。ムハンマドと同じくメッカのハーシム家の出で、ムハンマドの娘ファーティマの夫となっており、内乱の初年にカリフ・ウスマーンが暗殺された後、ムハンマドに最も近いということでカリフに選出される。
 そもそも、この王朝の初期のカリフたちは、まだ専制君主というにはふさわしくなく、族長の集合、その共同体の代表者としての色あいも兼ね備えていた。最初の礼拝の方向であったのは、エルサレムであり、ムハンマドの教えを忠実に継承していくのを心得ていた。曰く、「前ムスリムは兄弟であり、互いに争ってはならぬ」と。アラブ世界は、この頃から、この地域で覇を唱えるには、ムハンマドの創始したイスラム教抜きには考えられなくなっていく。
 そんな訳で、正統カリフ時代のカリフは信者の互選で選出されていた。それが、657年には、シリア統治の任に当たってのし上がってきたムアーウィヤが、4代目アリーをカリフから退位させて、エリサレムに陣取って自らカリフを名乗るにいたる。661年には第4代カリフのアリーが、ハワーリジュ派の過激派に殺害されてしまう。
 この一連の出来事により、カリフの地位はこの一派に移って、都はマディーナからシリアのダマスクスに移され、ウマイア(ウマイヤ朝)が成立する。この新王朝の下で、カリフの地位は世襲とされ、初代のムアーウィヤ1世以後、ウマイア家が代々世襲していく。しだいにカリフの地位を巡って、ウマイア家のカリフを認めるスンニ(スンナ)派と、第4代カリフの子孫のみをカリフと見なすシーア派の対立が激しくなっていく。
 680~692年にかけて、ウマイア朝に第二次の内乱が起こる。きっかけは、ムアーウィヤが死去しカリフの地位をその子ヤズィードが跡を継ぐ。すると、アリーの次子で後継者のフサインが、クーファなどのシーア派の支援をとりつけ、ウマイア朝に反旗を翻す。しかし、カルバラーの戦いの戦いでウマイア朝軍に敗れイラクへ落ち延びる途中で、フサインは従者と共に殺害された。これは「カルバラーの殉教(悲劇)」と呼ぶ。ムハンマドの血統をひくアリーとその子フサインの死によってシーア派は少数派(「シーア・アリー(アリー党)」と名乗る)としてイラクなどに追いやられる。
 フサインの死後、ウマイア朝のカリフが相次いで若死にしたためにその支配はしばらく不安定な状態が続く。683年からメッカを拠点としたイブン・アッズバイルがカリフを称し、ウマイア朝に反旗を翻す。これを正統カリフ時代末期の第一次内乱(656~661)に次いで、第2次内乱(683~692年)ともいう。しかし、ダマスクスのウマイア朝で第5代カリフとなったアブド・アルマリクがメッカに討伐軍を派遣し、さしもの内乱も終束に向かう、そして各地のアラブ族長に対し服従を求めることでウマイア朝の力が行き渡っていく。その流れで、専制君主制が確率していくのであった。その時期からのウマイア朝は外征を展開し、大帝国を作り上げていった。その結果、西は中央アジアからイラン、インダス流域に至る領土拡張を実現するにいたる。
 その後も、ウマイア朝の領土拡大の意欲は失われなかった。まず北方では中央アジアのソグディアナに進出、さらにイスラムの勢力は西方征服を進め、アフリカ北岸のビザンツ勢力を駆逐してチュニジアなどを獲得し、ついにはジブラルタルを越えてイベリア半島に侵入した。また、東はインダス川流域に進出してインドのイスラム化の端緒となる。さらに、彼らは東ローマ帝国(東ヨーロッパ)やフランク王国(西ヨーロッパ)、ローマ教皇などのキリスト教世界にも矛先を向ける。732年にはピレネーを越えてフランク王国内に侵入したが、トゥール・ポワティエ間の戦いではカール・マルテル(後のカール大帝)の率いるフランク軍に敗れた。また東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを覗うが、激戦の中での東ローマ軍の抵抗により、失敗に終わる。
 ウマイア朝時代の経済については、なかなかの興隆となっていく。貨幣経済が発展したということは、それを必要とする交換経済が成立していたことを物語る。アター制によって国家機構が整備されていく。その下では、アラブ人のみならず、多くの異民族、異教徒を含むこととなり、アラブ人とそれ以外のイスラム教徒(イラン人、トルコ人など)との関係が問題となり始める時期でもあった。そのような中でウマイア朝では征服活動の先兵となったアラブ人戦士が貴族として支配階級を構成した、これを「アラブ至上主義」の先駆けと見なす向きがある。また、アラビア語を公用語として定められたことで、この時代を「アラブ帝国」の最初と見る向きもある。
 このように一世を風靡したウマイア朝であったが、8世紀からは非アラブのイスラム教徒であるマワーリーやシーア派の反発が強まり、それらを背景に台頭したアッバース家によって、ウマイア朝は750年に滅ぼされ、アッバース朝が成立する。

(続く)

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