□83『岡山の今昔』出雲から県境へ

2017-12-17 21:45:56 | Weblog

83『岡山(美作・備前・備中)の今昔』出雲から県境へ

 美作から出雲、松江と通じる道中には、古来から出雲街道が利用されてきたことは、先に概要を述べさせていただいた。今度は、出雲を出発して、津山へ至る道をたどってみよう。すると、島根県西部に位置する出雲からは、日本海を臨んでから少しずつ内陸部に分け入っていく。この道は、出雲街道(雲集街道)と呼ばる。人々はこれをたどって、現在の鳥取との県境にさしかかる。中国山地の間を縫うようにして南に向かい、やがて美作の中心地、津山に向かう道である。
 おそらく弥生時代までには、山を隔てた出雲に既に、「天の下をつくったところの大神」の神話があったのではないか。その寓話の中では、神の末裔と伝承される支配者たちが、そこかしこに陣取っていいたのかもしれない。出雲から大和(やまと)につながる出雲街道の全行程については、『播磨風土記』でも触れられている。そのうちの距離にしておよそ180キロ(約45里)、そのおよそ90キロ(約22里)が、現在の岡山県内を通る「美作路」なのであった。また現在、山陰エリア・四国エリアと東京を結ぶJR寝台特急で、「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」が併結して運転されていて、岡山からは高松行きと出雲行きとに分割される。この出雲行き特急列車は、やがて伯備線を通って岡山県を北上していく。私は未だ乗り合わせたことがないものの、さぞかし旅心をときめかすのではないだろうか。
 今から推し量れば、江戸期の旅人は相当健脚であったらしい。旅人が歩いていた出雲からの道のりは、なかなかに峻厳であったに違いない。朝靄をついて、かの出雲大社に続く松江を出発して、まずは神門(戸)川と斐伊川を南に上ってゆく。松江、出雲絵、安来(以上は現在の島根県)から米子(よなご)、溝口、二部(二歩)、梶尾(根雨)、板井原(以上は現在の鳥取県)とやって来る。
 それからは、四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)あたりで中国山地に分け入っていく。この峠のあるところは鳥取県日野町と接する岡山県との県境である。このあたりは険しい山道だ。岡山県に入ってからは、山また山の山間を或いは仰ぎ、或いはくぐり抜けるようにして通ってゆく。湯原(ゆばら)、新庄(しんじょう)から蒜山高原(ひるせんこうげん)高原へと向かう。その途中にあって、現在は米子自動車道が通る「鳥居トンネル」があるあたりから、路は南下の道をたどる。天候に恵まれるなら、稜線に沿って南西の方向に、鳥取との県境に沿って象山、三平山、朝鍋鷲ヶ山、毛並山、笠杖山、四十曲峠、それから二子山と続く山々や峠が続く。
 この道筋は、おおまかに、伯備線(はくびせん)の途中までと、かなりの行程が重なっていたのではないか。ここに伯備線は、今では「381系特急「ゆったりやくも」で有名となっている。地方ローカル線ながら、岡山県倉敷駅から岡山県内を南北に貫き、鳥取県の伯耆大山駅とを結ぶ幹線で、今では全線で電化されている。ここに鉄道を通す工事のそもそもは、岡山県側のとっかかりの地点が決まっていなかった。それゆえ、決まるまではとりあえず宿場町の根雨まで通す事として、先行して根雨軽便線として建設が開始された。後に岡山側起点が倉敷と決まり、南北両面から工事が開始となる。おりからの鉄道建設ブームに乗って、1928年(昭和3年)には全線開通にこぎ着けたのであった。
 なお、この出雲街道を歩いて、米子からこの道と分かれ、大山寺にまで行くのが大山往来、大山街道、もしくは大山道と呼ばれる。現在の伯備線の大川寺駅は、大山に間近い(鳥取県東伯郡大山町)。この山は、標高1729メートルにして、中国地方では最高峰である。日本の古代から、東の大山(おおやま)と区別して「伯耆大山(ほうきだいせん)」と通称される。ここは、古来、「神気が周囲を照らす中国地方最大の霊峰」とか言って敬われてきた。因みに、『出雲風土記』には「大神岳」の名前が見えて、そこに付随して国引き神話が伝えられる。それには、出雲の国造りを進める八束水臣下津野命(やつかみすいおみつのみこと)が狭い出雲国を広くしようと、ある時、この大山と三瓶山(さんびんやま)に縄をかけて現在の島根半島をつくったことになっている。
 大山往来のその後だが、出雲街道と重なるようにして進んで行く。釘貫小川の辺りまでやってくると、現在は米子自動車道が通っている。この整備された道路に乗って擂鉢山トンネルをくぐり抜ける。そこからさらに、湯原インター(現在の真庭市湯原)に進んだあたりか。そこからは北西方向に進路を変えて進み、藤森(真庭市藤森)、川上(現在の真庭市)の上徳山(米子自動車道の蒜山インターを出たところ、真庭市)につながる。それからは、三平山(標高1010メートル)を左手に眺めながら、鳥取との県境を岡山へと越えていく。このルートを通って四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)を越える。
 さらに道を進んで、現在の県道如来原御机線の通っている鳥取県日野郡江府町に入る。鉄路との関わりでいうと、現在の伯備線に乗って根雨駅まで行く。そこからは、日野川に沿いながら伯備線は米子へと向かっていく。ちなみに、この駅を出て米子と逆方向に辿るのは、新見(岡山県新見市)へ向かう。なお、この道は、江戸時代の初期かられっきとしてある。1603年(慶長8年)、美作の地に入府した森忠政が、その翌年からこの行路を出雲街道の支路として整備するよう命じた事が伝わる。
 かつては、この大山道を牛が曳かれて行っていた。作家の山本茂実氏は、こんな風に往来の模様を描いておられる。
 「山ツツジの咲き乱れる大山街道は黒い和牛をひいた旅人でにぎわっていた。
 白の手こう脚絆に大山笠をつけ、大きな紺のふろしき包みを背負って、そうでない者は黒い和牛を曳いていた。この人たちの中には美作ばかりでなく、遠く備前、備中、備後、安芸(あき)あたりからの人も多かった。(中略)
大山参りはけっしてたんなる神参りではなくて、もっと直接生産に結びついた種ものの交換や、田植えの手伝いをする牛馬の市や、各地の名産を持ち寄って交換する大がかりなバザールだったのである。
 大山馬喰(だいせんばくろう)座の取引き記録を見ると、これは明治中ごろのものであるが、牛の数は年間1万頭、価格にして六万~八万五千円と記録されている。その大部分が大山山麓の笹と隠岐の島で育った牛だったという。」(山本茂実「塩の道・米の道」角川文庫、1978)

