451『自然と人間の歴史・世界篇』エジプト
エジプト共和国(通称エジプト)は、中東・アフリカの共和国。 西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。首都はカイロ。
その文明の歴史は、世界有数に古い。ざっと紐解くと、紀元前32世紀頃には、統一王朝が成立する。紀元前1世紀より、ローマ帝国領となる。
4世紀より東ローマ帝国(ビザンツ帝国)領に組み入れられる。7世紀からは、イスラム化が進む。16世紀、オスマン・トルコ帝国領に組み入れられる。19世紀初頭より、オスマン・トルコ帝国のムハンマド・アリ・パシャの下で近代化が進む。
1869年には、スエズ運河が開通する。これに力を化したのは、フランスであった。だが、この運河建設のためのエジプト財政の悪化があり、エジプト太守(副王)イスマイルが、スエズ運河株式会社の株17万6600株をイギリスに売却する。当時のエジプトは、対エチオピア、スーダンと戦争していた。そのため、自力での財政再建は如何とも成しがたい状況であったのかもしれない。これで、イギリスは同社の総株式の約20分の9を確保し、20万7000株をもつフランスと並ぶ。
1880年頃からは、エジプト人民の間に立憲制の確立と外国支配の排除を求める運動が芽生え、発展していく。これが国民党(祖国党)の運動に流れて行く。この人民の「エジプト人のエジプト」のスローガンは、オスマン・トルコの支配にも向けられる。人びとの先頭に立ったのは、農民出身の陸軍大佐オラーピーであった。イギリスは、これを利用して、オスマン・トルコの力を削ごうと努める。その矢先の1882年6月、およそ50人のヨーロッパ人がエジプト兵により殺される。この事件を「アレクサンドリア蜂起事件」と呼ぶ。
これを重視したイギリスは、本国から艦隊を送って、オラーピーの軍を壊滅させる。かくてイギリスは、エジプトの単独支配へと動く。一方、フランスはインドシナ問題を抱えており、イギリスの独走を許す事になる。一説には、「ここでの勢力を失ったことが、ファショダ事件やエチオピアへの介入にもつながっている」(岡倉登志「アフリカの歴史ー侵略と抵抗の軌跡」明石書店、2001)ともいわれる。
1922年、イギリスより、王制の国として独立する。1952年、ナセル率いる自由将校団によるクーデターが勃発する。これにて共和制国家となる。
1979年年、イスラエルと平和条約を締結する。この結果、アラブ連盟の資格停止となる。
1981年には、サダト大統領が暗殺される。ムバラク副大統領が第四代大統領に就任する。これ以降、ムバラクによる独裁政治が続く。
1990年、湾岸危機において多国籍軍に参加する。2005年、ムバラク大統領5選となる。2011年、大規模反政府デモが発生し、ムバラク大統領が辞任する。2012年には、ムルスィー(モルシ)が大統領に就任し、イスラム色の強い、非民主的な残滓かが色濃く残る憲法草案を発表する。そして、新憲法が成立する。これに、多くの国民が反発。自由と民主主義の拡充、生活安定をめざして、各地で国民のデモが相次ぐ。
今度は、軍部が動くにいたる。彼らは、それまで事態の推移を静観していたのだが、勢力挽回を思い立ったであろうことは、想像するに難くない。2013年7月2日、エジプト軍によるクーデターが発生する。ムルスィー大統領は2日夜の演説で「命を懸けて正統性を守る」と述べて、退陣を拒否する。これに対して、エジプト軍は3日未明に、大統領を捕える。
エジプト軍司令官を兼務するシシ国防相は、3日夜、国民向けにテレビ演説を行う。その内容だが、反政府デモ拡大による混乱を収拾するため憲法を停止する、大統領の権限をはく奪し、最高憲法裁判所長官が職務を引き継ぐというもの。ここに力を誇示した軍部が中心となり、マンスール暫定大統領の下で暫定政府が成立する。
この日を境にモルシ派を公職から一掃していく。大統領は失職させられ、イスラム主義に則った改革は頓挫する。そればかりではない、軍事政権は矛先を民主主義者にも向け、国民一般を弾圧し、独裁色を強めていく。
2014年1月、国民投票を経て、修正憲法が施行される。2014年6月、大統領選挙が行われる。エルシーシ前国防相が大統領に就任する。2015年10月~12月、議会選挙が実施され、2016年1月に議会(代議院)が設立される。
(続く)
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468『自然と人間の歴史・世界篇』タンザニア
タンザニア(1961年12月9日に独立、旧宗主国はイギリス・国連信託統治領、1964年4月26日にザンジバルと統合して、国名をタンガニーカから「タンザニア」に改める。)は、東アフリカに位置する。イギリス連邦加盟国である。地理的には、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接す。また、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国がある。また長い海岸線でインド洋に面し、その対岸にはマダガスカル島が横たわる。
