49『自然と人間の歴史・世界篇』ヒッタイト王国
ここでの歴史の舞台は、紀元前19世紀のアナトリア半島。この地は、現在のトルコ中央部にして、地中海、黒海、エーゲ海、マルマラ海に囲まれる。このあたりには、北方からインド・ヨーロッパ語属を話す人たちが移動して来て、住み着く。このあたりには、メソポタミアのような大河による灌漑農耕文明のない、高原地帯が広がる。
紀元前1900年頃、半島の東部に位置するキュルテペにおいて、アッシリア人たちが、商業的な植民都市を建設する。紀元前1680年、王国が建つ。インド・ヨーロッパ語属の一派のヒッタイト人の王ラパルナス1世(前1680~前1650)が、先住民族を従えてこれをたてた。これを「ヒッタイト古王国」という。その後は、養子、義弟、義子などによって王統が受け継がれていく。多数の同盟国や土地を割り当てられた王族の領土も存続していくのであった。
紀元前 1650年頃、ハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を最初の王都とし、強力な帝国に成長していく。アナトリア全土を支配下に置くにいたる。内を固めるばかりではなく、アレッポ、カルケミシュといった同盟者も多数いたことが分かっている。
紀元前16世紀の初め、4代目の王ムルシリスの治世には、シリアにも攻め入っている。顕在の歴史書に「古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす」とあるのは、メソポタミアの文書に「サムスディタナの時代に、ヒッタイト人がアッカドの地に侵攻した」とされており、紀元前1600年のやや後に、カッシート人と協力して同国を滅ぼしたと考えられている。
紀元前1590~同1525年には、内乱がまだんなく、だらだらと続いていた。これを平定したのが王朝の外戚のテリピヌスであった。この古王国は、紀元前15世紀初頭まで君臨するのだが、彼の死後、この王国がどのようにして弱体化し、没落への道をたどっていったのかは、よくわからない。
紀元前1430年には、ヒッタイト新王国が成立する。紀元前1380年、スピリリウマス1世(~前1346)が登位する。古王国の政治にとって代わったのだろうか、それとも禅譲という形をとったのであろうか。今度の王位の系統については、こういわれる。
「(中略)その新王朝は古王国のものとは別系統に属し、東方のフリ人の血の濃いものであった。王たちは古王国時代の王名を採用したが、実際にはフリ人がアナトリアの支配者となったのである。この事実はテリピヌスからスピリリウマス1世にいたる120年間は、西アジア全域でフリ人と印欧語族との国家であったミタンニ王国の影響力が非常に強かったことを示している。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
この時代、対外的にはエジプトの第18王朝と相対峙していた。エジプトは北へと力を伸ばしてきていた。ヒッタイト帝国の方も、紀元前14世紀には最盛期を迎えていた。紀元前1330年頃、シュッピルリウマ王の軍が、ミタンニを制圧する。紀元前1273年には、カデシュの戦いがある。カデシュはオロンテス川流域の要衝であって、ヒッタイトの王ムワッタリスを盟主とする親ヒッタイト勢力(前述)との同盟軍が、エジプト新王国ラメセス2世の軍と戦い、エジプト軍は不利な戦局にみちびかれる。
けれどもなかなかに決着がつかない。そして開戦から数年が経った紀元前1283年、ヒッタイト王ハットゥシリス3世は、アッシリア帝国による東方からの脅威に対抗するべく、一転してエジプトと講和条約を結ぶ。その条文が遺っていて、相互の援助条約により、第三者の攻撃に対し共同で当たることを約す。それからは、姻戚関係を結ぶなどする関係になりかわる。
それからさらに、大いなる時が経過していく。ハットゥシリス3世の後は、ヒッタイト王国は弱体化していく。代わって、アッシリアが勢力を増していく。紀元前1250年、バビロンを占領してカッシート人の国家を滅ぼす。エジプト王国はというと、ラメセス2世の後も概ねその力を保持するのであって、海の民の撃退できたのではないか。
しかし、ヒッタイト帝国の方はそれだけの力がなくなっており、「海の民」はカデシュの戦いにおいても双方の傭兵として使われたりしていたが、次第にヒッタイト帝国の足元を堀り崩すようになっていてく。
そして迎えた紀元前12世紀初頭の1190年頃、さしもの大帝国も滅亡する。小川英雄氏によれば、その模様は、「(前略)海の民の勢力はフリュギア人と協同してヒッタイト帝国を滅ぼし、オリエント世界に新しい混乱の時代を到来させた」(小川英雄、前掲)のだという。同様に、「「すでにカデシュの戦の時にヒッタイト軍の傭兵として姿を現した「海の民」と呼ばれる強力な移住民、それと友にとりわけアルヌワンダス三世時代にアナトリアに出没するようになった同じく印欧語系のフリュギア人が、前1200年頃ハットゥサスを掠奪し、王家は壊滅的打撃を受けた」(小川英雄、前掲)とも語られる。
このようにヒッタイト滅亡の引き金は「海の民」の侵攻とされてきたのだが、その根拠とされるのは古代エジプトの碑文の記述くらいに限られるのではないか。また、「海の民」の正体についても、彼らの侵攻を示すだけの考古学的な形跡が未だに見つからないことから、文献史料だけで結論されるのは、いささか早計な気がするのだが。
(続く)
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