♦️483『自然と人間の歴史・世界篇』チャド

2017-12-16 21:21:12 | Weblog

483『自然と人間の歴史・世界篇』チャド

 チャド共和国(1960年8月11日に独立、旧宗主国はフランス)は、アフリカ大陸の内奥、中部アフリカにある。北はリビア、東はスーダン、南は中央アフリカ、西はカメルーン、ナイジェリア、ニジェールの各国と国境を接する。内陸国。国土の大半をサハラ砂漠が占める。
 このあたりで人びとの生活に大きく影響しているのが、チャド湖であろう。アフリカ大陸の「水瓶」、「巨大オアシス」というには、やや水深が足りないのかもしれぬが(1992年時点で約12メートルとか、雨期と乾期でかなり異なるという)、この湖の北はサハラ砂漠が、南にはサバンナ気候の大地が広がる。
 このあたりの自然の造形の中からから、もう一つ、紹介しよう。国の北部には、一年を通じて清冽な水をたたえた湖や数々の奇岩で有名なウニアンガ湖畔がある。2012年に、ユネスコの世界遺産に登録された。水脈については、太古に降った雨が地下に閉じこめられる。その地下水がわき出てくるのだという。湖の一つ、ニエリ湖の湖面が赤味がかって見えるのは、奥のブルオ湖よりも塩分濃度が高く、バクテリアが繁殖するためだという。奇岩については、岩に沁み込んだ水が凍結・膨脹する時に、岩が砕かれる。その後は、砂漠の昼夜の温度差によって浸食が進み、岩のアーチができたり、キノコのような形の岩が屹立したりしている。それにも増して魅力的なのは、エネディ高原の岩窟に、古代の人びとが描いた岩絵の存在であろう。その中でも、馬に乗って大地を疾駆する人びとを描いた岩絵には、躍動感が溢れている(写真と文は大塚雅貴、協力は角替敏昭「知られざるサハラの絶景」:雑誌「ニュートン」2015年6月号)。
 話を移して、9~17世紀頃であったろうか、このあたりにカネム・ボルヌー王国が栄える。16世紀には、最盛期を迎える。チャド湖からその北方のビルマまでを支配していた。ちなみに、ビルマは岩塩の産地で知られる。17世紀に入ると、やや賑やかな政治地図となる。すなわち、カネム・ボルヌー王国の周辺にワダイ王国などが建つ。しかし、これらの現地民の国は、19世紀末にこの地にやってきた、スーダンの奴隷商人出身の軍人ラービフの軍隊によって滅ぼされる。
 1900年には、フランスがラービフ軍を倒し、実権を握る。そして1910年には、現在のガボン、コンゴなどに、チャド、中央アフリカの領域が加わってのフランス領赤道アフリカに組み入れられる。チャドについては、フランス領赤道アフリカ・チャド州となる。1946年、フランスの海外領土に編入される。1958年、フランス第5共和制にカンする国民投票が実施され、フランス共同体内の一つ自治共和国としての宣言を行う。
 そして迎えた1960年8月11日、フランスより独立を果たす。1962年4月、トンバルバイ大統領が就任する。ここに生まれた国の民族構成の多様さは、アフリカの中でも随一クラスだ。北部の砂漠地帯には、ベルベル系やアラブの遊牧民。チャド湖の南東には、サラ族を筆頭に多種の民族が展開し、雑穀主体の農耕に励む。東部のサバンナに於いては、農耕民のみならず遊牧の民もいる。なお。宗教的には、イスラム教が大きい。
 1978年8月、マルーム大統領が就任する。1979年11月、ウェディ大統領が就任する。1982年10月、ハブレ大統領が就任する。1990年12月、反政府軍による政変があり、ハブレが亡命する。1991年3月、デビー・イトゥノ大統領が就任する。1996年3月、新憲法を国民投票で採択する。1996年7月、大統領選挙でデビー・イトゥノ大統領が当選する。
 2001年5月、大統領選挙が実施され、デビー・イトゥノ大統領が再選される。2004年5月、憲法改正により、大統領再選回数制限を撤廃する。これを考えると、既得権益を守り、政治を独裁したいとの思惑が働き始めているのであろうか。2006年5月、大統領選挙があり、デビー・イトゥノ大統領が3選される。2011年4月の大統領選挙で、デビー・イトゥノ大統領が4選となる。2016年4月、大統領選挙により、デビー・イトゥノ大統領が5選される。

