458『自然と人間の歴史・世界篇』リビア
リビアは、北アフリカに位置する共和制国家である。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面している。海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。
16世紀半ば、エジプトから北アフリカ一帯に、オスマン帝国が進出してくる。リビアにおいても、1551年、キレナイカからトリポリタニアがこの帝国の支配下に組み入れられる。1578年、トリポリ・ペイ領としてオスマン帝国の直接支配下に入る。1711年、土着化したオスマン軍人によるカラマンリー朝(~1835)による支配にとってかわる。1835年、オスマン朝による支配が回復する。1863年、同朝により、トリポリ、ベンガジの2州制が施行される。
1912年、イタリアがオスマン帝国からこの地を奪う。20世紀の第二次世界大戦下の1942年、イギリス軍とフランス軍がこの地でイタリア軍を撃破する。イギリスは、
イギリスはトリポリタニアを、フランスはフェッザーンを占領する。
大戦後のリビアを語る上で、暴力的な権力移行を避けては通れない空気がしだいに醸成されていく。1951年12月、リビア連合王国(イドリース王国)として独立を果たす。国王は、サヌーシー派のムハンマド・イドリース・アッサヌーンが王位につく。1952年、国連決議に基づき、国際的にも、独立が認められる。1960年代には、リビアに油田が見つかる。これで、植民地的な経済支配からの脱出の道が見えてきたのではないか。1969年9月、革命が勃発する。カダフィ大尉がクーデターを起こす。国名を「リビア・アラブ共和国」に改称する。1970年には、カダフィは首相も兼任するにいたる。1977年3月には、人民主権確立宣言(ジャマーヒリーヤ宣言)を発表する。同時に、国名を「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」に改称する。
2011年2月、カダフィ政権に対する反政府デモがリビア全土で勃発する。2011年8月、カダフィ政権とリビア国民暫定評議会を中心とする反体制派間の数か月にわたる武力衝突を行う。内戦の勃発であった。激しい攻防の果て、反体制派が首都トリポリを制圧する。これで「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」は事実上崩壊するのだが。カダフィは潜伏し、徹底抗戦する。国民評議会が設定した9月9日の投降期限を過ぎても戦闘は続くも、カダフィの死亡により終止符がおりる。
これで、カダフィ政権が崩壊する。2011年9月、国名を「リビア」に改称する。2011年10月、キーブ移行政府首相が任命される。翌11月には、移行政府内閣が発足する。2012年7月、カダフィ体制崩壊後初の全国規模の選挙となる、リビア制憲議会選挙を実施する。2012年8月、制憲議会が招集される。2012年10月、ゼイダーン氏が首相に選出され、翌11月には、ゼイダーン内閣が発足する。
2013年6月、マガリエフ制憲議会議長の辞任に伴い、アブ・サハメイン氏が新議長に選出される。2014年2月、憲法起草委員会選挙を実施する。2014年6月、代表議会選挙の投票において,サーレハ議長が選出。2014年9月、制憲議会側の救国政府に対し,代表議会側も暫定政府を発足させる。このため、国内に2つの政治勢力が並立することらなる。2014年10月、統一政府の樹立に向け,国連主導による主に第三国に関係者を集結させた政治対話による仲介支援ミッションが開始される。2015年12月、国連主導により支持派のみでリビア政治合意に署名が行われる。
2016年1月、その前の政治合意に基づき、シラージュ首相が政治合意案及び国民統一政府の組閣案を代表議会に提出して承認を要請し、この合意は条件付きで採択される。しかし、組閣案は否決される。2016年3月、シラージュ首相ら首脳評議会の首都トリポリ入りが実現する。2016年8月、シラージュ首相が国民統一政府の修正組閣案を代表議会に提出して再度承認を求めたが,組閣案は否決され、なかなかにこみ入った展開が続く。
(続く)
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467『自然と人間の歴史・世界篇』ジンバブエ
ジンバブエ(1980年4月18日に独立、旧宗主国はイギリス)は、アフリカ大陸の南部に位置する。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。
