♦️534『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・リトアニア)

2017-12-19 22:21:42 | Weblog

534『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・リトアニア)

 リトアニア共和国は、バルト三国の一つ。 バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南にある。北にラトビア、東にベラルーシ、南にポーランド、南西はロシアと国境を接する。西の方、海岸線の長さはおよそ100キロメートルのうち38キロメートルがバルト海に面す。
 国土の約3割が混交湿地林で覆われる。それと隣合わせであろうか、ヴィスティティス湖を初めとする多くの湖が点在する。地形はほぼ平坦で、一番高い地点でも海抜292メートルしかない。首都はヴィリニュス。2015年3月時点の人口は292万人。
 ヴィリニュスは、14世紀からリトアニアの中心であって、東西交易の中継基地として栄える。旧市街には、カディドウロス広場に18世紀に再建された大聖堂をはじめ、ゴシックからバロックにいたる建築物が多く残っており、1994年にユネスコの世界遺産に登録される。
 また、エストニア、ラドビアとともに3国で4~5年毎に開催されている「歌と踊りの祭典」は、ユネスコの無形遺産にも登録されている。
 こちらの歴史だが、1253年、ミンダウガス大公がリトアニア国王となる。1386年、ヤギェ大公がキリスト教の洗礼を受け、ホーランド女王と結婚し、ポーランド王位に就く。これにより、リトアニア国王とポーランド王の両方を兼ねるのだが、このことを「リトアニア・ポーランド同君連合」と呼ぶ。
 1569年、ポーランドと2民族1共和国ということで連合国家をつくる。しかし、18世紀にポーランドは分割され、リトアニアも1795年、第3次の3国分割により大部分がロシア領となる。誠に、小国の悲哀というべきか。
 それからのほぼ百年は、制す時的な沈黙が続く。1918年、独立を宣言する。1920年には、ソ連より独立する。1940年、ソ連に併合され、ソ連邦を構成する15の共和国の一つとなる。
 1990年2月、共和国最高会議選挙。同年3月には、独立回復の宣言を行う。1991年9月、ソ連国家評議会が、バルト三共和国の国家独立に関する決定を採択する。
 2001年5月、WTO(世界貿易機関)に加盟を果たす。2004年3月、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。資本主義陣営に組みした訳だ。2004年5月、EU(ヨーロッパ連合)に加盟し、2014年1月には通貨ユーロを導入する。


(続く)

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♦️533『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・ラトビア)

2017-12-19 22:20:06 | Weblog

533『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・ラトビア)