(続く)

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♦️519『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(バラオ)

2017-12-16 19:31:53 | Weblog

519『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(バラオ)

 パラオ共和国は、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる。首都はマルキョクで、2006年10月に旧首都コロールから遷都する。
 1500年代、スペイン人がミクロネシアの島々に来航。1899年、スペインがミクロネシアの島々をドイツに売却する。1914年、第一次世界大戦が始まる。日本はパラオを含む独領ミクロネシア(南洋群島)を占領する。
 1920年、国際連盟が、日本の(パラオを含む)ミクロネシア(南洋群島)委任統治を認める。1922年、南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がコロールに設置される。1945年、太平洋戦争が終結し、アメリカ軍の占領が始まる。1947年、国連の太平洋信託統治領となって、アメリカの統治が始まる。1965年、ミクロネシア議会が発足する。
 1969年、信託統治終了後の政治的地位に関し、ミクロネシア地域合同で米との交渉が開始される。その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、その他のミクロネシア地域(現ミクロネシア連邦)がそれぞれアメリカと個別に交渉していく。マリアナは、1978年アメリカのコモンウェルスとなることを、パラオとマーシャルは1978年の憲法草案の住民投票で、それぞれ分離独立を選択する。
これら小国家の分離独立においては、地区間の経済格差もさることながら、アメリカの極東軍事戦略へ組み込まれていく過程でもあった。
 1965年には、ミクロネシア議会が発足し、パラオも代表を派遣する。1969年、太平洋諸島信託統治地域に関する日米協定(ミクロネシア協定)を締結する。1978年、住民投票の結果、パラオはミクロネシア地域の統一国家からの離脱を決定する。
 1981年、憲法発布。自治政府が発足する。1982年、アメリカとの間で自由連合盟約(コンパクト)案を合意する。以後、1983年2月、1984年9月、1986年2月、1986年12月、1987年6月及び8月(無効)、1990年2月の7回住民投票が実施される。だが、いどちらにおいても75%以上の賛成を得ることが出来ず、不承認となる。
 1992年、憲法修正案(憲法の非核条項を自由連合盟約に適用しないことによりコンパクト案にするもの)が、住民投票にかけられる。1993年11月、8回目の住民投票によりコンパクト案が承認される。1994年10月、コンパクトが発効、2044年まで有効、独立を果たす。1994年12月、国連に加盟する。

(続く)

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♦️518『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ミクロネシア連邦)

2017-12-16 19:24:52 | Weblog

518『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ミクロネシア連邦)

 ミクロネシア連邦は、太平洋のミクロネシア地域に位置する。マリアナ諸島の南東、パラオの東、マーシャル諸島の西、パプアニューギニアの北ないし北東にある。地理的には、カロリン諸島と呼ばれる。
 1500年代、スペイン人がミクロネシアの島々に来航する。1886年、スペインがマリアナ諸島、カロリン諸島の領有権を宣言する。1899年、スペインがミクロネシアの島々をドイツに売却したことで、ドイツの植民地となる。ドイツは、ポンペイに総督府を置く。ココヤシのプランテーション経営やリン鉱石の開発などを進める。
 1914年、第1次大戦が始まる。この年、日本は、現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル、北マリアナを含むミクロネシア(南洋群島)を占領する。1920年、国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。日本が国際連盟から脱退してからは、日本の植民地として支配される。
 1945年、太平洋戦争終結。アメリカ軍の占領始まる。1947年、国連の太平洋信託統治領となって、アメリカの統治が始まる。1965年、ミクロネシア議会が発足する。
 1969年、信託統治終了後の政治的地位に関し、ミクロネシア地域合同で米との交渉が開始される。その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、その他のミクロネシア地域(現ミクロネシア連邦)がそれぞれアメリカと個別に交渉していく。マリアナは、1978年アメリカのコモンウェルスとなることを、パラオとマーシャルは1978年の憲法草案の住民投票で、それぞれ分離独立を選択する。
 1978年、これらの話に残ったヤップ、トラック、ポナペ、コスラエの4州で連邦を構成する憲法草案が、住民投票の結果により承認される。そして迎えた1979年5月、憲法が施行となる。「ミクロネシア連邦」自治政府が発足する。初代大統領には、日系のトシヲ・ナカヤマが就任する。
 1983年には、アメリカとの自由連合協定が締結される。1986年11月、アメリカとの間で自由連合盟約(コンパクト)が発効し、独立を果たす。1988年12月、日本はミクロネシア連邦と外交関係を開設する。1991年9月、国連に加盟する。2004年5月、アメリカとの改訂自由連合盟約(改訂コンパクト)が発効する。

