♦️503『自然と人間の歴史・世界篇』ウガンダ

2017-12-14 10:32:05 | Weblog

503『自然と人間の歴史・世界篇』ウガンダ

 ウガンダ共和国(1962年10月9日に独立、旧宗主国はイギリス)は、東部アフリカに位置する。ケニアの西側に隣接す。内陸国だ。この地における、一連の細長い湖だが、アフリカ大地溝帯(グレイト・リフト・バレー)の中にできた深い溝にほかならない。ここの付近で、大地はほぼ東西に裂けつつある訳だ。高地ながら気候は温暖である。
 話は、15世紀に遡る。この頃ナイル系の牛牧畜民が、ビクトリア湖北岸から西岸にかけての地域、肥沃な半月形の土地に侵入する。そして、以前からこの地で農耕を営んでいたバンドゥー系原住民を従えて支配者となる。1500年頃、同じくナイル語系の美と王族がとってかわり、ブニョロ王国を築く。現在のウガンダの南半分の地域をほぼ支配するにいたる。1650年頃、この王国は最盛期を迎える。それからは下り坂になり、代わって南に隣接するブガンダ王国が強大になっていく。
 19世紀に入ると、ヨーロッパ人の探検熱が高まり、その一つの表れとして、ナイル川の源流を突き止めようとする。1862年、スピークとグラントの2人の探検家が、始めてブガンダ王国を訪れる。1890年には、この地域に転機が訪れる。イギリスとドイツが話し合いで、この地をイギリスの勢力範囲認め、東アフリカ会社の統治下におく。この会社の先遣隊が現地で抵抗に遭い、イギリス政府に助けを求める。イギリス政府はこれを承認して、1894年、イギリスはこの地を保護領とする。
 1900年には、イギリスとの間で「ウガンダ協定」が結ばれる。ブガンダ国では、カバカという王が支配していたのが、この協定により王室以外にも、有力者に一部の土地に私有制を認める。つまり、イギリス保護領の一つちとしてかなり広範囲での自治を認める。 1903年、ウガンダに綿花栽培が導入される。イギリスのもう一つの狙いは、ここにあったのだといえよう。1945年1月、ブガンダ王国政府閣僚の退任を求める民衆暴動が起きる。1947年、ムサジを指導者として、「ウガンダ・アフリカ人農民組合」(UAFU)が組織され、「綿花の農民による自由販売と、繰り綿工場設立の許可」をウガンダ政府に突きつけるという、民衆の暴動が起きる。
 1949年、カンパラ周辺に怒った民衆による暴動が広がる。焼き討ちもあったことから、「バダカ党とUAFUはこのため非合法化されてしまう」()ことになる。
 1952年3月、「ウガンダ国民会議」(UNC:Uganda National Congress)が創設される。その目標は、「ウガンダ全民族の統合とウガンダの自治達成、経済を住民本位のものにすること、義務教育制度」(同)などを要求する。
 1953年11月、イギリスの総督がブガンダ王をロンドンに追放する。1955年10月、ブガンダ王の帰還が実現する。1958年になると、UNCからの脱退者が相次ぎ、UNCは勢力を次第に失っていく。

(続く)