11世紀に遡ると、ショナ族によるマプングブウェ王国の成立がある。13世紀からは、モノモタバ王国(通称ジンバブエ王国)が繁栄する。ジンバブエとは、「石の家」を意味するらしい。これを伝えるのが、グレート・ジンバブエ遺跡であって、壮大な「石の家」として1986年のユネスコ世界遺産に登録される。王宮の跡や宗教儀式の場所、それに自然石の間を不整形の石を積み上げた壁などが残っているという。
1890年代には、セシル・ローズの率いる英国南アフリカ会社による、モノモタバ王国に対する占領がなされる。このあたりへのイギリス人の入植も進んでいく。
1923年、白人の住民たちが、イギリスの自治植民地としての南ローデシア(現在のジンバブエ)をつくる。1924年には、いぎりすの直轄植民地(現在のザンビア)が設立する。これにいたる前には、1922年のイギリス南アフリカ会社の経営の行き詰まりが介在していた。会社が、これを理由にローデシアの経営の放棄を決めたのに対し、イギリス政府は南アフリカ連邦への統合を望むのだが。1923年、英国の自治植民地として南ローデシアが発足する。一般的には、この頃のことを「旧イギリス領ローデシア」と呼んで区別している。
そして、第二次世界大戦後に、この地域の白人中心社会の独立は持ち越される。南ローデシアの白人政権は、北ローデシアの銅とニヤサランド(現在のマラウィ)の豊富な労働力に着目する。そして、この流れで3植民地の連邦化を行うことを志向する。自分たちの夢をもたせてくれるのは、互いにタッグを組み、現地民を支配することだとする。そして迎えた1953年、白人たちはローデシア・ニヤサランドを結成する。
1963年には、アフリカ諸国に独立の大波が起こって、連邦制が解体を余儀なくされる。これに伴い、南ローデシアの白人至上主義者たちは、イギリスにかけあい、独立を認めるよう交渉に入る。イギリス政府は、これを認める上での条件として、多数支配への漸次的移行をいうのだが、あくまで白人による少数支配にこだわる白人政権はこれを拒絶する。そしそういうことで、両者の話し合いは膠着状態となり、1965年11月のローデシア共和国の一方的独立宣言の日から1979年12月までの間は、一方的に独立宣言した入植者の白人の支配下にあった。
それでも、歴史は進んでいく。そんな中でも、1968年には国連安全保障理事会による、対ローデシア経済制裁決議が採択される。1970年代、黒人解放団体によるゲリラ活動が白人政権を脅かすようになっていく。1979年、イギリスが乗り出しての、独立に向けての平和的解決合意を署名するにいたる。これを「ランカスターハウス制憲協定」と呼ぶ。1980年には、ジンバブエ共和国としてイギリスから独立を果たし、黒人のムガベが新国家の首相に就任する。ここにいたって、ようやく黒人と白人が共存する建前の国家になった訳だ。
1987年には、ムガベが大統領に就任し、以後、19909年、1996年、2002年へと回を重ねていく。2008年3月の総選挙(大統領選挙、上院・下院選挙、地方選挙)が実施される。2008年6月、大統領決選投票の末にムガベ大統領が五選を果たす。2009年2月には、ムガベ大統領、チャンギライ首相の包括的政府が成立する。2013年7月、ムガベ大統領は六選され、長期独裁政権の悪弊が広く国民の間でいわれるようになっていく。2017年11月、ムガベ大統領は辞任に追い込まれ、ムナンガグワが大統領に就任する。
(続く)
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466『自然と人間の歴史・世界篇』南スーダン
南スーダン(2011年7月、南スーダンが内戦の後、スーダンから分離・独立)は、東アフリカに位置する。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する。
1899年、イギリスとエジプトによる南部を含むスーダンの共同統治が開始される。
それから約半世紀が経っての1955年8月、南部スーダンの自治・独立を求めて、イギリス指揮下のエクアトリア部隊所属の軍将校と警察の一部が武装蜂起する、第一次内戦(~1972)が没発する。
そして迎えた1956年1月、南部を含むスーダン共和国として独立する。1958年11月、アブード軍事政権(1964年10月には崩壊)が成立する。その後1964年10月には崩壊する。1960年代、南部の分離独立を求める運動が拡大する。1972年、アディスアベバ和平合意が締結される。この中では、南部スーダンに南部政府を設置することがいわれる。
