♦️441『自然と人間の歴史・世界篇』モルディブ

2017-12-22 10:25:56 | Weblog

441『自然と人間の歴史・世界篇』モルディブ


 モルディブ共和国は、南アジアのインド洋の島にある。インドとスリランカの南西に位置する。約1200もの群島でもって、国家を形成する。2000年の国連推定による人口は、約28万人。住民の多くは、スリランカのシンハラ人、アラブ、ドラヴィダ人などの混血だという。
 12世紀、イスラム化の進展がある。1558~1573年、ポルトガルの支配を受ける。17世紀、オランダ東インド会社の間接統治下に入る。1887年、イギリス保護領に組み込まれる。
 そして迎えた1965年7月26日、独立する。翌年には、国連への加盟が認められる。
1968年の新憲法の発効に伴い、イスラム教義に基づくスルタン制を廃止し、共和制をとる。ナシルが初代大統領に就任する。議会は、一院制をとる。地方行政は、環礁単位で行われる。1985年、英連邦に加盟する。
 1988年11月には、めずらしい事件が起こる。貿易商のルツフィがスリランカ・タミル人の傭兵隊を率いて大統領官邸を攻撃する。政府は、インド海軍に助力を要請して、なんとかこれを鎮圧する。1998年1月には新憲法が発効し、複数候補者による大統領選挙となる。
 2003年10月の大統領選挙では、ガユーム大統領が再選、6選となる。2005年、複数政党制を導入する。2008年、新憲法を制定する。2016年、英連邦からの離脱を宣言する。
独立以来のモルディブ経済については、主に漁業と観光から成り立っている。

(続く)

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♦️440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

2017-12-22 10:24:30 | Weblog

440『自然と人間の歴史・世界篇』ブータン

 ブータン王国は、南アジアに位置する。北は中国、東西南はインドと国境を接する。内陸国だ。国教はチベット派仏教。21世紀初頭での民族構成は、チベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語だが、英語も一般化している。首都はティンプー。
9世紀頃までに、原住民はチベット軍の支配下に入る。その前のこのあたりの歴史は、はっきりしないのだが。チベットの力が浸透するにつれ、両者の混血により、現在の中心民族ガロップがつくられていく。
 17世紀、チベット仏教の高僧ガワン・ナムゲルらがこの地にやってくる。布教のためではなく、この地を治めるためであった。そして、各地に割拠する群雄を征服していく。自ら初代法王と称し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握する。
 18世紀に入ると、中国そしてイギリスの影響がこの地に及んでくる。19世紀末、今度は東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが、支配的郡長として台頭してくる。
 1907年、トンサの領主ウゲン・ワンチュクが、ラマ僧や住民に推される形で法王と摂政を廃す。そして、初代の世襲藩王に就任する。これにより、現王国の基礎を確立する。1949年には、インドとの友好条約を結ぶ。
 1952年に即位した第3代国王ジグメ・ドルジ・ウォンテュック(在位は1952~72)は、気鋭の近代化政策を打ち出す。1959年のチベット動乱を契機に、インドとの外交、軍事のみならず、経済でも結びつきを深めていく。当時のインドから民主化で茂樹を受けたものと思われる。農奴解放、1人あたり30エーカー以下への耕地所有の制限、英語による近代教育の普及、国民議会の創設、最高裁判所の設立、郵便制度の創始など、盛り沢山の制度改革を行う。
 かれは、経済政策でも新味なものを打ち出す。友好国インドの援助を受けながら、5か年計画で、森林開発や水力発電、鉱物資源探査など、大いなる山間地で小国が生きて行くための方策を練るのであったが。
 1962年には、国家としての自立を目指してのコロンボ・プランを試みる。1964年、地方豪族間の争いに起因する首相暗殺があったり、その後に任命された首相による宮廷革命の企み発覚があったりする。これらによる政情不安定に対し、首相職が廃止され、国王親政がとられる。1969年の万国郵便連合、71年の国際連合へと連なっていく。
 1972年、16歳で即位した第4代国王ジグメ・シンゲ・ウォンチュックは、前の国王が敷いた近代化、民主化路線を継承・発展させていく。王政から立憲君主制への移行準備を主導していく。2001年には、成文のなかった憲法草案の作成が始められる。
 2006年12月、第4代国王の退位により、5代目が王位を継承する。2007年12月及び2008年の総選挙を経て、2008年4月に民主的に選出されたティンレイ政権が誕生する。5月には国会(一院制)が召集される。7月に憲法が施行となり、それまでの王政から議会制民主主義を基本とする立憲君主制に移行する。

