♦️460『自然と人間の歴史・世界篇』ガーナ

2017-12-04 23:25:47 | Weblog

460『自然と人間の歴史・世界篇』ガーナ

 現在のガーナ共和国(1957年3月6日に独立、旧宗主国はイギリス)は、西アフリカに位置し、国土は比較的小さい。イギリス連邦加盟国である。東にトーゴ、北にブルキナファソ、西にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。
 このあたりの支配をめぐっては、8~11世紀に存在したらしいガーナ王国がある。サハラ砂漠の南縁のニジェール川上流域、現在のマリとモーリタニアの国境地帯にあったのではないか。
 15世紀からは、ヨーロッパ諸国が相次いでやってくる。1482年、まずやってきたのはポルトガル人、エルミナなど各地に要塞を築く。次いでイギリス、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ドイツなど。「押し合いへし合い」といったところか。17世紀前半にオランダがポルトガル人の築いた要塞を攻め、ものにしていく。そのオランダも、16世紀後半から沿岸部に進出してくる。
 この両者の植民地争奪には、現地のアシャンティ王国とファンティ王国が介在していた。
この両国の角逐(かくちく)は激しい。アシャンティ王国は、17世紀後半に創設されており、奴隷の供給者としてのし上がる。一方、ファンティ諸王国は、1844年の協約によってイギリスの保護下に入る。1868年には、ファンティ国家連合を結成する。要は、イギリスの力も借りてこの地を治める。1874年の4回目の戦争で、アシャンティ王国は完敗を喫し、オランダが所有していた要塞は、ことごとくイギリスの領有するところとなる。
 イギリスは、これを踏まえ、ゴールド・コーストを本格統治すべく、立法審議会と行政審議会を設置する。領審議会でのアフリカ人議席の増加要求、土地、税制などをめぐって現地の政治運動が起こる。それもあってか、かれらは1997年に原住民権利擁護協会をつくる。それからは、イギリスの独壇場と化す。1898年のフランスとの条約により、北部と西部の国境が、1899年にはドイツとの間で東部国境が画定する。そして迎えた1901年、イギリスは、すでに傀儡化(かいらいか)していたアシャンティ王国の領土を、ゴールド・コースト植民地に併合する。「保護領」扱いとしたのだ。
 1920年には、弁護士のケースリー・ヘイフォードが中心となりイギリス領西アフリカ民族会議(NCBWA)を創設する。この組織が彼の死とともに消滅すると、運動は1930年に創設のゴールド・コースト青年会議(GCYC)、西アフリカ学生同盟(WASU)などによって担われていく。そして第二次世界大戦が終わると、1947年に創設の統一ゴールド・コースト会議(UGCC)が政治運動の前面に立つにいたる。そこへのアメリカ留学を終えたン・クルマが帰国する。彼は、請われてこの組織の書記長に就任する。その後の彼らは、1949年にUGCCの青年組織を母体に会議人民党(CPP)を創設する。
 そのCPPは、1950年にゼネストを組織する。1951年の立法審議会選挙では、CPPは38議席中34議席を得て圧勝する(UGCCは3議席)。エンクルマは、政府事務首席に就任する。翌年には、首相に名称変更。1957年3月、ガーナはアフリカ諸国のなかで西欧諸国の植民地支配からはじめて独立する。英連邦内の自治領としての独立であった。なお、この時にあわせ、イギリス領トーゴランドも前年の住民投票の結果を受けガーナ領に組み入れられる。さらに1960年7月に共和制を採用し、ン・ンクルマがガーナの初代大統領に就任する。
 ン・クルマは少数部族の出身である。彼は、ガーナ最大のアシャテティ系住民との融和に心がけ、初代大統領となることができた。
 その独立式典での彼の演説の一節はつぎのようなものであった。
 「今日新しいアフリカが生まれた。それは自らの闘いを引き受け、黒人は自らの問題を自身で解決することができるということを世界に示す新しいアフリカだ。我々は再び闘いに身を捧げる。アフリカ諸国解放の闘いだ。我々の独立派アフリカ大陸の完全解放に結びつかなければ無意味なのだ。」
 しかし、彼のそうした思想の妙なる前進は、国内に於いて確実なる広がりにかけていった。1966年2月 軍・警察によるクーデター(ン・クルマ追放)の背景について、一説には、「年とともに独裁制を強め、アシャティ人にも反発が生まれてきた」とのこと。結局、1966年、彼が中国訪問中に軍部クーデターによりン・クルマが失脚し、亡命する。本国では、しばらく軍政が続く。しかし、1968年10月になって民政に移管する。

(続く)

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♦️459『自然と人間の歴史・世界篇』リベリア

2017-12-04 23:24:09 | Weblog

459『自然と人間の歴史・世界篇』リベリア

 リベリア共和国は、西アフリカに位置する。西アフリカに位置する。北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はモンロビア。宗主国(そうしゅこく)を持たない、アフリカでは珍しい国だ。
 これまでの歩みとしては、19世紀初頭、アメリカより解放された奴隷の移住地となる。1822年、アメリカ植民教会が解放奴隷と奴隷船から救出した奪還奴隷を、モンロビアに入植させる。以来、アメリカから移住してきた元奴隷の数は2万人にものぼった。彼らは、敬虔なキリスト教徒であり英語を自由に操り、アメリカ式の生活スタイルと価値観を身につけていく。そして迎えた1847年7月、リベリアは平和裡に独立する。現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国であ
 彼らは、リベリアの新たな支配層を形成していく。この新たな支配層は、混血入植者を支持基盤とする共和党と黒人入植者が支持する真正ホイッグ党に分かれる。両者は、世の常であろうか、激しく利権を争う間柄になっていく。その意味では、彼らの台頭は、元からそこに住んでいたアフリカ人にとっては形を変えた植民地支配となったのは、否めない。 彼らによる支配を受けたのは、大西洋岸のバイ人、グレボ人、クル人、内陸部のクペレ人、キッシ人、マンディンゴ人といった土着の人々である。土着の社会だか、「年齢階梯制に基づく長老支配や、ポロ(男子用)、サンデ(女子用)といった秘密結社を核としながら独自の展開を遂げていた」(宮本正興+松田素二編「新書アフリカ史」講談社新書)
 これを、アメリカ系アフリカ人のリベリア政府が放っておく筈はない。軍隊を送り、続いて弁務官を派遣して支配に務める。それでも、「米などの食糧の強制供出(これは1960年代まで続いた)、人頭税の徴収、私有農園での強制労働といった圧政に抗して、数多くの反乱が起こった。とくに1910年代は、クル人、グレボ人の大規模な武装抵抗が頻発し、リベリア政府はアメリカ艦隊の援助を受けてようやく鎮圧した」(宮本正興+松田素二編の同著)のだという。
 1989年から2003年にかけてのリベリアは、断続的に2度の内戦を経験する。これらにより、人びとの生活は厳しいものになっていく。

(続く)


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