(続く)

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♦️517『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(マーシャル諸島共和国)

2017-12-16 19:23:44 | Weblog

517『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(マーシャル諸島共和国)

 マーシャル諸島共和国は、太平洋上に浮かぶ島国。「真珠の首飾り」とも呼ばれるマーシャル諸島全域を領土とする。ミクロネシア連邦の東、キリバスの北に位置する。
 1528年、スペイン人のアルバロ・デ・サーベドラにより発見される。スペイン、領土権を宣言するも実質的統治せず。
 1885年、ドイツの保護領となる。1914年、第一次大戦勃発。日本はドイツよりマーシャルを含むミクロネシアの島々を占領する。1920年、国際連盟から日本のミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる。
 1945年、第二次世界大戦終結。米軍の占領始まる。1947年、国連の太平洋信託統治領としての米国の統治が始まる。
 1945年、太平洋戦争終結。アメリカ軍の占領始まる。1947年、国連の太平洋信託統治領となって、アメリカの統治が始まる。1965年、ミクロネシア議会が発足する。
 1969年、信託統治終了後の政治的地位に関し、ミクロネシア地域合同で米との交渉が開始される。その後、北マリアナ、マーシャル、パラオ、その他のミクロネシア地域(現ミクロネシア連邦)がそれぞれアメリカと個別に交渉していく。マリアナは、1978年アメリカのコモンウェルスとなることを、パラオとマーシャルは1978年の憲法草案の住民投票で、それぞれ分離独立を選択する。
これら小国家の分離独立においては、地区間の経済格差もさることながら、アメリカの極東軍事戦略へ組み込まれていく過程でもあった。
 1954年、第5福竜丸がビキニ環礁において米国による水爆実験で被爆する。1965年、ミクロネシア議会が発足する。1969年、太平洋諸島信託統治地域に関する日米協定(ミクロネシア協定)を締結する。
 1978年、住民投票の結果、マーシャルはミクロネシア連邦より脱退。1979年、憲法が制定される。そして自治政府が発足する。アマタ・カブア大統領が就任する。1986年10月、米国との間で自由連合盟約(コンパクト)発効し、独立する。1991年9月、国連に加盟する。2004年10月、改訂コンパクトが発効する。

(続く)

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♦️516『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(フィジー)

2017-12-16 19:22:46 | Weblog

516『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(フィジー)

 フィジー共和国、オセアニアの国家。イギリス連邦加盟国である。首都はビティレブ島のスバ。南太平洋のフィジー諸島と北に500キロメートル程離れた保護領のロツマ島に位置する島国である。300余の火山島と珊瑚礁からなる。
 1643年、オランダ人探検家タスマンが、フィジー諸島の北部を発見する。1874年、イギリスの植民地となる。
 1970年10月、イギリスより独立する。立憲君主制をとる。国名はフィジー。1987年9月、ランブカ中佐による無血クーデター。1987年10月、イギリス連邦から離脱し、共和制へ移行する。国名をフィジー共和国に変更する。1990年7月、フィジー系を優遇する改正憲法が発布される。
 1997年9月、イギリス連邦に再加盟する。1998年7月、民族融和を目指す新憲法発効。国名をフィジー諸島共和国に変更する。1999年5月、労働党党首のチョードリーが初のインド系首相に就任する。2000年5月、武装グループによる国会占拠事件が発生する。2000年7月、ガラセを首班とする暫定文民政府が発足する。
 2001年9月、総選挙を経てガラセが首相に就任する。2006年5月、ガラセ首相が再任される。2006年12月、バイニマラマ国軍司令官によるクーデターがあり、セニランガカリを暫定首相に任命する。2007年1月、セニランガカリ暫定首相が辞任し、バイニマラマ司令官を暫定首相に、暫定内閣が発足する。2011年2月、国名をフィジー共和国に変更。2013年9月、新憲法を公布する。2014年3月、バイニマラマ首相が国軍司令官を辞任し退役する。