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♦️495『自然と人間の歴史・世界篇』モーリシャス

2017-12-14 09:58:52 | Weblog

495『自然と人間の歴史・世界篇』モーリシャス

 モーリシャス(1968年3月12日に独立、旧宗主国はイギリス)は、インド洋に浮かぶマスカレン諸島に位置する共和国である。首都はポートルイス。1989年時点の人口は、99万人であったという。
 10世紀頃から、このあたりのモーリシャス島、ロドリゲス島、アガレガ島などは、インド商人の貿易中継地になっていた。このため、インド人がこれらの島に立ち寄る。現在でも、インド系住民が過半数を占める。その後、大航海時代に入ってからの1510年頃この地にポルトガル人が寄港する。この時は、無人島であったとの説もある。
 それからは、めまぐるしく支配者が入れ替わる。1598年、オランダ人がモーリシャカ島を征服し、オランダ領となる。インド航路の補強地として利用する。「モーリシャカ」島との命名であるが、「当時オランダが行っていた独立戦争の指導者であるオラニエ・ナッサウ家のマウリッツにちなみ島をマウリティウス(この英語命がモーリシャカ)と名づけた」(「アフリカを知る事典」小学館)と説明されるところ。
 1715年、どういう次第なのか、オランダがこの地の支配を放棄したのだという。1715年、フランス領となり、首都ポートルイスを建設する。ナポレオン戦争の1810年のこと、力の空白を利用してイギリスがこの島を占領する。その戦後に、イギリス領・植民地となる。イギリスが1833年に奴隷解放令を定めてからは、アフリカ人奴隷にかえてインド人労働者、さらに中国人労働者雇って、現地のサトウキビのプランテーションを拡大していく。
 第二次世界大戦後は、どうなっていったのか。島民の自治意識の目覚め、それに国際世論の高まりがある。そして迎えた1968年3月、イギリスより独立し、ラングーラム労働党首が首相に就任する。1982年6月、総選挙でジュグノートが首相に就任する。
 1991年12月、英国女王を元首とする立憲君主制から共和制へ移行のための憲法改正が行われる。1992年3月、モーリシャス共和国となる。1995年12月、総選挙で野党連合が圧勝し、ラングーラム首相が就任する。1997年6月、ラングーラム首相がベランジェ外相を罷免し、連立政権に終止符を打つ。
 2003年10月、ジャグナットが大統領に就任する。2008年9月、ジャグナット大統領が再任となる。2012年3月、ジャグナット大統領が辞任し、ベルポー副大統領が大統領代行を務める。2012年7月、ピュリャグが大統領に就任する。
 産業としては、21世紀になった今でも耕地の大部分がサトウキビ畑で占められる。

(続く)

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♦️496『自然と人間の歴史・世界篇』コモロ

2017-12-14 09:32:30 | Weblog

496『自然と人間の歴史・世界篇』コモロ

 コモロ共和国(1975年7月6日に独立、旧宗主国はフランス)は、インド洋のコモロ諸島のグランドコモロ島、アンジュアン島、モヘリ島で構成される。コモロ政府はフランス領マヨット島の領有権も主張しているが、事実上はマイヨット島を除く3島を領有しているに留まる。海を隔てて西にはモザンビークがあり、東南にはマダガスカルがある。
1989年時点の人口は、約50万人。
 11~16世紀、シラージ系のアフリカ人がここにやってきて、先住の人びとを支配していく。イスラム教を信仰していて、小部族ごとにスルタン制度をとっていた。16世紀にヨーロッパ人がインド洋に進出してくると、この地は、東アフリカ沿岸一帯とマダガスカルで手広く行われていた奴隷貿易の中継地として繁栄する。
 18世紀末から19世紀初めにかけて、コモロはマダガスカルのサラカラバ系を中心とするアフリカ人による、掠奪に苦しめられる。1832年、サラカラバ系の王のひとりが、マホレ島に臣下を連れて逃げ込んできた。現地の人びとはさぞかし驚いたに違いない。やってきた王は、先住のスルタンを追放して、自分がとって代わる。1843年、彼は他の島のスルタンに対抗するために、フランスに島を売却し、その保護を求めるのだが。ここに、フランスは労せずして、コモロ群島の支配の糸口をつかむ。1886年、このあたりはフランスの保護領となる。
 それから、百年近くの時が経過する。1975年7月、コモロ共和国として独立し、アーメド・アブダラが大統領に就任する。けれども、マワレ島については、コモロという国への帰属をフランスは拒否する。1976年1月、クーデターによりアリ・ソワリ大統領が就任する。1978年10月、新憲法が採択され、国名をコモロ・イスラム連邦共和国に変更する。アーメド・アブダラ大統領が、国民投票で復帰する。
 1989年11月、憲法改正の国民投票が実施される。また、アブダラ大統領が暗殺される。1990年3月、ジョハール大統領が就任する。1995年9月、クーデター未遂事件があり、ジョハール大統領はフランス領ユニオン島へ逃れる。1996年3月、モハメッド・タキが大統領に就任する。1997年8月、アンジュアン島・モヘリ島が独立を宣言し、武力衝突が発生する。
 1998年11月、タキ大統領が急死し、タジディン共和国最高評議会委員長が大統領代理に就任する。1999年4月、クーデターにより、軍参謀本部長アザリ大佐が政権を掌握する。2001年12月、国民投票により新憲法採択,国名をコモロ連合に変更。2002年5月、アザリ大統領が就任する。2004年3~4月、 各自治島議会議員選挙及び連合議会議員選挙を実施する。2006年4~5月、 大統領選挙でサンビ大統領を選出する。
 2009年5月、国民投票により憲法を改正する。自治島政府大統領の島知事への地位変更や大統領任期の1年延長、大統領権限を強化する。2010年12月、大統領選挙があり、イキリル副大統領を大統領に選出する。2016年5月、大統領選挙があり、アザリ元大統領が大統領に選出される。

