♦️196『自然と人間の歴史・世界篇』イギリス絶対王政

2017-12-29 10:37:03 | Weblog

196『自然と人間の歴史・世界篇』イギリス絶対王政

 1485年、バラ戦争に勝利して即位したヘンリー7世に始まり、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリ1世、エリザベス1世と続く、15世紀末から16世紀のイギリスの王朝をテューダー朝という。
 まずは、最初のヘンリ7世(在位は1485~1509)だが、バラ戦争を収束させたことで、それまでのヨーク朝に代わってのテューダー王朝をひらく。ランカスター家出身だが、ヨーク家の女性と結婚することで、自らの権威を獲得する。
 では、なぜそのようなことが可能になったのか。顧みれば、バラ戦争は1453年に始まり、1485年までの32年間にわたって続けられた。その実は、イギリス国内の貴族間の内乱であり、彼らが赤バラと白バラを紋章とする二つの王家、ランカスター家とヨーク家とに分かれて争った血なまぐさい戦いなのであった。
 ともあれ、この戦いの最終局面のボズワースの戦いにおいて勝利をおさめたため、彼に新たな王位が与えられる。それゆえ、彼を祖とするテューダー朝はこの時創設された、といって良い。
 このように幸運を掴んで登位したヘンリ7世であるが、なかなかの策士でもあったことが窺える。国王直属の星室庁裁判所を設け王権の強化に努める。イギリス絶対王政の基礎つくり、その彼は、重商主義の政策をとることで国富を増やそうと目論む。特に、毛織物産業の発展を目指して、羊毛の関税を高くすることで、外国商人の羊毛購入を制限したり、毛織物製品の輸出奨励をすすめる。スペインの毛織物産業が1570年以降衰退したのに対し、イギリスからの製品輸出はますます増大する。
 二代目のヘンリ8世(在位は1509~1547)は、イングランドのみでなくウェールズ、スコットランド、アイルランドの統治権も行使し、イギリスを一つの主権国家としての統合を進めた、バイタリティのある君主である。宗教面では、より露骨な立ち回りを演じる。すなわち、ルターの宗教改革には反対し、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられる。
 ところが、この蜜月は長く続かなかった。ヘンリー8世は、王妃カトリーヌとの離婚問題でローマ教皇と対立するにいたる。ありていにいえば、若く美しい妃にとって替えようというのであったのではないか。1534年に首長法(国王至上法)を制定して、イギリス国王を教会の首長とする、イギリス国教会制度を創設する。ローマ教皇との決別である。これに絡んで、ローマ・カトリックの立場から離婚に反対した人文主義者のトーマス・モアは、1535年に断頭台で処刑される。王権拡張の障害となる修道院を廃止する。自己の地位を脅かしかねない貴族層の力を弱めるとともに、官僚的政治機関を配置する。絶対王政の基礎を築く。
 その後のエドワード6世(在位は1547~1553)は、ヘンリ8世の唯一の男子。9歳で即位し、16歳で死ぬ。年少であったゆえ、その治世において実権を握っていたのは、叔父にあたる摂政とその側近たちであった。議会で一般祈祷書が制定され、国教会の礼拝方式を整備するのたが、取り巻きたちがよってたかって王の行動を逐一監視し、誘導したのは否めない。
 さらにメアリ1世(在位は1553~1558)は、イギリス王室最初の女王となる。ヘンリ8世の娘であり、生まれながらの女王というべきか。母キャサリンがカトリックであったため、彼女もこれに従う。それまでのイギリス国教会を否定してカトリックに復帰するのであった。宗教的妥協ということであったのかもしれない。スペインのフェリペ2世と結婚してからは、態度がこわもてとなっていく。すなわち、プロテスタントを弾圧しては殺害を繰り返し、民衆からは「血塗られたメアリー」と恐れられるのだが、短期政権であった。
 エリザベス1世(在位は1558~1603)は、ヘンリ8世の娘で母はアン=ブーリン。メアリーの死去により女王となり、中庸的な宗教政策をとる。イギリス国教会を復活させる。そのため、カトリック教会からは、大層嫌われたというのだが。1559年、それまで廃止されていた首長法を復活させ、さらに統一法を制定して一般祈祷書による儀式の統一を図る。国王を宗教上の最高権威に据える一方、国境への服従を国民に強制する。政治力学にいう勢力均衡に取り組み、議会を巧妙に利用しつつ、イギリス絶対王政の体制を確立させていく。
 その一方では、1588年、オランダを支援してスペインと国交を断絶する。スペイン国王フェリペス2世とヨーロッパの覇権を争う。そして迎えた1588年、海上でスペインのスペイン・アラメダ(無敵艦隊)を破り、海上支配の基礎を固める。1600年には、東インド会社を設立する。その彼女が、同時代人のシェイクスピア(1564~1616)の戯曲を愛したのは、つとに知られる。彼女は、生涯結婚せず後継者が無かったので、これにて116年間持続したテューダー王朝に幕が下りる。
 彼女の後は、1603年に、遠縁にあたるスコットランド国王ステュアート家のジェームズ1世がイングランド王を兼ねるにいたる。というのも、ステュアート朝は、1371年以来スコットランドの王朝であったから、その名前を継いだことになる。彼は、絶対王政の強化を図り、ジェントリ層を中心とした議会と対立していく。
 当時のイギリスの社会事情について、池上忠広氏の論考には、こう紹介される。
 「1603年疫病が再発し、神の怒りの表れと考えられた。宮廷生活の堕落は悪名高く、財政状態は混沌に陥っていた。旧来の社会的差別も無差別な騎士授勲や昇進で崩れてきた。1605年は世に「暗黒の年」(Black Year)と呼ばれ、役者はあつかましくも舞台上で国家や宗教などを風刺し批判した。1605年11月5日有力なカトリック教徒による議会爆破を企んだ火薬陰謀事件(Gunpower Plot)が発覚し国内を震駭させた。悪い徴候とみなされた日食や月食が続いて起こった。1606年にはさきの大事件に関係したガーネット神父(Father Garnet)の裁判そして処刑があった。このような同時時代人に一般的にみられた運命論や厭世思想が当時のシェイクスピア劇に暗い影を投じていたことであろう。」(池上忠広「悲劇」:池上忠広ほか「シェイクスピア研究」慶応義塾大学通信教育教材、1977)
 その強引な政治手法は、1642年にピューリタン(清教徒)革命が起こって、王の独裁が倒されるまで続く。

(続く)

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