 ラトビア(ラトヴィア)共和国は、北ヨーロッパのバルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の一つで、西はバルト海に面する。
 人口は約202万人、首都はリガである。このリガ旧市街には、中世の面影が色濃く残る、バロック、アールヌーボー建築が多数現存する。バルト海リガ湾へ続くダウガヴァ川沿いに10月橋、聖ペテロ教会、リガ大聖堂などが建つ風景には、北方の澄んだ空気による爽やかさも何かしら漂うにように感じられる。首都リガの1997年をはじめ、その他6つの地区がユネスコ世界遺産に登録されている。
 また、手付かずの自然、綺麗な水といった豊かな自然環境に恵まれており、コウノトリをはじめ多くの野生動物が生息している。
1158年、ドイツのブルーメンの商人たちにより、リガの町がつくられ始める。とはいえ、一説には「ドイツ人の植民が最初に記録されているのは1180年、主に商人や今日しらであった」(志摩園子編著「ラトヴィアを知るための47章」明石書店、2016)ともされる。13世紀初、ドイツ騎士団がこの地に進出し、領有する。1275年、彼らはガスガヴァ河岸に城を建てる。
 1282年、この騎士団の首領ワルターが主導し、リガはハンザ同盟に加盟する。ハンザとは、「商人の仲間」の意味。それからは、ハンザ同盟の中心都市の一つとして繁栄する。因みに、最盛期の14~15世紀には、同盟の中核都市が約70、その他の都市を加えると200を越えたという。
 1360年、デンマーク王ヴァルデマル4世が、リガの仲間の都市ヴィズビーを占領する。1361年、これを回復しようとハンザ同盟がデンマーク軍と戦い、湿地を回復する。
15~16世紀にかけて、ドイツ騎士団がリガ城を築く。
 1583年、リヴォニア戦争の結果、リトアニア・ポーランド領となる。1629年、スウェーデン・ポーランド戦争の結果、一部分がスウェーデン領となる。1709年には、帝政ロシアに併合される。1721年の北方戦争の結果、大部分がロシア領、残りはポーランド領となる。
 1795年、第3次ポーランド分割により全土がロシア帝国領に組み入れられる。1918年11月18日、リガでラトビアとしての独立を宣言する。1920年8月、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国との間に平和条約を締結する。1940年、ソ連に編入される。
 1989年8月23日、市民たちにより、「人間の鎖」と評されるソ連政府への抗議行動「バルトの道」が敢行され。1990年3月、共和国最高会議選挙が行われる。5月、独立回復を宣言する。1991年8月、共和国の地位に関する基本法を採択する。1991年8月19日にモスクワでクーデターが起こると、ラトビアでもクーデター支持派が権力を掌握する。これに対して、
ラトビア最高会議は21日に独立回復の宣言を発し、この宣言はすでに独立回復宣言を出していたエストニアとリトアニアによって承認される。
 1991年9月6日、ソ連国家評議会がバルト三共和国の国家独立に関する決定を採択する。主権国家として歩み出すことを、ソ連が承認した訳だ。
 2004年3月、NATO(北大西洋条約機構)に加盟する。2004年5月、EU(ヨーロッパ連合)に加盟する。2014年1月、ユーロ導入。2016年7月、OECD(経済協力開発機構)に加盟する。

(続く)

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□77『岡山の今昔』備前との往来(吉井川)

2017-12-19 10:27:56 | Weblog

77『岡山(美作・備前・備中の今昔』備前との往来(吉井川)

 古代の人々が岡山の九蟠(くばん、合併まえの西大寺(さいだいじ))から出発し、児島湾の東端河口からほぼ北へと上っていく姿が彷彿としてくる。和気郡和気町(わけぐんわけちょう)の辺りで金剛川などの支流と別れ、赤磐市(あかいわし)の辺りで吉野川と分かれる。それからは、吉備高原(きびこうげん)の谷底平野に向かって北上する。この辺りまでの、吉井川は、旭川の東10キロメートルほどのところを流れている。1960年(昭和35年)から1997年(平成9年)に倉敷に移転するまで、津山作陽音楽大学のあった津山市横山(よこやま)まで遡ったところで、北東から流れてきた吉井川と合流する。その後はU字形の蛇行(北から西へ)を描いて、進路を西にとる。このU字形をとっているところは昔から河畔を含め50メートルを超すくらいの川幅となっていて、その深い淵の底には「ごんご」という魔物が棲みついている、と言われてきた。
 今度は津山盆地から吉井川に沿って西にたどって行こう。これは、出雲街道を西へと辿ることでもある。すると、院庄(いんのしょう)と到達する。吉井川は、このあたりから北へと遡る。そこから10キロメートルばかり西には旭川が流れており、この二つの川に挟まれた地域(現在の久米郡久米町、その南に久米郡旭町がある)に古代の人々は到達し、そこかしこに定住していったのではないか。
 それからの吉井川は、津山盆地を横切って、しだいに美作の地を離れていく。西への行程で香我美川(かがみがわ)や加茂川といった支流とたもとを分かち、なおも西流してから再び北へと遡る。現在で言うと、国道179号線沿いといったところか。やがて奥津渓谷(おくつけいこく)を抜けたあと、英田郡上斎原村(あいだぐんかみさいばらむら)に至り、鳥取県との県境に近くの三国山(みくにやま)あたりの山間が源流とされている。あるいは、人形峠の方に源流があるともいわれているので、私の素人判断での断定は控えておきたい。

(続く)

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□76『岡山今昔』備前との往来(岡山~海)

2017-12-19 10:24:04 | Weblog

76『岡山(美作・備前・備中の今昔』備前との往来(岡山~海)