(続く)

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♦️515『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(パプアニューギニア独立国)

2017-12-16 19:21:44 | Weblog

515『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(パプアニューギニア独立国)

 パプアニューギニア独立国は、南太平洋にある。ニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる。立憲君主制をとる。東南アジア諸国連合の特別オブザーバーであるが、地理的にはオセアニアに属する。1989年当時の人口は、約359万人。この国には、およそ700もの言語、その数だけの文化がある、ともいわれる。
 16世紀前半~19世紀後半、この地にヨーロッパ人の来訪がある。1884年、ドイツ、ニューギニア北東部を保護領とする、これがドイツ領ニューギニア。又この年、イギリスがニューギニア南東部を保護領とする、これがイギリス領ニューギニア。
 1526年、おそらく最初のヨーロッパ人、ポルトガルのJ・メネセスがニューギニア島にやってくる。1545年、スペイン人探検家O・レーテスがやってきて、アフリカのギニア海岸地方の人びとと身体的特徴が似ていると感じ、「新しいギニア」という意味での「ニューギニア」と名付ける。
19世紀後半のこと、ニューギニア島の西半分をオランダ(現在のインドネシア領のイリアン・ジャヤ)、北東部とビズマーク島をドイツ、それから南部をイギリスが、それぞれ植民地とする。
 1905~06年、イギリス領ニューギニアは、オーストラリア領となる。1914年第1次世界大戦勃発に伴い、オーストラリアがドイツ領ニューギニアを占領する。第一次世界大戦後は、ドイツ領ニューギニアの統治をオーストラリアに委任する。
 1942年、日本軍がこの地に進駐する。1945年、日本軍が降伏し、オーストラリアがこの地を統治する。1946年、この地は、オーストラリアを施政権者とする国連の信託統治地域となる。1951年には、信託統治領とパプアを一体化した議会が設けられる。1964年、住民議会が設置される。1973年、内政自治に移行する。
 そして迎えた1975年9月、独立を果たす。ニューギニ島の東半分とその周辺の島々ということであった。1976年には、国連に加盟する。

(続く)

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♦️514『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(バヌアツ)

2017-12-16 19:20:44 | Weblog

514『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(バヌアツ)

 バヌアツ共和国は、南太平洋のシェパード諸島の火山島上に位置する。西にオーストラリア、北にソロモン諸島、東にフィジー、南にフランス海外領土のニューカレドニアがある。イギリス連邦加盟国。1989年時点での人口は、約16万人。
 1605~06年、スペイン人探検家のキロスがこの地を発見する。1774年、イギリス人J・クックがこの地を訪れる。
 1906年、イギリスとフランスによる共同統治下に入る。協定でそう定めたとはいえ、主に南部に入植したイギリスと、北部に入植したフランスとが、別々に統治を行ったに等しい。
 1940年代、タンナ島で千年王国的なジョン・フラム運動が起こる。1960年代、北部エスピリツサント島で、フランス系入植者の土地囲い込みに反対する現地住民の運動が起きる。
 1980年7月、独立を果たす。しかし、独立直前にエスピリトゥ・サント島においては、分離独立を求める反乱が起きるも、鎮圧される。

(続く)

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♦️513『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(西サモア)

2017-12-16 19:19:44 | Weblog

513『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(西サモア)