(続く)

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♦️439『自然と人間の歴史・世界篇』バングラデシュ

2017-12-22 10:23:24 | Weblog

439『自然と人間の歴史・世界篇』バングラデシュ
 
 バングラデシュ人民共和国は、南アジアに位置する。現在のインドの西隣、ベンガル地方というところにある。西インドのベンガル州を含む一帯でもある。地勢的には、平野部に位置する。気候としては、モンスーンといわれる高温多湿な中にある。ここには、ガンジス、ブラフマプトラ、メグナの3つの大きな川と、その支流に当たる無数の川が流れる。
 この地には、紀元前413年、ナンダ朝が成立する。これは、マガタ国が発展したもので、ガンジス川流域の現在のインドビハール州及び西ベンガル州の一部を領する。程度の程はよくわからないが、度量衡や貨幣経済も手掛けたやに伝わる。
 次には、マウリア朝の時代が来る。これは帝国クラスの国で、西はインダス川流域から東はガンジス川まで、現在のインドの大部分を治める。最盛期とされる第三代のアショーカ王の治世では、仏教が行き渡る。だが、彼が死ぬとこの国は急に勢力が弱まり、紀元前180年頃に滅ぶ。
 それから混乱を経ての320年、幾つかの小国群立から抜け出したのが、グプタ王朝である。こちらは、パータリプトラを本拠にし、ジャラーと、パンジャブそしてベンガルを支配する。この王朝は、農業国だけでなく、貿易も盛んにする。国境はヒンドゥー教であっても、仏教など他宗派にも寛容であった。やがて北方からの攻撃に悩むようになり、それに応じて国内も混乱してゆき、520年頃には滅ぶ。
 6世紀になると、西北ベンガルにシャシャンカ率いるガウダ国が現れる。ところが、彼が637年に死ぬと、この国は力を失う。750年頃、ゴーパーラがパーラオア王朝を建てる。ベンガルやビハールを含むインド亜大陸の北部を広く領する。この王朝は、宗教面では比較的寛容であった。グプタ王朝のように、ヒンドゥー教を国教としつつも、他の宗派も保護したという。
 こちらは400年余の後国内が乱れたところを、1160年頃にセーナ朝によって滅ぼされる。セーナ朝は、西ベンガルに成立した国で、ヒンドゥー教における最上位のカーストとしてのバラモンを厚遇することで、勢力の安定を得ようと計らう。
 1202年には、この地にもトルコ系の勢力が攻めてきて、ムスリム王朝である「奴隷王朝」を打ち立てる。1342年には、ベンガル地域を勢力下におくイリアス・シャー朝が成立する。これが1410年に滅ぶと、ヒンドゥーのラジャ・ガネシュ朝が興る。ムスリムの有力者たちは、後を継ぐ王がムスリムに改宗することを条件に、これに従う。1437年、ナシルディン・マハムードが後期イリアス・シャー朝の王位に就く。彼は、ベンガル出身の王で、ベンガル語の振興にも尽くした。そして迎えた1526年、バーブル率いる軍勢が、インドのデリーのロディー朝を滅ぼす。彼らは、ムガル王朝を築く。1587年頃までに、全ベンガル期は無ガル王国の支配下に入る。この支配は、1858年にムガル帝国が滅亡するまで続く。
 1947年8月、パキスタンの一部(東パキスタン)として独立。これは、印パ分離独立に伴うものであった。インドからの分離独立は,宗教(イスラム)をアイデンティティの基盤に据えたものであった。1971年12月、バングラデシュとして独立。今度は、西パキスタンからの分離を果たす。こちらは、独立は,ベンガルという民族を基盤に成し遂げられたものであった。

(続く)