こちらの自然でめずらしいものとしては、「乾期に赤く染まるアルカリ性の湖、ナトロン湖」(三浦英樹、協力は瀬戸浩二「色彩豊かな水の風景」:雑誌「ニュートン」2015年9月号)がある。このナトロン湖だが、ケニアとの国境に近いタンザニアの最北端にある。この周辺には火山が点在していて、湖底や湖の周囲にミネラル(無機塩類)を含む水が流れ込む。湖面は強いアルカリ性を呈しており、多くの生物にとって苛酷な環境らしいのだが、乾期になって塩分濃度が増すと、好塩性微生物の一種である藍藻類(らんそうるい)が大繁殖し、湖面を赤く染めることで知られる。
このナトロン湖の奇抜な色あいがなぜそうなっているのかについては、別の角度からの説明もなされている。これによると、「湖底からわき出てくる天然の炭酸ナトリウムによって湖水面が赤褐色に染められたナトロン湖。ナトリウムやカリウムに富んでいる炭酸塩岩を噴出するために、アフリカ大地溝帯上の火山はしばしば湖面を白色や赤褐色に染める」(「GEOGRAPHIC竹内均の世界の旅ーアフリカ」:雑誌(「ニュートン」2000)だという。
さて、タンザニアの近代の歩みとしては、1881年にドイツ領となる。1984年には、ドイツ植民会社がこの地域に進出してくる。この会社は、翌年の1885年にドイツ東アフリカ会社に衣替えする。1986年には、イギリス、ドイツの間での境界線協定で、このあたりの内陸部はドイツの勢力範囲であることが認められる。1890年らは、ドイツの正式な植民地となる。
アフリカ人の内陸部においては19世紀頃から小国家をつくろうとする動きも散発的に出てくる。1905~07年には、マジマジの反乱が起こる。そんな中でも、今度はイギリスの力が増してくる。1920年、イギリスが覇権をつかみ、イギリスの委任統治領となる。このあたりの動きについては、こう批評される。
「タンガニーカ」(当時)の民族運動の始まりにはいくつかの説があるが、第一次大戦後、ドイツ領の植民地から国際連盟委任統治のイギリス領になった1920年代と考えられる。1920年代後半に、教育を受けた公務員や教員を中心に成立したアフリカ人教会(AA)が次第に成長し、1954年のタンガニーカ・アフリカ人民連盟(TANU)の結成に至るのだが、その過程は順調ではない。キリマンジャロのコーヒー栽培をめぐる紛争やメル土地紛争、ダル・エス・サラームでの港湾・鉄道労働者のスト、ビクトリア湖地方のポール・ボマニなどに率いられたワタ栽培者組合の成長などを踏まえて、留学帰りの若きニエレレが登場するのである。」(栗田和明・根本利通「タンザニアを知るための60章」明石書店、2006)
要は、民族としての意識の高まりがあったとはいえ、戦後しばらくまで植民地支配に対抗するまでには至っていなかった。事実、イギリスの統治は1920年7月に正式に発効し、この統治領は「タンガニーカ」と呼ばれる。当時イギリスの植民地経営の念頭にあったのは、「サイザル麻プランテーションの発達と、アフリカ人小農によるコーヒーや綿花の生産の進展があり、ヨーロッパ人の入植は抑制された」(伊谷純一郎他監修「アフリカ事典」平凡社、1989)ともいわれる。
第二次世界大戦後には、イギリスもさすがに植民地にそのまま固執する訳にはゆかなくなる。タンガニーカは国際連合の信託統治領なる。1950年代に入ると、アフリカ全体からの民族運動の高まりの影響が、この地にも押し寄せて来る。1954年には、タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)が結成される。ニエレレが党首となり、国連に独立を訴えるなどの活動を行う。国際世論が傾いたことで、イギリスもこれに同調スルことに方針転換するにいたる。
1961年12月、タンガニーカ共和国として独立を果たす。ニエレレが初代の首相となる。1962年、共和制に移行し、ニエレレが大統領に就任する。一方、ザンジバルは、タンガニーカ独立から2年後の1963年12月、イスラムのスルタンを国王とし、イギリスからの独立国としてのザンジバルをつくる。しかし、1964年1月にこの国でクーデターが起き、スルタンなどのアラブ勢力は追い出される。そうしてからの1964年4月、タンガニーカ・ザンジバルの合邦での国ができ、10月にはタンザニア連合共和国と国名を改める。
(続く)
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266『自然人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易
15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。
(続く)
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