 サモア独立国は、南太平洋の島国。イギリス連邦加盟国。サモア諸島のうち、西経171度線を境として西側に位置する。この経度を境にアメリカ領サモアとサモア独立国に分割されている。どちらの住民も、同じポリネシア系であるとのこと。
 その歴史は古く、紀元前1000年頃には、フィジー諸島から植民されたという。ここにも、ポリネシア文化の母型がつくられていったのではないか。
1272年、オランダ人探険家Roggeveenが見つける。1768年、フランス人航海者Bougainvilleが上陸する。1830年代、人びとはキリスト教を受容していく。1860年代から、アピアが捕鯨船補給港として繁栄する。ドイツ、イギリス、アメリカがここに目をつけ、勢力を競う。
 1899~1900年、帝国主義国の勝手な線引きにより、ドイツが西サモア(現在のサモア独立国)、アメリカが東サモア(現在の米領サモア)を領有する。
 1918年、統治国の無策で、総人口の約2割をインフルエンザで失う。また、「サモア人のためのサモワ」を目指す「マウ」運動と名づけられる、大衆政治運動が広まっていく。
 1919年、ニュージーランドの国際連盟委任統治地域となる。1945年、国際連合の信託統治地域となる。
 1960年、この地の人びとは、ニュージーランドの干渉に抗して、住民投票で憲法草案を承認する。その時は、村落共同体のままであったのではないか。1962年1月、独立する。オセアニア初の独立国とされる。この独立の際には、それまで中央集権的政体を持たなかったこの地域に、統治の仕組みが編み出される。
 すなわち、こうである。各村はアイガと呼ばれる血縁集団で構成される。その長がマタイで、土地を管理する。マタイの会議で、村の政治が行われる。このアイガには序列があって、最高位の4つの称号をもつアイガの家長が「王家」と見なされる。ついては、独立の際、行為のマリエトワ家とタマセセ家の2人の家長が、国家元首におさまる。
議会政治の方だが、一院制をとる。1970年代からは、政党が結成される。1988年の選挙で、人民擁護党が政権の座に就く。
 1997年、国名をそれまでの「西サモア」から「サモア独立国」に変更する。

(続く)

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♦️512『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(トンガ)

2017-12-16 19:17:41 | Weblog

512『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(トンガ)

 トンガ王国は、南太平洋に浮かぶ約170の島群からなる。諸島の配置だが、北部のババウ、中部のハアパイ、そして南部のトンガタプの3群に大別される。オセアニアのうちポリネシアに属し、サモアの南、フィジーの東にある。首都のヌクアロファは最大の島トンガタプ島にある。イギリス連邦加盟国。
このあたりには、紀元前から人が住んでいたやに伝わる。1616年、オランダ人の探検隊が北方の二島を見つける。
 1845年頃、現地でトゥポウ家の支配が固まる。キリスト教徒のトゥポウ1世がトンガを統一したのだ。1875年、トゥポウ2世が憲法をつくり、立憲君主制をとる。1900年、王家とイギリスとの間で友好条約、それからイギリスに保護してもらうための保護領条約を結ぶ。外交と国防のことはイギリスに任せたというから、これはもう対等の関係ではなかったに違いない。
 1918年4月のトゥポウ2世の死後、娘のサローテが女王・トゥポウ2世となって、1965年までトンガ王国を治める。同年、皇太子が立ってトゥポウ2世を襲名する。
 1970年6月、イギリスより独立を果たす。憲法を定めるのだが、国権の最高機関は、国王が議長を務める枢密院である。この下に一院制議会が設けられる。その定数は23名、その内訳は議長、8名の閣僚、7名の貴族代表、残りの7名が一般国民代表である。国王の下に、立法、行政そして司法の3権が統合されている。
 こうした民主制の枠組みについての国民の反応はなかなかに複雑であって、穏健ながらも、伝統的政治システムの民主化を求める声も上がってきている。

(続く)

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♦️511『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ツバル)

2017-12-16 19:16:30 | Weblog

511『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ツバル)

