♦️64『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明の崩壊

2017-12-24 21:24:46 | Weblog

64『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明の崩壊


 紀元前1230年頃以後、ミケーネ文明は衰退に向かう。そして、紀元前1200年頃ついに歴史の表舞台から消えてしまう。その崩壊の理由については諸説があるも、有力説によると、「海の民」の侵入によるものと考えられている。それというのも、その頃の東地中海域には鉄器がもたらされつつあった。これの生み出す力が、従来の青銅器文明を打ち破っていくのである、これが人類史的な出来事であったのは、いうまでもない。小川英雄氏によると、ここにいう「海の民」とは、ヒッタイトやエジプト側記録の研究により、実態が明らかになりつつあるとのこと。同氏は、こう説明を続けられる。
 「侵入民に追い払われたミケーネ人たちは、アテネを経て、小アジア西海岸に移住し、イオニアやアイオリスとよばれる地方を形成したが、さらに多くの者が連鎖反応的にギリシァ本土、エーゲ海の島々、イオニアなどを追われて、小アジアのキリキアやキプロス島、シリア、パレスティナ海岸部(シドン、ウガリットなど)、エジプトのデルタ地帯に押し寄せた(前13~12世紀)。彼らは放浪の途上で幾つかの部族組織を形成した。(中略)
 エジプトでは彼らは一括して海の民とよばれていた。エジプトの壁画によると、彼らは舟も用いたが、牛車に家族を積み込んで陸路をも移動した。戦士たちは馬の毛を編んでつくったかぶと、特異なスカート風のよろいをまとい、鉄製の剣を持っていた。鉄自体は後期青銅器時代のアナトリアや北シリアで貴重品として用いられていたが、武器として実用化したのは海の民である。それが前12世紀から約2世紀間の間に、全オリエントに広まり、鉄器時代が始まった、」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)
 もう一つ、鉄器文明の曙とともに、弱体化しつつあったミケーネ文明を退場に追いやったものこそ、ドーリア人(ドリス人)の南下であった。その彼らは、アイオリス人、イオニア人と並ぶ古代ギリシアを構成した集団のひとつの流れであって、ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタであるといわれるのだが。このドーリア人は、もとはギリシア北部にとどまっていたのだが、紀元前1200年頃にギリシア本土のミケーネ文明が消滅した後に南下し始める。一般に、これをギリシア人の南下の第二波といって区別している。そして迎えた紀元前1100年頃、ドーリア人はギリシア本土のペロポネソス半島一円に侵入、そのまま定住し、先住民のアカイア人と共存していった、と考えられている。その中心になってつくったのが、後のギリシア社会の有力ポリスの一つ、スパルタにほかならない。

(続く)

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♦️63『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(トロイア文明)

2017-12-24 21:23:39 | Weblog

63『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(トロイア文明)

エーゲ文明は前半のクレタ文明、後半のミケーネ文明の二期に分けられるが、並行して小アジアのトロイアにも、類似の青銅器文明があった。推定年代としては、紀元前1300年頃までか、ほぼミケーネ文明と同時期に重なる時期であったのではないか。
このトロイアだが、トルコ西部、エーゲ海を数キロ先に見渡す丘に広がる。これを空から見ると、エーゲ海岸から6キロメートル程の内陸にあるが、かつては入江が側まで迫っていたのだという。この地は、ホメロスの叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)などで物語られるトロイア戦争(紀元前1300年頃)の舞台として有名である。
 19世紀のドイツ実業家シュリーマンが、このトロイア遺跡を発掘する。この戦いは史実に違いないと、そう確信していた彼は、1871年10月、発掘を始める。そして迎えた1872年、地下深くから宮殿跡や墓などを発掘する。この地に某かの文明の実在したことが初めて証明されたことになる。
 けれども、彼が発見し、「プリアモスの財宝」と名付けた財宝などが、ギリシア軍に攻められ、滅んだとされるトロイ王朝時代のものなのかは、分かっていない。今日までのトロイ遺跡の発掘によると、紀元前3000年頃の初期青銅器時代のものから、紀元前350~400年頃のローマ時代のものまで、9層にわたり都市遺構が発見されているとのこと。
 それらのうち、彼が掘っていたのは、火災の跡のある下から2番目の地層、その推定年代は紀元前2600~2300年頃と目される。これだと、彼が推定したトロイア戦争の時代よりも約1000年も古い。そこで、もしトロイ戦争が史実として、その遺構に推定されるのであるなら、紀元前1300~1200年頃の第7市の地層が当該の地層でなければならないが、第7層の遺構の大部分はそこなわれており、時代考証が困難になっているようである。
 このように、トロイ戦争が史実であったとは証明されていないのだが、現在も発掘調査
が続けられていることから、追々その全容が明らかになっていくのではないかと期待される。