(続く)

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♦️497『自然と人間の歴史・世界篇』マラウィ

2017-12-14 09:31:03 | Weblog

497『自然と人間の歴史・世界篇』マラウィ

 マラウイ共和国(1964年7月6日に独立、旧宗主国はイギリス)は、アフリカ大陸南東部に位置する。イギリス連邦加盟国である。旧称はイギリス保護領ニヤサランド。首都はリロングウェ、最大の都市はブランタイヤである。アフリカ大地溝帯に位置する内陸国である。
 1891年、イギリスの保護領となる。1953年、ローデシア・ニヤサランド(現マラウイ)連邦に組み込まれる。1964年、英国より独立する。独立後も、南アフリカとの関係を続けていく。
 1966年、マラウイ議会党による一党制に移行し、バンダが大統領に就任する。1993年、国民投票により一党制から複数政党制へ移行する。これで、民主主義のレベルが某か上がったと見て良い。1994年、独立後初めての大統領・議会選挙、ムルジが大統領に就任する。1999年、ムルジ大統領が再任される。2004年、ビング・ワ・ムタリカ大統領が就任する。2009年、ビング・ワ・ムタリカ大統領が再任される。2012年、バンダ大統領が就任する。2014年、アーサー・ピーター・ムタリカが大統領に就任する。
 産業だが、煙草や茶などの農産物の輸出に頼る傍ら、漁業も盛んだ。その1989年時点での様子については、「タバコ栽培は自作農も、マラウィ人所有の企業体も行っている。これに対して茶は、外国資本の企業が大規模経営をしている。マラウィ湖での漁業は盛んで、魚は国民の食生活のうえで大きな位置を占めている」(浮田典良・大林太良「世界の国ぐに大百科」第3巻、「中南米・アフリカ」ぎょうせい、1992)いわれる。

(続く)