 ツバルは、オセアニアにある。首都はフナフティ。南太平洋のエリス諸島に位置する島国である。ポリネシアの南端、南緯5~11度、東経176~180度に浮かぶ9つの岩礁化した島から成る。イギリス連邦加盟国の一つ。立憲君主制をとる。 1989年時点の人口は8700人。独立国としてはバチカン市国の次に人口が少ない。
 1850~1875年、この地からペルー、ハワイ、タヒチなどへの労働者の強制連行が行われる。これについては、例えばこう説明される。
 「ペルーにの奴隷船がヌクラエラエ島とフナフティ間に来航し、「近くの島でココナッツ・オイルをつくる仕事があり、賃金も高い。そのうえ、キリスト教を学ぶこともでき、将来、宣教師としての仕事も約束されている」という話をもちかけて、両島の3分の2以上の住民を南米及び太平洋のさまざまな島に連れ帰った。
 人口の激減に伴って、タロイモを中心とする農耕と漁労の生業形態、および親族集団
プイカインガを基盤とする首長制は崩壊寸前の状態に陥った。」(浮田典良・大林太良監修「世界の国ぐに」1アジア・オセアニア、ぎょうせい、1992)
 1892年、ギルバート・エリス諸島としてイギリスの保護領となる。この時、エリス諸島としても同様の地位求めたという。1915年、ギルバート・エリス諸島としてイギリスの植民地となる。
 1975年、ポリネシア人から成るエリス諸島の人びとは、選挙でギルバート諸島と分離する道を選ぶ、そしてツバルと改名する。1978年10月、イギリスから独立する。
 1981年、独立後初の総選挙によりプアプア政権が成立する。1989年、総選挙によりパエニウ政権が成立する。1993年、総選挙によりラタシ政権が成立する。1999年、イオナタナ首相が就任する。
 2000年9月、国連に加盟を果たす。2000年12月、イオナタナ首相が死去すると、翌年2月にはルカ首相が就任する。以下、2013年8月までの間に、タラケ首相、ソポアンガ首相、トアファ首相、イエレミア首相、トアファ首相、テラビ首相、ソポアンガ首相による内閣へとつながっていく。
建国以来の主要な産業としては、コプラとリン鉱石の生産がある。

(続く)

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♦️510『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ソロモン諸島)

2017-12-16 19:15:32 | Weblog

510『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ソロモン諸島)

 ソロモン諸島は、南太平洋のメラネシアにある島嶼群であり、またその島々を国土とする。ただし、地理的にはソロモン諸島に属するブーゲンビル島は、国家の領域的にはパプアニューギニアに属す。
 1568~69年、スペイン人メンダナ(メンダーニャ)が、サンタ・イザベル島に来航する。伝説の黄金の地にちなんで、この地を「ソロモンーの島々」と名づける。1893年、イギリスが南ソロモン諸島領有を宣言する。1899~1900年、イギリスが、ドイツより一部の島々を除く北ソロモン諸島を取得する。
 1942~43年、日本軍が、ソロモン諸島を一時占有する。1943年、激戦の末、米軍に奪取され,日本軍撤退する。戦死者約2万人。1950年まで米軍が駐留する。
 1960年代に入ると、マライタ島住民による反ヨーロッパ運動や、ニュージョージア島島民による分離運動が起こる。1960年代になると、イギリスは弾圧一点張りの政治を改める。1960年憲法により、立法評議会を設置する。1964年には、議員公選制を採り入れる。1975年の勅令により値イギリス領ソロモンはソロモン諸島と改名される。
1976年、「ソロモン諸島」として自治政府が樹立される。1978年7月、イギリスから独立を果たす。同年8月には、国連に加盟する。

(続く)

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♦️509『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(キリバス)

2017-12-16 19:14:39 | Weblog

509『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(キリバス)

 キリバス共和国は、太平洋上に位置するギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部等を領土とする。イギリス連邦加盟国である。キリバスは33の環礁状化した島々からなる。それらは、赤道付近に350万平方キロメートルにもわたって散らばる。1989年時点の人口は、約7万人。
 1606年、スペイン人キロスが、ブタリタリ島を発見する。1788年、このあたりを航行したシャーロッテ号のトーマス・ギルバート船長だが、彼の名をとって「ギルバート諸島」といわれる。
 1892年、イギリスが、ギルバート諸島、次いでエリス諸島を保護領と宣言する。1916年、イギリスが、ギルバート諸島とエリス諸島を併合、植民地とする。オーシャン、島、ファニング島、ワシントンの3島も自身の植民地に編入する。
 1929年、イギリスとアメリカが、カントン島及びエンダベリ島(フェニックス諸島)を共同統治する。1941年、日本軍が、バナバ、タラワ、マキンを占領する。
 1979年7月、独立を果たす。ギルバートの現地語発音である「キリバス」を国名に採用する。

