790『自然と人間の歴史・世界篇』ユーゴスラビア社会主義の崩壊と市場経済化(連邦国家ユーゴスラビアの解体)
第二次大戦後、自主管理社会主義を標榜していたユーゴスラビアは、冷戦崩壊後、多難な足取りへと入っていく。1989年以降、ユーゴスラビア経済は、市場経済化プログラムを策定する。これは、ハイパーインフレーションに代表される経済危機の克服プログラムと、本格的な市場経済導入=経済体制転換プログラムの2つのサブ・プログラムから構成されていた。しかし、その本格的展開を待たずして、ユーゴスラビアを構成する6つの共和国の間、あるいはそれぞれの中での民族的な動きが大きくなっていく、ついには、それが連邦国家としてのユーゴスラビアの解体へと向かっていく。
それまで、6つの共和国がユーゴスラビア憲法を構成していた。それが、1991年~1992年にかけて、連邦の解体・再編に伴いスロベニア・クロアチア・ボスニア‐ヘルツェゴビナ・マケドニア各共和国が分離・独立していく。残るセルビア(ボイボジナ・コソボ2自治州を含む)とモンテネグロの2共和国には、動揺が広がる。
具体的には、こういうことであった。1990年5月、保守派共和国だけで開いたユーゴスラビア共産党大会において、党の指導性を放棄するとともに、新党結成に向けた宣言を発するに至る。かつてチトーの率いた前衛勢力としての共産党は、その指導的役割を終える道を選択したことになる。1991年6月にユーゴスラビアからのスロベニアが、また同月クロアチアがそれぞれユーゴスラビアからの独立を宣言する。
1991年11月15日、連邦議会の共和国・自治州院は、マルコビッチ首相とロンチヤル外相の不信任決議案をセルビア派議員だけの出席で議決する。11月18日には、クロアチア最高評議会は、クロアチアから連邦幹部会に出していたメシッチ連邦幹部会議長の引き揚げを決定する。1991年12月には、マケドニアがユーゴスラビアからの独立を宣言する。
1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナが、ユーゴスラビアからの独立を宣言する。4月27日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であるセルビア(ボイボジナ・コソボ2自治州を含む)とモンテネグロの2共和国とは、ユーゴスラビア連邦共和国の建国を宣言する。これを「新ユーゴスラビア」と呼ぶ。その狙いとしては、セルビアとモンテネグロらを元として、この時点でもボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアを領土拡大の目標とする。
しかし、それも長くは続かない。2003年には国名をセルビア・モンテネグロに改称したものの、2006年6月、最後までユーゴスラビアに残っていたモンテネグロが、国民投票を経て、セルビアからの分離独立の独立宣言を行う。これにより、旧ユーゴスラビアは6共和国に完全に解体するのであった。モンテネグロの離脱により、セルビアは単独の国として歩み始める。セルビアの首都ベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで、一貫して連邦の首都であり続けたのだが、こうして、その役割を終えた。
1999年、セルビアのコソボ2自治州で、コソボ紛争が激化する。これは、この自治州で人口の約9割を占めるイスラム教徒のアルバニア系住民が独立を目指して、キリスト教徒のセルビア系住民と戦うにいたる。この紛争では、NATO(北大西洋条約機構)軍がセルビア側を空爆する。この攻撃にたまりかねたセルビア軍はコソボから撤退する。その後のコソボは、しばらく国連の暫定統治下に置かれることになる。
コソボ紛争のその後については、2008年、コソボが一方的に独立を宣言する。2017年11月現在の政府の構成は、アルバニア人武装勢力だった人物が多数の要職を担っているという。これまでに独立を承認した国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど約110か国に上る。その一方、セルビア、ロシア、中国などが非承認のままである。
(続く)
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