1965年4月、ウンマ党・国民統一党連立内閣が成立する。1969年5月、ニメイリ軍事政権成立し、スーダン民主共和国に国名を改める。
1972年3月、アディスアベバ合意に署名する。これにより、第一次内戦(1955年勃発)が終結する。アディスアベバ和平合意が反故にされての1983年1月、ジョン・ギャランの率いるスーダン人民解放軍がスーダン国軍を攻撃する。これにより、第二次スーダン内戦(~2005)が勃発する。1985年12月、国名を「スーダン共和国」に改称する。1986年5月、民政移管が行われ、マハディ政権が発足する。1989年6月、今度は軍事クーデタによりバシール軍事政権が発足する。1996年3月、総選挙が実施され、バシールが大統領に当選する。
2000年12月、バシール大統領が再選される。2011年7月、南スーダンが内戦の後、スーダンから分離・独立する。豊富な地下資源のあることから、慎重な政治運営が国内外で期待される。2005年には、南北包括和平合意(CPA)が締結となる。これにより、停戦が成る。国連のスーダン・ミッション(UNMIS)が設立される。2010年4月、総選挙が行われ、バシール・スーダン大統領が再選されるとともに、キール南部政府大統領が当選を果たす。
2011年1月、南部独立の住民投票を実施する。同年7月、南スーダン共和国としてスーダンから独立する。国連南スーダン共和国ミッション(UNMIS)が設立となる。2012年1月、スーダン政府との石油に関する交渉が暗礁に乗り上げる。南スーダンは、原油生産停止を決定する。2012年9月には、南スーダンとスーダン両国政府は,二国間の未解決課題に関する9つの合意文書に署名するのだが。2013年4月には、頼みの原油生産が再開となる。
ところが、2013年12月に首都ジュバにおいて大統領警護隊同士で衝突が起こる。2014年1月、東アフリカの地域経済共同体である政府間開発機構(IGAD)の仲介により、政府側及び反政府勢力とが和平協議を開始する。2015年8月、IGADなどによる調停の結果、関係当事者の無期限衝突停止宣言や国民統一暫定政府設立などを規定した「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」に署名するにいたる。2016年4月には、国民統一暫定政府が設立される。
(続く)
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465『自然と人間の歴史・世界篇』スーダン
現在のスーダン(1965年1月1日に独立、旧宗主国はイギリス)は、北東アフリカに位置する。首都はハルツームである。エジプト、リビア、チャド、中央アフリカ、南スーダン、エチオピア、エリトリアと国境を接し、東は紅海に面している 国境は真っ直ぐ線状にスパッとしており、植民地支配で切り取られたことが、地理的に鮮明である。
紀元前9世紀頃、クシュ王国が栄える。クシュとは、下ヌビアの古名である。紀元前750年頃、エジプトを征服して第25王朝をひらく。紀元前6世紀、メロエに首都を移し
以後、アフリカ色を強めていく。365年、メロエ王国が、エチオピアのアクスム王国に滅ぼされる。14世紀初め、エジプト・マムルーク王朝によりヌビアは征服される。
1517年、オスマン・トシルコ帝国がエジプトを支配していた頃、アラブ系族の首長国を統合して、スルタンによるフンジ王国をつくる。イスラムにもとづく統治が始まった訳だ。現在のセンナール州中心。具体的には、青ナイル川流域センナールを中心にしてナイル川第3急流以南両ナイル合流域にかけての肥沃な地帯を中心に据える。一方、現在のダルフール地方を中心に、スルタンによるダルフール王国が栄える。地理的には、ダルフール、コルドファンからバフル・アルカザルにいたる地域にかけて支配する。
1820年、オスマン・トルコ帝国支配下のエジプトがこの地に侵攻する。1821年フンジ王国、1874年にダルフール王国が滅ぼされる。これにより、北部スーダン(現在のスーダン)がエジプトの領有するところとなる。この時のエジプトのねらいについては、次のように評される。
「エジプトのスーダン経営のねらいは、奴隷や黄金などを調達しエジプト帝国建設に投入することであった。いわば資源開発のためのスーダン経営は。奴隷の乱獲、住民の苦しみを顧みない重税を必然化した。イスラムの奴隷は、少なくとも<人間>としての権利を認められていた。これに対し近代のエジプトのスーダン経営は奴隷を完全に<物>として扱った。それは、資本主義時代の原料獲得のための植民地経営の幕開けであった。」(伊谷純一郎他監修「アフリカを知る事典」平凡社、1989)