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♦️498『自然と人間の歴史・世界篇』モロッコ

2017-12-14 09:28:30 | Weblog

498『自然と人間の歴史・世界篇』モロッコ

  モロッコ王国(1956年3月2日に独立、旧宗主国はフランス)は、北アフリカ北西部のマグリブに位置する。東にアルジェリアと、南に西サハラと、北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト。
  7世紀、このあたりにはアラブ・イスラム軍が遠征してくる。現地の人びとを支配下におくとともに、自らもしだいに現地化していく。789年、イスラム勢力であるイドリース朝がこの地に興る。この王国は、第4代カリフのアリーとその妻のムハンマドの娘ファーティマの血を引くというイドリース・イブン・アブドゥッラーの勢力がこの地に移って建国する。彼は、メディナでアッバース朝のカリフのハールーン=アッラシードに対する反乱を起こすも、失敗。西に逃れてマグリブ地方の西端のモロッコ に渡る。そして、ベルベル人の支持を受ける。イドリース1世は、都をフェズに定め、809年に建設する。
  「809年にイドリース朝の首都として建設されたメテセィナは、フェズ・エル・パリ(古いフェズ)と呼ばれる。その西側には、13世紀にマリーン朝がつくったフェズ・エル・ジャディード(新しいフェズ)、そしてこれらの外側に、フランス領以降の市街が広がる」(小学館編「地球紀行・世界遺産の旅」小学館、1999)
  イドリース朝2代目のイドリース2世は周辺に領域を広げ、意気軒昂なイスラム王制を推進していく。
 「(中略)モロッコで最初の王というに相応しいのはイドリス2世で、かれはシェリフ(預言者の血統をひく者)であることを自称していた。かれの父イドリス1世は、ハルーン・アル・ラシッドによってバグダードから追われたのであった。だがイドリス1世の統治は短く、約20年にすぎず、版図もフェズとその周辺のみに限られた狭いものであった。イドリス一族がバラカ(神の思し召し、天恵を意味し、広義には統治能力の根源とされる)の血統系譜論を持ち込みはしたものの、それを確立するするには至らなかった。」(クリフォード・ギーアツ著、林武訳『二つのイスラーム社会-モロッコとインドネシア-』1968、岩波新書)
 イドリース2世の死後は、どうなっていったのか。チュニジアに起こったファーティマ朝と、イベリアの後ウマイヤ朝の間に挟まれ、しだいに弱体化していく。内紛が生じたこともある。926年にファーティマ朝によってフェスを占領されて滅ぶ。11~13世紀には、ムラービト朝とムワッヒド朝があらわれ、イドリース時代の血統的支配を一掃して、聖者支配をとる。この両国の時代には、このあたりだけに留まらず、イベリア半島からアルジェリア、チュニジアにまで支配を広げる。
 イスラムによる王制は、さらにマリーン朝(1196~1465)、ワッタース朝(1472~1549)、サード朝(1549~1659)、アラウィー朝(1631~)へと興亡が続いていく。19世紀になると、西洋列強に狙われる中で、綱渡りを演じていく。1912年3月のフェス条約によって、モロッコはフランスの保護領となる。現在のモロッコの北部は、同年のフランス・スペイン条約でスペインの支配下に入る。
 第二次世界大戦後1956年3月、立憲制の国としてフランスからの独立を果たす。同年の4月7日から1969年6月30日にかけてスペイン領の他4地域を編入する。
 1961年2月、モハメッド5世が急逝し、ハッサン皇太子が国王に即位する。1975年11月、西サハラ非武装越境大行進がある。1976年、西サハラの領有による財政危機と鉱石の価格下落の両面から、政情が不安定になっていく。1983年には、モロッコはアフリカ統一機構(OAU)を脱退する。1989年2月になると、アラブ・マグレブ連合条約が調印される。これで創設されたのは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モーリタニアそしてモロッコの5ヵ国からなる経済協力の仕組みであって、加盟国間の経済から文化までの幅広い協力を促進することを謳う。

(続く)

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♦️499『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア

2017-12-14 09:25:50 | Weblog

499『自然と人間の歴史・世界篇』ギニア

 ギニア共和国(1958年10月2日に独立、旧宗主国はフランス)は、西アフリカ西端に位置する。共和制国家。北にセネガル、北西にギニアビサウ、北東にマリ、南にシエラレオネ、リベリア、南東にコートジヴォワールと国境を接する。西は大西洋に面する。首都はコナクリ。
 14-15世紀、マリ帝国の支配下にある。17世紀、イスラム化したフルベ族が現在のセネガルからこの地へ流入する。そして、中央ギニアのフータジャロン地域に定住していく。18世紀前半、この地にイスラムの軍事王国をつくる。
 1890年代になって、フランスが同国の植民地体制を構築する。1904年、フランスの植民地に編入される。
 そして迎えた1958年、ドゴールのフランスがフランス共同体構想を打ち出す。ギニアは、この構想に住民投票で唯一反対し、フランスからギニア共和国として独立し、セク・トゥーレが大統領に就任する。
 1978年、国名を「ギニア人民革命共和国」に変更する。1984年、セク・トゥーレ大統領が死亡する。軍事クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握する。「無血クーデター」であったという。「ギニア共和国」に再度国名を変更する。1993年、大統領選挙でコンテ大統領を選出する。1998年12月、大統領選挙でコンテ大統領が再選される。2003年12月、大統領選挙があり、コンテ大統領が3回目の当選を果たす。2007年1~2月、ゼネスト状況下でのデモ隊と治安部隊の衝突により死傷者が発生する。
 2008年12月、コンテ大統領が死去。同月、カマラ大尉を中心とする民主主義と発展のための国民評議会(CNDD)によるクーデターが発生し、暫定軍事政権が始動する。2010年2月、ドーレ首相が就任し、国家暫定政府が発足する。2010年6月及び11月、大統領選挙でコンデ大統領を選出する。2013年9月、国民議会選挙がある。2015年10月、大統領選挙でコンデ大統領が再選される。

(続く)

