64『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明の崩壊
紀元前1230年頃以後、ミケーネ文明は衰退に向かう。そして、紀元前1200年頃ついに歴史の表舞台から消えてしまう。その崩壊の理由については諸説があるも、有力説によると、「海の民」の侵入によるものと考えられている。それというのも、その頃の東地中海域には鉄器がもたらされつつあった。これの生み出す力が、従来の青銅器文明を打ち破っていくのである、これが人類史的な出来事であったのは、いうまでもない。小川英雄氏によると、ここにいう「海の民」とは、ヒッタイトやエジプト側記録の研究により、実態が明らかになりつつあるとのこと。同氏は、こう説明を続けられる。
「侵入民に追い払われたミケーネ人たちは、アテネを経て、小アジア西海岸に移住し、イオニアやアイオリスとよばれる地方を形成したが、さらに多くの者が連鎖反応的にギリシァ本土、エーゲ海の島々、イオニアなどを追われて、小アジアのキリキアやキプロス島、シリア、パレスティナ海岸部(シドン、ウガリットなど)、エジプトのデルタ地帯に押し寄せた(前13~12世紀)。彼らは放浪の途上で幾つかの部族組織を形成した。(中略)
エジプトでは彼らは一括して海の民とよばれていた。エジプトの壁画によると、彼らは舟も用いたが、牛車に家族を積み込んで陸路をも移動した。戦士たちは馬の毛を編んでつくったかぶと、特異なスカート風のよろいをまとい、鉄製の剣を持っていた。鉄自体は後期青銅器時代のアナトリアや北シリアで貴重品として用いられていたが、武器として実用化したのは海の民である。それが前12世紀から約2世紀間の間に、全オリエントに広まり、鉄器時代が始まった、」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)
もう一つ、鉄器文明の曙とともに、弱体化しつつあったミケーネ文明を退場に追いやったものこそ、ドーリア人(ドリス人)の南下であった。その彼らは、アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシアを構成した集団のひとつの流れであって、ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタであるといわれるのだが。このドーリア人は、もとはギリシア北部にとどまっていたのだが、紀元前1200年頃にギリシア本土のミケーネ文明が消滅した後に南下し始める。一般に、これをギリシア人の南下の第二波といって区別している。そして迎えた紀元前1100年頃、ドーリア人はギリシア本土のペロポネソス半島一円に侵入、そのまま定住し、先住民のアカイア人と共存していった、と考えられている。その中心になってつくったのが、後のギリシア社会の有力ポリスの一つ、スパルタにほかならない。
(続く)
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