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♦️438『自然と人間の歴史・世界篇』ネパール

2017-12-22 10:22:24 | Weblog

438『自然と人間の歴史・世界篇』ネパール

 ネパール連邦民主共和国は、南アジアに位置する。内陸国。ヒマラヤ山脈を北にし、ネパール盆地を中心に人びとが暮らす。2008年に王制が廃止されてからは、共和制をとる。
 この地には、釈尊の生まれた場所ルンビニがあり、1997年世界遺産に登録される。
13~18世紀のマッラ王朝時代には、カトマンズと、工芸や商売に長(た)けたネワール族職人の集まるパタン、それに今でも中世が息遣いてるかのようなバドガオンの町とが、ともに栄えたのだという。これらのうちカトマンズには、「全域がヒンドゥー教と仏教、計7派にとっての信仰の地で、繊細な木彫を施した木造の家並みがひしめく路地の間に、寺社、ストゥーパ(仏塔)、沐浴(もくよく)場、庭園、仏像などが無数に見られる」(小学館「地球紀行、世界遺産の旅」1999)とのこと。
 そんな中でも興味をそそられるのは、スワヤンブナートと呼ばれる、ヒンドウー教とチベット仏教の性格をあわせもつ寺であり、巡礼者が仲良く共存しているというから、驚きだ。今、「カトマンズの谷」と呼ばれる地域は、多宗教が穏やかに共存する信仰の十字路になぞらえ、1979年にユネスコの世界遺産に登録される。
 1768年、グルカ(ゴルカ)勢力がカトマンズを征服する。プリトゥビ大王によるシャハ(ゴルカ)王朝として国家統一が成る。この時からの首都は、カトマンズ。1846年からは、ラナ将軍家による専制政治が行われる。1816年、イギリスにグルカ戦争で敗北したことにより、その保護国とされてしまう。1823年に王国としてイギリスから独立するのだが、1846年には宰相のラナ家に実権を奪われる。1951年、王政復古の号令が発出され、立憲君主制を回復する。
 1990年には、新憲法が制定される。2001年6月1日、ネパール王宮で事件が発生する。この事件直後にディペンドラ王太子が危篤状態のまま国王に即位するのだが、その3日後には死亡してしまう。その彼が父・ビレンドラ国王らの王族を殺害したといわれるのだが、そのことも含め事実関係ははっきりしていない。
 2007年1月、暫定憲法が成立する。2008年5月28日、王制が廃止され、制憲議会が発足する。2010年5月、制憲議会を1年延長する。2011年5月と8月、制憲議会をそれぞれ3ヵ月延長する。2011年11月、制憲議会がさらに6か月延長となる。2012年5月、制憲議会が期限内の憲法制定に至らず任期満了してしまう。
 2012年5月、制憲議会が期限内の憲法制定に至らないまま、任期満了となる。2013年3月、制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣が発足する。2013年11月、第2回制憲議会選挙が実施される。2014年1月、制憲議会が開会になる。2015年9月、新憲法が公布される。2017年5月、地方選挙の第1回投票を実施する。

(続く)

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♦️437『自然と人間の歴史・世界篇』スリランカ

2017-12-22 10:20:46 | Weblog

437『自然と人間の歴史・世界篇』スリランカ

 スリランカ民主社会主義共和国は、南アジアに位置する。インド亜大陸の南東にポーク海峡を隔ててある。首都はスリジャヤワルダナプラコッテ。
 紀元前483年、ヴィジャヤ王子らがスリランカに上陸する。そしてかけらは、シンハラ王朝を建設する。紀元前250年頃、仏教が伝来する。
 459年、アヌラーダプラ王朝のカッサバ王子が、父王を殺し、王位を奪う。カッサバ1世となり、高さ180メートルの岩上に王朝を築くのだが、王位簒奪から11年後には、弟にその座を追われる。これより後のイギリス統治下の1875年、イギリス人が岩山西の中腹にある洞窟から天女のフレスコ画を発見する。これを含めた「古代都市シーギリヤ」として、1982年ユネスコ世界遺産に登録される。
 12世紀、シンハラ朝は、パラークラマバーフ1世により最盛期を迎える。その2番目の都市ポロンナルワには、「ガル・ヴィハーラ」と呼ばれる釈尊の涅槃像などが伝わる。1982年、この古代都市の王宮や寺院などとともに世界遺産に登録される。1505年、ポルトガル人がこの地に来航する。1592年のシンハラ(キャンディ)朝第166代ヴィマラ・ダルマ・スーリヤ1世の時代には、島の沿岸部の大半がポルトガルの植民地に占められる中でも、島の中部のキャンディを都になんとか独立を維持する。
 第169代の王ナーランドラシンハの治世に建てられたダラダ・マリガワ寺(仏歯寺)には、釈尊の歯の一部を保存していると伝わる。釈尊自身はおそらく無神論者であった。そうであっても、火葬にふされた後の釈尊の歯を、一体誰が持ち帰ったというのであろうか。「赤味のある黄色の壁と茶色の屋根をもつ八角堂は、シンハラ建築様式の美を今に伝えている」(小学館「地球紀行、世界遺産の旅」1999)と評される。
 1658年には、この地にオランダ人がやって来る。1802年、アミアン条約によりスリランカはイギリス植民地となる。1815年、シンハラ(キャンディ)朝が滅亡し、全島がイギリスの植民地化となってしまう。
 1948年2月4日、イギリスから連邦内の自治領、セイロンとして独立する。1956年、バンダラナイケ首相が就任する。シンハラ語のみを公用語とする公用語法が成立する。1972年、国名をスリランカ共和国に変える。英連邦内自治領セイロンから独立する。1978年2月、ジャヤワルダナが大統領に就任する。1978年9月、国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称する。
 1983年7月、大騒擾事件が勃発する。政府軍と、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)との内戦が続く。1987年7月、インドとの間で平和協定が結ばれる。これに基づき、インド平和維持軍(IPKF)がスリランカに進駐する。1987年11月には、憲法改正が行われる。この中で、シンハラ語及びタミル語を公用語と規定する。州評議会制度を導入。1989年1月、プレマダーサが大統領に就任する。1990年3月には、IPKFの完全撤退に踏み切る。