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♦️500『自然と人間の歴史・世界篇』カメルーン

2017-12-14 09:24:40 | Weblog

500『自然と人間の歴史・世界篇』カメルーン

 カメルーン共和国(1960年1月に独立、旧宗主国はフランス)は、中部アフリカに位置する。ギニア湾の付け根のあたり、赤道直下の国だ。西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西に赤道ギニアに隣接する。南西部は大西洋、ギニア湾に面する。首都はヤウンデ。
 1960年1月、フランス領カメルーンから独立する。1960年5月、アヒジョが初代大統領に就任する。この年のアフリカは、まさに独立ラッシュの様相を呈していた。1961年2月、イギリス信託統治地域の一部が人民投票により西カメルーンとなる。初代の大統領には、東カメルーンのアヒジョが就任する。
 1961年10月、カメルーンの西に西側に接していた旧スギリス植民地の南部地域が、独立、旧フランス領カメルーンとともにカメルーン連邦共和国として出発する。
 1972年5月、連邦制を廃し、「カメルーン連合共和国」に衣替えする。1982年11月、アヒジョ大統領が突如辞任し、彼の側近のビヤ首相が大統領に就任する。
 1984年1月、ビヤ大統領が再選される。彼はキリスト教徒であるためか、反イスラムに傾く。国名を「カメルーン共和国」に変更する。1984年の欠席裁判で、アヒジョ前大統領が1983年のクーデター計画に関与したとして死刑を宣告される。が、ひの後終身刑に減刑される。1988年4月、ビヤ大統領が再選される。唯一の候補者として選挙に臨み、99.98%の賛成であったというから、驚きだ。
 その後は人権抑圧を指摘する国際世論に影響されたのか、1986年、政治犯の釈放や帰国許可を施すにいたる。1990年12月、複数政党制を導入する。これで、民主主義の裾野が幾分でもひろがったのではないか。1992年10月、大統領選挙でビヤ大統領が再選される。1996年1月、地方選挙で野党側が勝利する。1997年5月、国民議会選挙がある。
 1997年10月、大統領選挙でビヤ大統領が再選される。2002年6月、国民議会選挙及び地方議会選挙が行われる。2004年10月、大統領選挙があり、ビヤ大統領が再選される。2011年10月、大統領選挙があり、ビヤ大統領が再選される。2013年4月、上院選挙がある。2013年9月、国民議会選挙が行われる。

(続く)

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♦️501『自然と人間の歴史・世界篇』ガボン

2017-12-14 09:22:15 | Weblog

501『自然と人間の歴史・世界篇』ガボン

 ガボン共和国(1960年8月17日に独立、旧宗主国はフランス)は、中部アフリカに位置する。北西に赤道ギニア、北にカメルーン、南と東にコンゴ共和国と国境を接する。西は大西洋のギニア湾に面す。首都はリーブルヴィル。
 1910年、フランスはこの地をフランス領赤道アフリカに編入する。1913年、ここカボンのランベレネにやって来て、自らの資金で病院を建て、経営するようになったのが、シュヴァィツァー博士である。彼は、パイプオルガンの奏者でもあり、1965年に死ぬまでこの地に留まって多くの仕事をなす。
 そして迎えた1960年8月、フランスから独立する。1961年2月、レオン・ムバが初代大統領に就任する。1964年には、早くもクーデター未遂事件が起きる。
 1967年11月、オマール・ボンゴが大統領に就任する。1973年2月、オマール・ボンゴ大統領が再選される。1990年4月、複数政党制移行決定し、9同制度で初の国民議会選挙が実施される。1991年3月、新憲法、政党法を国民議会で採択する。1993年12月、複数政党下初の大統領選挙実施でオマール・ボンゴ大統領が5選される。1997年3月、二院制へ移行する。1998年12月、大統領選挙でオマール・ボンゴ大統領が6選、任期は7年。
 2001年12月、国民議会選挙が実施され、2002年1月には「開かれた内閣」発足。これに野党が入閣してくる。2005年11月、大統領選挙でオマール・ボンゴ大統領が7選、任期7年。2009年6月、オマール・ボンゴ大統領が死去し、8月の大統領選挙でアリ・ボンゴ国防大臣が当選する。2009年10月、アリ・ボンゴ大統領が就任する。2011年12月、国民議会選挙が実施される。2013年12月、地方選挙が実施される。2016年8月、大統領選挙が行われる。2016年9月、アリ・ボンゴ大統領が再選される。

(続く)

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