535「自然と人間の歴史・世界篇」カナダ
カナダは、北アメリカ大陸北部に位置する。アメリカ合衆国と国境を接する。10の州と3つの準州との連邦を構成している。立憲君主制国家。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。首都はオタワ。国土面積はロシアに次いで広い。
1000年頃、ニューファンドランド島北部に北欧バイキングが短期間留まる。これが、初のヨーロッパ人だと伝わる。1492年、コロンブスがバハマ諸島に上陸する。1497年、イギリスが派遣したイタリア人ジョン・カボットが、カナダの東海岸を発見、上陸した島をセント・ジョン島(現ニューファンドランド島)と命名する。
1534、フランス国王の命を受けたリタリア人探検家ジャックルカルティエが、セントローレンス湾に面したガスペ半島に上陸し、この地をフランス領土を宣言する。
1583年、ギルバートが、ニューファンドランドにイギリスの海外初の植民地を建設する。1604年、フランスのシャンプランがアカディア(現ノヴァ・スコシア)にフランス領植民地を建設する。1608年には、シャンプランが、ケベック砦を建設する。ここに「ケベック」とは、先住民の言葉「川幅の狭くなるところ」を意味する。また、先住民の構成については、後の「1982年憲法」で「インディアンとメイティ、イヌイット」のことだと規定される。1610年、アジアへ抜ける北西航路を探していたヘンリー・ハドソンが、大陸北部の湾(現在のハドソン湾)を発見する。
1620年、メイフラワー号で、イギリスのピュリータンがマサチューセッツに上陸する。これに負けじと、1627年、フランスがニューフランス会社を設立し、カナダ支配を任す。1642年、メゾヌーヴが、モントリオールにヴィルマリーを建設する。
1670年、イギリスがハドソン・ベイ社を設立し、大西洋沿岸の開拓に乗り出す。1682年、フランスのラ・サールが、ミシシッピ川流域を探検しルイジアナを開拓する。
1689~1697年のウィリアム王戦争、1702~1713年のアン女王戦争が繰り広げられる。
1713年、ユトレヒト条約で、ニューファンドラン、アカディア、ハドソン湾岸がイギリス領となる。それからも、1754~1763年、フレンチ・インディアン戦争。
1763年、パリ条約と続く。1791年には、イギリス議会が、ケベック植民地をオタワ川を境に西のアッパー・カナダと東のロウワーカナダに2分する。
1837年、マッケンジーがアッパー・カナダで、パピノーがロウワー・カナダで反乱が起こる。1839年、反乱鎮圧に派遣されたダラム卿が、アッパー・ロウ両カナダの統合と政治的独立を果たしたいと、イギリス政府に勧告する。
1841年、連邦法により、アッパー・ロウワー両カナダの統合が実現し、カナダ連邦が誕生する。1846年、北緯49度をアメリカとの国境に定める。1848年、ノヴァ・スコシアにカナダ政府が実現する。1859年、オタワが首都になる。1864年、シャーロットタウン会議とケベック会議で、連邦結成のための決議が採択される。
1867年、イギリス帝国(イギリス連邦)領北アメリカ、カナダ自治領(「ドミニオン・オブ・カナダ」)が成立し、初代首相にマクドナルドが就任する。このドミニオン(Dominion)だが、現在はカナダの州であるニューファンドランド・ラブラドール州を領域として、1949年にカナダ連邦に併合されるまで存在した。
1868年、ハドソン・ベイ社が連邦政府にルパーツランドを委譲する。1869年、ルイ・リエルの反乱でマニトバ出身のルイ・リエルを首班にメティスが臨時政府を樹立する。1870年、ニトバ州がルパーツランドから分離し、連邦に加入する。
1873年には、カナダ最高裁判所のニスガ判決により、土地に関する条約を締結していない先住民の権限(ネイティブ・タイトル)は消滅していない、と認める。1876年、インディアン法の制定に伴い、同条約を締結した先住民は公認インディアンに分類される。1896年、ユーコンのクロンダイクで金鉱発見され、ゴールドラッシュが始まる。1898年には、ユーコン準州が成立する。
第二次世界大戦後の1949年には、ニューファンドランド州が、カナダ連邦に加入する。1980年、「オー・カナダ」をカナダ国歌と定める。
1982年には、1982年憲法が発布される。国家の用いる公用語としては、「英語およびフランス語は、カナダの公用語であり、連邦議会および連邦政府のすべての機関における使用言語として、対等な地位と権利及び特権が認められる」(16襄1項)となっている。1999年、ノースウエスト準州から分離したヌナブト準州が誕生する。
なお、この間のカナダの歴史解釈に絡んでは、歴史家により次のような反省がなされている。