(続く)

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♦️62『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(ミケーネ文明へ)

2017-12-24 21:22:27 | Weblog

62『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(ミケーネ文明へ)

 少なくとも前2000年紀から南下し始めたギリシア人、その第一波のアカイア人たちが、テッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。彼らは、クレタ島にも出て行き、先住民のクレタ(ミノア)文明を滅ぼす。前1800~前1600年頃には自分たちの文明、ミケーネ文明を構成していく。彼らはギリシア本土にミケーネ王国やティリンス・ピュロスなどの小国家を作る。
 この文明の第1の特徴は、クレタと同じ青銅器文明の後期であること。二つ目は、クレタと同じく海洋に糧を求めた。彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプト、またシリア、パレスチナまでの広い範囲にわたって交易を行う。
 そればかりではない。紀元前13世紀のミケーネ文明においては、ギリシア語を表す文字の普及が認められる。これについては、1952年、彼らが使用した線文字Bがヴェントリスによって解読される。これらの発見により、高度な貢納王政のしくみなどが判明する。
 しかし、この文明の光も、長くは続かなかった。その模様を、小川英雄氏は、こう述べておられる。
 「(中略)ビュロス文書が示すように、地方的な小規模な王政が幾つかあり、それぞれ中央集権制に向かって発展していたが、各王国の対立は激化し、中心になる城市の砦は強化され、きわめてきびしい国家間の対立が存在する一方、北方のドナウ川流域の印欧語族集団から新しいギリシャ人たち、即ち、ボイオティア人やドーリア人の移住の波が押し寄せてきた。そのため従来のような広範囲にミケーネ世界の交易活動は失われて行き、前1230年頃以後は、オリエントとの通商はほとんどただれてしまった。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)

(続く)

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♦️61『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(クレタ文明へ)

2017-12-24 21:20:38 | Weblog

61『自然と人間の歴史・世界篇』エーゲ文明(クレタ文明へ)

 西洋文明の源流というのは、いつ頃、どのあたりから始まったのだろうか。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが分かる年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すのであった。
 紀元前3000年頃、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行がある。青銅器文明は、オリエント文明の影響を受けて形成されたものだ。彼らは、オリエント地域との海上交易を通して、次第に一つの文明圏を形成していく。
 この紀元前2000年頃と相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを担ったのは、人種は不明だが、ギリシア人の先祖ではなかったと考えられている。ここでは、ひとまず一説をとって「エーゲ海先住民族の手によって」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント歴史」慶応技術大学通信教育教材、1972)つくられたということにしておこう。
 これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、1900年からの発掘であり、「クレタ文明」、もしくは、神話に出てくるミノス王に比定されてミノス王ということから、この文明を「ミノス文明」とも言う。紀元前1600~同1400年頃、このクレタ文明は最盛期を迎える。大規模な宮殿などがクノッソス、マリアなど島内各地に建てられる。王たちは、そこで栄華を極めたのであった。
 それでは、クレタにおいて見つかったのは、何であったろうか。まずは、色彩豊かな宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い中央集権的王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。しかも、ギリシア文化とは異質な海洋民族としての特徴的な意匠、例えば蛸(たこ)やいかを描いた壺などを残している。これは、彼らが営んだ海上貿易によるものといえるだろう。
 その主要な相手は当初、ビュブロス、ウガリットなど地中海沿岸のカナンの都市、それがしだいにエジプト第18代王朝や地中海を西へと広がっていったのではないか。つまりは、クレタ島のクノッソスに王宮を築いた王は、海上貿易を掌握して海上国家を築き専制政治を行っていた姿が彷彿と蘇ってくる。
 そればかりではない。この時代に初めてクレタ独特の絵文字が発明される。これに工夫を加えることで、紀元前1700年以後には、音節文字の線文字Aがつくられる。だが、未だに未解読だという。
 このように多方面に発達したクレタ文明なのだが、紀元前1400年頃の原因不明のクレタ島諸宮殿の焼失を境にだんだんな下り坂になっていく。さらに、ギリシア本土から進出してきた最初のインド・ヨーロッパ語系ギリシア人(その一部のアカイア人で、ミケーネ人ともいわれる)がこの島にもやって来て、彼らの攻撃によりクレタ文明は滅ぼされたと考えられている。

(続く)

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