 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
 また、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)というように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。
ここに西大寺の裸祭りとあるのは、約500年前にはもう始まっていたのだと伝わる。いつの頃からか、裸男が本堂欄干から投げ込まれた宝木(しんぎ)を奪い合う、真冬の熱い祭りとなる。全国でも珍しい光景が、人気が人気を呼んで、受け継がれてきたようだ。さほど広くない境内に20時頃からふんどし一つの男たちが続々集まり、境内での水垢離(みずごり、事前に水を浴びて身を清め、穢れを落とすという日本神道の考え方による儀式)のあと、本堂前でもみあう。良い場所を占めたいと競争するのだそうな。この間、上からは適宜この間水が掛けられるという。摩擦よけのためと思われる。そして迎えた22時、境内が一斉に消灯し、2本の宝木が上から降ってくると、「渡してなるものか」と 争奪戦が繰り広げられる。勝負は30分くらいで決着がつくようで、宝木の取主は「福男」として祝福されるのだという。その宗教的含意については、よく伝わって来ないものの、なかなかの発案ではある。
 話を戻して、津田はこのほか、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)を、1692年(元禄5年)に沖新田(上道郡)の干拓工事も手掛けたことが知られている。この河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生(ひなせ)である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。

(続く)

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□75『岡山の今昔』備前との往来(津山~美咲、赤磐)

2017-12-19 10:22:13 | Weblog

75『岡山(美作・備前・備中の今昔』備前との往来(津山~美咲、赤磐)

 美作と繋がる三つめの往来は、備前から吉井川沿いを北へたどり、又はその逆に美作からこの吉井川を南へ下る道をいう。江戸期まで、人びとはこれを「西大寺道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』には、こんな説明がある。
 「『西大寺道』は、河原町で川を渡り、横山・八出(やいで)・小桁(おげた)、金屋(かなや)、押渕の諸村を川沿いに南下し、勝田郡木知ヶ原駅(今久米郡柵原町(やなはらまち))から、備前の周匝(すさい)駅に着き、南下して西大寺に達する。」
 さて、吉井川は、西を流れる旭川と高梁川(たかはしがわ)と並んで、岡山県の「三大河川」とされている。古来、これらの三つの河川を運航することで内陸部と瀬戸内とを結ぶ経済動脈となってきた。吉井川の水運の歴史は、日本の古代に遡る。1604年(慶長9年)、角倉了以(すみのくらりょうい)がこの川の高瀬舟を観て舟路開発の妙を会得したといい、1829年(文政11年)に倉敷で刊行された『みまさか地図』にも、「中川-此川尻備前国西大寺流金?湊ニ出ル」とある。この川とその周辺を辿るルートは当時の高瀬舟が通っていたもので、1815年(文化15年)頃の「津山舟」は、「舟長6間2尺、最大舟幅7尺2寸」(1間は約1.8メートル、1尺は約0.3メートル、)で54隻を数えていた。明治になってからは「飛脚舟」と呼ばれる客船を明辰社が営み、「隔日に船を出す・午前五時津山出帆、薄暮れ西大寺へ着港・乗客上等五拾銭、下等三拾銭、ただし昼食付・西大寺出帆、三日間を以て津山へ帰着・登り船乗客壱人前壱円とす。ただし、まかない付」の営業書きが残されている。それは、荷役の他にも、陽光あふれる美作の夢追い人の辿る道でもあったのかもしれない。
 このルートの前置きはこの位にして、この吉井川の上流から瀬戸内海の方へと、河の流れとともに下ってみよう。東津山から吉井川添いに南下していくと、最初に行き当たるのが久米郡美咲(みさき)町である。この町は、2005年3月、久米郡内の中央町、旭町、柵原町の3つの町が合併して、発足した。この美咲町に、「柵原(やなはら)ふれあい鉱山公園」という、柵原鉱山の歴史と文化を学ぶことが出来る施設がある。その中に1991年(平成3年)6月に廃止された、同和鉱業片上鉄道の車両と駅舎を保存している。
 この鉄道は、硫化鉄鉱の海上輸送を目的に建設された。硫化鉄鉱をコンビナートに運んで、化学肥料などに加工するためであった。鉄道の敷設は、1931年6年に柵原から山陽本線の和気駅(当時の和気町)を経由し、さらに南下して備前市片上(現在は山陽新幹線がその直ぐ北を走る。片上を南に下るとそこは現在の瀬戸内市である)までの約34キロメートルが開通した。この線路を通って、1991年の同和鉱業の鉱業所の廃坑までせっせと運んだ。鉱山があるためだけでなくて、この地域の人々の脚となり、交流の結節点となってきた鉄道なのであった。
 珍しいことに、この旧鉱山町に、町興しのための旧片上鉄道を毎月第1日曜日に定期的な展示運転を実施し、約300mの路線と一部の施設(旧吉が原駅の駅舎など)を保存、そして保存車両たちが走行するという事業が出来ている。日本でも数少ない鉄道文化の保存と継承を目的に、1992年に愛好者有志によって設立された旧片上鉄道保存会が、美咲町の委託を受けて、1998年からこの運営「展示運転」に当たっている。加えるに、2016年には線路を延ばし、幸福柵原駅という新駅も開業させ、放っておけば落ち込みかねない地域経済を少しでも活性化する力になればと、日々努力しているやに伝え聞く。
 美咲町から赤磐市吉井町を通って南へ吉井川沿いを走る国道374号線を行くと、畝山にさしかかるあたりで国道484号線との分岐があり、前者の道はやがて和気市内を佐伯町から和気町へと一路南下していく。こもう一方の後者の道は山間部を横断する形で、ぐんぐんのぼって行く。なかなかに景色がよい。長い坂を上りきったところで、下りに移る。だんだんに視界が開けていき、平坦部の岡山市建部町へと入って国道53号線と合流していく。そこには、旭川が滔々と流れ下っている。