「だがヨーロッパ人が北米大陸へと進出し、それがカナダ史の始まり、とする解釈は正しくはないだろう。かつてはヨーロッパ系白人中心史観が、カナダ史解釈の機軸と思いこまれていた。ところが、民族学研究の進歩やカナダ社会の多民族化とともに、今日では、より多面的でより重層的な歴史観が受け入れられている。無文字文化であったとはいえ、
カナダ史の文脈のなかで先住民の存在意義が積極的に再評価されているのは、こうした理由による。」(「ヌーベル・フランスと先住民、異なる文明の同士の出会い」:飯野正子、竹中豊編著「現代カナダを知るための57章」明石書店、2010に収められた論文より抜粋引用))
(続く)
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775『自然と人間の歴史・世界篇』モンゴル
モンゴル国は、東アジア北部に位置する。東と南を中華人民共和国の内モンゴル自治区と、西を中華人民共和国の新疆(しんちゃん)ウイグル自治区と、北をロシア連邦と接する。内陸国。首都はウランバートル。
1911年、辛亥(しんがい)革命が勃発し、中国の清朝より分離、自治政府を樹立する。1919年、自治を撤廃し、袁世凱をはじめとする中国軍閥の支配下に入る。1921年7月、人民革命で「活仏」(いきぼとけ)を元首とする君主制人民政府が成立する。この政府が、独立を宣言する。ところが、1924年11月に渦中の活仏の死んだことから、人民共和国となったと宣言する。
1937年10月より、それまで800ほどあったとされる寺院の多くが破壊あるいは閉鎖されていく。1941年、文字が伝統的なウイグル式モンゴル文字から、ロシア語のキリル文字へと変えられる。
第二次世界大戦中は、中国側(中華民国政府)の圧力に首を押さえつけられていたのが、ソ連に力添えを頼み、1945年8月14日には中ソの間で次の交換公文が取り交わされる。
「往簡
部長閣下。中国政府は、外モンゴル人民が一再ならず独立の願望を表明していることに鑑み、日本の敗北後、この願望が外モンゴルの公民投票により確認されるならば、中国政府は現在の境界を境界として、ソトモンゴルの独立を承認することを声明します。前記声明は、民国34年8月14日に調印された中ソ友好同盟条約の批准後に効力を発生するものと致します。
本部長は貴部長に対し崇高なる敬意を表します。
ソ連外務人民委員部モロトフ部長殿
中華民国34年8月14日
西暦1945年8月14日」
これに対する返信は、次のとおり。
「返簡
部長閣下。閣下の次のような書簡を受領致しました。
ソ連政府は、中華民国政府による前記声明を了承し満足の意を表明するとともに、ソ連政府がモンゴル人民共和国(外モンゴル)の政治的独立と領土保全を尊重することを声明致します。
本部長は貴部長に対し崇高なる敬意を表します。
中華民国外交部長王世杰殿」
中華民国34年8月14日
西暦1945年8月14日」
そして戦後、1961年、モンゴル人民共和国として国連に加盟する。
1989年、モンゴルに民主化運動が始まる。学生などがデモを行い、改革に熱心でないモンゴル人民革命党政治局の解散を要求する。1990年に入ると、民主社会運動(教師ら)や新進歩同盟(経済人)といった組織がつくられる。1990年3月には、モンゴル民主同盟、民主社会運動、ならびにモンゴル学生同盟が、共同で集会を開く。2月にはモンゴル民主党が、4月民主社会運動からモンゴル社会民主党がそれぞれ結成される。それからも、政党の結成が相次ぐ。
1990年3月には、自由選挙が行われる。モンゴル人民革命党が前衛政党として社会をリードする役割について規定した憲法の条項が廃止となったのだ。これで従来の社会主義路線を事実上放棄する。憲法の付則も改正され、自由選挙・複数政党制、常設議会の設置、国民の代表による立法権の承認があり、新憲法の制定を決める。
1992年2月、モンゴル国憲法が施行され、国名を「モンゴル国」に変更する。1996年5月、議会で、「国家」および地方自治体の試算に関する法律」を可決する。10月、議会は、住居の私有化を可決する。
2002年6月には、「土地に関する法律」が設立する。この法により、どうなったかは、こういわれる。
「一家族に対して、首都ウランバートルで0.07ヘクタール、アイマグ(県)の中心地で0.35ヘクタール、ソムの中心地(町)で0.5ヘクタールの家族生活用地が、申請に基づき一回限り無償で私有化された。その後2008年に法が改正され、世帯単位ではなくすべてのモンゴル国民個人に対して一回限り上記と同一面積の土地が追加配分されることになった。すでに私有化されている土地は、その世帯のなかの特定個人の所有に属するものとし、世帯構成員に対して改めて土地が付与されることになったのである。」(くるみ澤能生(くるみさわよしき)「モンゴルの土地は誰のものかー家族生活用地、農地、牧地」:小長谷有紀、前川愛編著「現代モンゴルを知るための50章」明石書店、2014)
(続く)
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