(続く)

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♦️450『自然と人間の歴史・世界篇』チュニジア

2017-12-17 10:02:40 | Weblog

450『自然と人間の歴史・世界篇』チュニジア

 チュニジア(1956年3月20日に独立、旧宗主国はフランス)は、北アフリカのマグリブに位置する。地理では、西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海を隔てた北東方向の対岸には、長靴のように伸びたイタリアがある。
 その歩みとしては、なかなかに古い。紀元前9世紀頃より都市国家カルタゴとして栄える。ベルベルとフェニキアの文化を体現していた。そのカルタゴも紀元前146年には、ローマ帝国により征服され、砦や街は徹底的に破壊されてしまう。カルタゴですら持ちこたえられなかったことに、世界帝国への道を歩み始めていたローマの力の充実ぶりが窺える。。
 その後439年、ゲルマン系ヴァンダル族がこの地を占領し、ヴァンダル帝国を樹立する。583年になると、東ローマ帝国のビザンチンがヴァンダル帝国を滅ぼし、ビザンチン文化が入ってくる。7世紀は、アラブ人が侵入し、イスラム化の始まりの世紀であった。
698年、アラブ軍が東ローマ帝国支配下にあったカルタゴを陥落させる。732年には、チュニスにてジートゥーナ(大モスク)が建ち並ぶようになる。14世紀になると、「メディナ」と呼ばれる旧市街とその周辺は、伝統的アラブの空間と化す。これらは、1979年に、「チュニス旧市街」として世界遺産に登録される。
 それから数百年が経過しての1574年、チュニジアはオスマン帝国の属州に組み入れられる。西から東につながろうとするイスラム勢力が、この地にも及んできた。1881年、フランスの保護領となる。さらに数十年が経過しての1956年3月、フランスからの独立を果たし、翌年7月には共和制に移行する。大統領には、ブルギバ大統領が就任する。1959年6月、共和国憲法が発布される。
 1987年11月には、ベン・アリが大統領に就任する。1989年4月、ベン・アリ大統領当選(その後,五選(1994.3、1999.10、2004.10、2009.10))。そして迎えた2010年12月17日、モハメッド・ブウアジジが焼身自殺した事件をきっかけに、反政府デモが国内全土に拡大する。長期独裁政権への国民の不満に、軍部の離反が加わったことにより、2011年1月14日には、ベン・アリー大統領がサウジアラビアに亡命する。23年間続いた政権に終止符が打たれる。ムバッザアが暫定大統領に就任する。
 2011年10月には、制憲国民議会選挙が実施される。2011年11月、制憲国民議会が開会となる。2011年12月、マルズーキが大統領に就任し、ジェバリ首相内閣が発足する。ここまでの一連の出来事を「ジャスミン革命」と呼ぶ。
 このきっかけと大事に発展した理由とは、何であったのか。それには、言論や表現の自由がなかった息苦しさのあるところへ、大統領一族とそれを取り巻く利権集団がやらずぶったくりのことをしていた。そんな時、これに抗議するセンセーショナルな事件が起こった。2010年12月、中部シディブジド県において26歳の男性が焼身自殺を図った。
政府の腐敗に抗議したのは、大方の国民の共感を得たに相違ない。これを発端に、抗議の声と行動が全国に広がる。反政府デモが燎原の火の如く広がるのを見て、「これはかなわぬ」と見たのか、2011年1月に突如ベンアリ大統領は職務を放棄し、国外に脱出する。
 そしてまた、この成功の理由は何であったのか。政府の瓦解が意外に早かったのが一番の理由であろうが、その後での新体制の確立にいたる過程においては、やはり人びとの熱い政治意思が根幹を支えたのではないか。後のことだが、2015年のノーベル平和賞は、「多元的な民主主義の構築に寄与した」という理由でチュニジアの「国民対話カルテット」が受賞する。労組や人権組織、弁護士組織など4つの組織の連合が、大いに力ニなったことが窺える。
 2013年3月には、ラアレイエド内閣が発足する。2014年2月、新憲法が施行される。2014年1月には、ジョマア内閣が発足する。2014年10月、国民代表議会選挙が実施される。2014年11~12月、大統領選挙が行われる。2-14年12月、エセブシが大統領に就任する。2015年2月、エシード内閣が発足する。2016年8月、シェーヘド内閣が発足する。

(続く)

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