(続く)

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♦️561『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエルの建国へ(1897~1944)

2017-12-19 09:25:28 | Weblog

561『自然と人間の歴史・世界篇』イスラエルの建国へ(1897~1944)

 19世紀末から20世紀の前半にかけて、イスラエル建国に向けての動きが活発化する。1897年、スイスのバーゼルにて、第一回シオニスト会議が開催され、世界シオニスト機構(WZO)を設立する。ユダヤ民族として新天地を獲得しようというのだ。
 こうした動きに合わせ、この地方に権益を持つイギリスが動く。1915年、イギリスは、アラブ人の独立国家を支持するとの内容をもつ「フサイン・マクマホン協定」を結ぶ。それには、こうある。
 「1.イギリスは一定の修正を加えて、メッカのシャリーフによって要求されている範囲内すべての地域におけるアラブ人の独立を認め、それを支援する用意がある。
2.イギリスは外国からのすべての侵略に対して聖地を保全し、その不可侵性を承認する。
3.状況が許せば、イギリスはアラブに助言を与え、これらのさまざまな地域におけるもっとも適切と思われる統治形態を設立する援助を行う。
4.他方、アラブ側はイギリスだけの助言と指導を仰ぐことを決定し、健全なる統治形態の確立に必要なヨーロッパ人の顧問および官吏はイギリス人であることを承認する。
5.バグダードおよびバスラの両州に関しては、現地住民の福利の促進と相互の経済的利益を保護するために当該地域を外国の侵略から守るべく、イギリスの地位と利益の観点から特別の行政措置を必要としていることをアラブ側が承認する。(後略)」
 その翌年の1916年には、オスマン・トルコ帝国が領有する中東地域がイギリス、フランス、そしてロシアの3国による勢力下におくことにする「サイクス・ピコ協定」が締結される。これは、イギリス一国ではこの種の問題を処理仕切れない、それゆえの政治的譲歩なのかもしれない。
 さらに、もう一つの約束をする。すなわち、1917年11月2日、イギリスの外相バルフォアは、イギリスのシオニスト連盟の会長であるライオネル・ロスチャイルドに宛てに手紙を送る。これは、「バルフォア宣言」と通称される。内容としては、パレスチナの地にユダヤ人のための民族郷土(ナショナル・ホーム)を建設することを認めており、こうある。
 「国王陛下の政府はパレスチナにおいて、ユダヤ人のための民族的郷土を設立することを好ましいと考えており、この目的の達成を円滑にするために最善の努力を行うつもりです。また、パレスチナに現存する非ユダヤ人諸コミュニティーの市民および信仰者としての諸権利、ならびに他のあらゆる国でユダヤ人が享受している諸権利および政治的地位が侵害されることは決してなされることはないと理解されています。
 貴下がこの宣言をシオニスト連盟にお知らせいただけましたら光栄に存じます。
アーサー・ジェームズ・バルフォア」(同)
 これらにおいては、一方でアラブに、もう一方でシオニスト側にそれぞれ新天地を約束する。また、イギリスだけが中東で力を行使するかといえば、別のところではイギリス、フランス、そしてロシアの3国による勢力下におくともいう。ゆえに、これらをあわせて、イギリスの「三枚舌外交」と揶揄(やゆ)されることにもなる。