1881年~1898年、「マハディ(救世主)」と称するスーダン人のムハンマド・アフマドが武装蜂起、マハディ国家を建設するも、イギリスが鎮圧する。イギリスは、この要衝の地を重視する姿勢を強めつつあった。1899年には、スーダンに対するイギリスとエジプトによる共同統治が始まる。1922年からは、南部スーダンを封鎖する。北部との往来には旅券が必要となる、これが将来の南北対立の遠因の一つとなるのだが。
第二次世界大戦後、アフリカ人民に独立の気運が高まっていく。1955年8月、南部スーダンの自治・独立を求めて、イギリス指揮下のエクアトリア部隊所属の軍将校と警察の一部が武装蜂起する、第一次内戦(~1972)が没発する。
そして迎えた1956年1月、スーダン共和国が建国される。1958年11月、軍事クーデタによりイブラヒム・アブード軍事政権(1964年10月には崩壊)が成立する。
1965年4月、総選挙によりウンマ党・国民統一党連立内閣が成立する。1969年5月、軍事クーデタによりガファール・ニメイリ軍事政権が成立し、「スーダン民主共和国」に改称する。
1972年2月、政府側と南部スーダン側の間でアディスアベバ和平が成立する。1955年に始まった第一次内戦が終わる。1983年1月、ジョン・ギャラン国軍大佐の率いるスーダン人民解放運動・軍(SPLA)が、南部スーダンの自治獲得を目指してスーダン国軍を攻撃し、第二次内戦(~2005)が勃発する。
1985年4月、スワール・ダッハーブ国防相による軍事政権が成立する。1985年12月、国名を「スーダン共和国」に戻す。1986年5月、民政移管によりサーディク・マハディ政権が発足する。1989年6月、軍事クーデタによりオマル・バシール軍事政権が成立する。1993年10月、バシール中将が大統領に就任する。1996年3月には、総選挙が実施され、バシール大統領が再任される。1996年8月と1997年11月、エジプトでのムバラク・エジプト大統領暗殺未遂事件を受け、国連がスーダンに各種制裁を発動する。
21世紀になっても、スーダンは、まだ夜が明けきらない感がある。それでも、2000年12月、大統領選挙が実施され、バシール大統領が再選される。2002年7月、マチャコス議定書の締結が成る。これにより、南北スーダン和平プロセスの開始となる。2004年7月、アフリカ連合(AU)が停戦監視等のための部隊(AMIS)派遣決定する。2005年1月、南北包括和平合意(CPA)に署名する。バシール大統領が南北統一政府大統領に就任する。2005年4月、国連安保理が国連スーダン・ミッション(UNMIS)を設立する決議を採択する。
2005年7月には、南北両勢力による国民統一政府が成立する。ギャラン第一副大統領兼南部スーダン大統領が就任する。2006年5月、ダルフール和平合意に署名する。2006年10月、東部スーダン和平合意(ESPA)に署名。2006年11月、ダルフールにおける人権侵害をうけ,米国がスーダン政府関係者の渡航禁止・資産凍結を実行する追加経済制裁を発動する。2008年1月、UNAMIDがAMISより指揮権を引継ぐ。2009年3月、国際刑事裁判所(ICC)がバシール大統領に対する逮捕状を発行する。2010年2月、スーダン政府がドーハにおいて一部ダルフール反政府勢力と即時停戦等に署名する。2010年4月、総選挙が実施され、シール大統領が再選され、キール南部政府大統領当選。
2011年1月、南部スーダン住民投票が実施される。南部スーダンの独立が決定する。2011年5月、スーダン国軍がアビエ地域を占拠する。2011年7月、国連安保理でアビエ暫定治安部隊(UNISFA)を設立する決議、及び国連南スーダンミッション(UNMISS)を設立する決議を採択する。
南部スーダンが南スーダン共和国として分離独立する。2011年7月、ダルフール和平に関するドーハ合意文書(DDPD)に署名。2012年9月、南北両国政府が、二国間の未解決課題に関する包括的な9つの合意文書に署名する。2013年3月、南北両国政府が、2012年9月協力合意の履行マトリクスに署名する。2015年4月、総選挙実施でバシール大統領が再選される。」
(続く)
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