(続く)

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♦️508『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ニュージーランド)

2017-12-16 19:13:19 | Weblog

508『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(ニュージーランド)

 ニュージーランドは、南西太平洋のオセアニアのポリネシアに位置する。立憲君主制を敷く。南と北の二つの主要な島と、スチュアート島やチャタム島、さらに多くの小さな島々からなる。1989年時点の人口は、約331万人。
 9世紀頃から14世紀中頃、先住民族マオリが、「ハワイキ」と呼ばれるポリネシアの伝説上の島から、カヌーに乗ってニュージーランド北方にたどり着いたのではないか。ここにマオリとは、オーストロネシア語を話すポリネシア系の集団である。彼らは、海岸沿いに小規模な集落をつくり、そこで農耕や狩猟を行い、生計を立てる。
 1642年、オランダの探検家アベル・タスマンが、ヨーロッパ人として初めてこの国を発見。南島北部のゴールデン・ベイに船を入れる。しかし、原住民マオリの抵抗に合い、上陸をあきらめる。1769年、イギリスの探検家、ジェームズ・クックが南北両島を探検する。そして、ギズボーンに上陸する。計3回にわたって測量に訪れる。これにより、周辺の詳細な地図をつくったことから、世界に知られるようになる。イギリスはこの地の領有を宣言する。
 1830年代後半、イギリスのウェークフィールド植民会社がこの地への入植活動を開始する。1840年、土地をめぐり、白人とマオリとの争いが頻発する。これを鎮圧するため、イギリスは出兵を繰り返す。同年2月に、イギリス代表と先住民マオリの伝統的首長との間でワイタンギ条約に署名する。これにより首長はイギリスの力による保護を受け、イギリスはニュージーランドを自国の植民地とする。大義名分を得ることになったイギリスが喜んだのはいうまでもない。これにより、イギリスの植民地支配が始まる。
 1861年、ダニーデン近郊で金が発見され、ゴールドラッシュが始まる。1864年、ウェストコーストもゴールドラッシュに突入するのであった。1867年、国会にマオリの議席が4席用意される。1871年、21歳以上のすべての男性に投票権が与えられる。1893年、世界で初めて女性参政権が認められる。1898年、世界で初めてとなる年金制度の原型が作られる。1899年、ニュージーランド陸軍が南アフリカ戦争に派遣される。
 1901年、クック諸島をはじめ、太平洋諸島を統合する。1907年、ニュージーランドがイギリス連邦自治領(Dominion)となる。1914年からの第一次世界大戦には、ニュージーランドは人口110万人のうちから12万人の兵を送って、イギリスを支える。第一次大戦後の国際連盟に加盟する。1919年、女性が国会議員選挙での被選挙権を得る。
 1929年、アメリカの世界大恐慌のあおりを受けて、不景気のどん底を経験する。1943年の第二次世界大戦中、ウェリントン郊外に作られた日本人捕虜収容所で、暴動を起こした日本人捕虜にニュージーランド兵士が発砲。日本人48人、ニュージーランド人1人が死亡。1945年5月、ヨーロッパでの戦争が終結する。太平洋諸島での戦いも、8月15日の日本の無条件降伏より終わる。
 1947年、イギリスから完全に独立する。イギリスのウェストミンスター法を受諾し、英国議会から独立した立法機能を取得するのであった。1950年、羊毛の生産・輸出が急成長し、「羊毛ブーム」が到来する。1951年、アメリカ合衆国、オーストラリアとの三国同盟(ANZUS)に調印する。1962年、西サモア(現在のサモア)がニュージーランドから独立する。1965年、ニュージーランド軍がベトナム戦争に派遣される。アメリカのアジア戦略に深く組み込まれるのであった。クック諸島が自治領となる。
 1975年、ワイタンギ条約をめぐり、条約締結によってイギリスの主権を認めたことにはならないと主張するマオリと、国との裁判が開始される。1977年、国民年金(Superannuation)制度が始まる。1985年、非核政策により、アメリカ戦艦の寄航を拒否する。
 2003年、イギリス、オーストラリア、アメリカとの歴史的同盟に反し、国連の承認がないことを理由に、イラク侵攻への援軍を拒否する。2004年4月、同性愛カップルに既婚者と同等の社会的権利を認めるための「シビル・ユニオン(Civil Union)法」が可決される。2004年10月には、禁煙法が可決される。これは、学校や病院、レストランやバーなど、公共施設内での全面禁煙を義務付けるものだ。