 1918年に第一次世界大戦が終わると、パレスチナの地イギリスの委任統治領となった。1918年9月、メッカの太守フサインの第3王子ファイサルが、英軍情報将校のロレンスとともにトルコと戦い、勝利をおさめ、シリアのダマスクスに入場する。その3か月後の1920年3月になり、トルコが連合軍に降伏したのを好機とみて、シリア王国の樹立を宣言する。
 これに対抗する列強は翌4月、イタリアのサンレモ市で連合国最高会議を開き、イギリスがイラクとパレスチナを、またフランスがシリアとレバノンを支配するのを承認する。この承認を手にしたフランスは、その年の7月にはダマスクスのファイサルの勢力を武力で駆逐する。
 1920年8月、連合国はトルコとの間でセーブル条約を締結する。11月には第1回の国際連盟総会が開催され、サンレモ会議の決定を追認する決定を下す。ここに中東は、イギリスとフランスの委任統治領となる。
 1921年、イギリスはヨルダン川西岸のみを切り離して「パレスチナ」と呼び、この地をバルフォア宣言にて4年前ユダヤ人に約束した入植地に限定する。1923年、イギリス植民地相チャーチルは、その後ヨルダン川の東岸をトランスヨルダン(現ヨルダン)としてハーシム家フサインの長男アブドラに統治を委ねると発表する。1921年には、イラクにはフランスが追い払った三男ファイサルを据える。
 1929年8月、「嘆きの壁事件」が起きる。この壁は、イスラム教徒にとっての、もっとも神聖な場所の一つとされる「ハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)」の西壁にあたる。これに到達したユダヤ人青年グループが、この壁にダビデの星の旗を貼り付ける。これを宗教的な挑発とみたイスラム教徒が怒りの声をあげ、双方の対立が深まり、やがて双方で暴力を伴う衝突がエルサレム・ヘブロンを中心にして急速に全土に広まっていく。そして、ユダヤ人、パレスチナ人の双方で数百人が重軽傷を負うという惨事に発展する。
 1936年、パレスチナ人による反シオリズムの運動として、初の統一的な抵抗組織である「アラブ高等委員会」を結成する。同年、同委員会はさっそく反英・反シオニストの運動を始める。その手段として、6ヶ月にわたる長期ストライキを行う。しかし、それではおさまらず、武力衝突に発展する。「アラブの大蜂起」と呼ばれるこの事件で、パレスチナ人、ユダヤ人、イギリス警官の合わせて1000人以上が犠牲になる。
 1937年、イギリスが「ピール報告書」を提出する。その内容は、パレスチナ全土の20%をユダヤ人の植民地区として分与する案であった。1939年までにこの地に移住を果たしたユダヤ人は44万人に達す。こうなると、もうどうにも止まらない。この年(1939年)、イギリスは「マグドナルド白書」を発表する。それには、パレスチナ人の総人口の3分の1を上限としてユダヤ人の入植を制限するとあった。パレスチナ人への懐柔策にほかならない。1942年、在米のユダヤ人たちが、ユダヤ機関(JAFI)総会でニューヨークに集い、全部のパレスチナをあくまで譲らないと決議する。彼らは、全パレスチナの土地を「神に与えられた土地」とする「ビルトモア綱領」を採択し、これに基づき、募金活動とか、アメリカ政府への働きかけを強めることを誓い合う。

(続く)

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