(続く)

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♦️436『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン

2017-12-22 10:18:47 | Weblog

436『自然と人間の歴史・世界篇』バキスタン

 パキスタン・イスラム共和国は、南アジアに位置する。イギリス連邦加盟国。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。
 1947年、イギリス領インドより独立する。また、インドと土地紛争が持ち上がる。これを「第1次印パ戦争」という。1948年、「建国の父」とされるジンナーが死去する。1956年、「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)が公布・施行となる。
 1958年、アユーブ・カーン陸軍大将によるクーデター。アユーブ・カーン陸軍大将が大統領に就任。1962年、「パキスタン共和国憲法」(大統領制)公布・施行。1965年、第2次印パ戦争。 1969年、アユーブ大統領辞任。ヤヒヤー陸軍参謀長が大統領に就任する。
 1970年、初の総選挙が実施となる。1971年、第3次印パ戦争が起こる。東パキスタンがバングラデシュとして分離独立を果たす。ブットー人民党(PPP)党首が大統領に就任する。1973年、「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)公布・施行。ブットー大統領が首相に就任する。1977年、総選挙実施があるが、ハック陸軍参謀長らによるクーデターが勃発する。1978年、ハック陸軍参謀長が大統領に就任する。1979年、ハック大統領が「イスラム化政策」を開始する。
 1985年、総選挙が行われ、ジュネージョ首相が就任する。また、憲法の8次修正が行われる。1988年、ハック大統領がジュネージョ首相を解任する。ハック大統領が軍用搭乗機の墜落事故によって死ぬと、カーン上院議長が大統領に就任する。これにより、総選挙が実施され、ブットー首相が就任する。
 1990年、カーン大統領がブットー首相を解任する。総選挙が行われ、シャリフ首相が就任する。1993年、カーン大統領がシャリフ首相を解任する。総選挙が実施され、ブットー首相が就任する、1996年、レガーリ大統領がブットー首相を解任する。1997年、総選挙が実施され、シャリフ首相が就任する。そして、憲法第13次修正がある。このように政情は、クルクル変じて、誠に慌ただしい。このように政情が安定しない原因とは、何であるのか。
 1998年、パキスタンは核実験を行う。以来、核兵器の開発に力を注ぎ、核兵器保有国となる。1999年、カルギル紛争が勃発する。また、ムシャラフ陸軍参謀総長によるクーデターが起きる。ムシャラフ陸軍参謀長が行政長官に就任する。2002年、総選挙が実施される。2007年、大統領選挙の実施でムシャラフ大統領が再選されると、彼は非常事態宣言を出す。
 2008年、総選挙実施でギラーニ内閣が発足する。ムシャラフ大統領が辞任し、ザルダリ大統領が就任する。2012年、ギラーニ首相が辞任し、アシュラフ内閣が発足する。2013年、総選挙実施でシャリフ首相が就任する。フセイン大統領が就任する。2017年、アバシ首相が就任する。

(続く)

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