(続く)

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♦️507『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(オーストラリア)

2017-12-16 19:11:40 | Weblog

507『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のオセアニア(オーストラリア)

 オーストラリア連邦は、オーストラリア大陸本土、タスマニア島及び多数の小島から成りオセアニアに属する国。2017年現在、6州2特別地域で構成。
 太古、寒冷で海面が今よりずっと低かった頃、東南アジアに住んでいたアボリジニたちが小舟でこの大陸にやって来る。彼らは、この新天地で狩猟採集生活を送る。 
 15世紀初頭、中国人の船隊が大陸北岸に上陸する。17世紀になると、タスマンほかの海洋探検家が相次いで局地的上陸を敢行する。1770年4月、イギリス英国人探検家キャプテン・クックが現在のシドニー郊外、ボタニー湾に上陸する。彼は、ここでさまざまな植物を採取し、植物(Botany)にちなんで上陸地をボタニー湾と命名する。
 1788年1月、イギリス人アーサー・フィリップ海軍大佐一行がシドニー湾(ボタニー湾)付近にやって来る。後に、ニュー・サウス・ウェールズ州の初代総督になる。さらに数キロ北上したポート・ジャクソン(後のシドニー市)に植民地を築く。当初は、1776年のアメリカ植民地の独立のため、流刑入植地を探していたのだが、このニュー・サウス・ウェールズ州の植民地化が軌道に乗ることで、イギリス人による流刑者を伴っての入植が広まっていく。
 東海岸から始まった植民地化は、徐々に西へ移行していく。1823年、ニュー・サウス・ウェールズに制限付きながらで自治権が与えられる。1829年には、西オーストラリアに到達する。その後は、流刑者ではなく純粋な開拓民による植民地移住が認められていく。1836年には、マレー川河口に南オーストラリア植民地が誕生する。1840年、イギリスは流刑制を廃止する。それからのイギリス政府は、各植民地に対しイギリス式の憲法や議会制度を導入し、自治権を与えていく。
 1859年までに、ニュー・サウス・ウェールズ州以外の4つの植民地は、自治権を獲得する。最後に残っていたウェスタン・オーストラリアも、1890年には自治が認められる。1891年、シドニーで連邦政府結成のための会議が初めて開かれる。現在の州の核となる6つの植民地が集まって、相談することになっていく。10年の歳月をかけて、国家の機軸となる憲法草案をまとめ、それをイギリス政府が承認する。
 一方、現地のアボリジニたちは、じわしわわと生活区域を圧迫されていく。彼らの領域への白人文明の大規模な侵入は、何をもたらしていくのだろうか。歴史家による説明には、こうある。
「その結果、1788年当時35万人と推定されたアボリジニの人口は、1880年代には約6万人にまで減少し、彼らの社会は崩壊の危機にさらされることとなった。事実、軍隊との衝突を繰り返していた、2000人以上と推定されるタスマニア・アボリジニは、1876年にそのすべてが絶滅したのである。ヨーロッパ文明がオーストラリア大陸をほぼ埋めつくしたのは、ちょうどこのころのことである。」(浮田典良・大林太良監修「世界の国ぐに」1アジア・オセアニア、ぎょうせい、1992)
 そして迎えた1901年、オーストラリア連邦として独立を果たす。6つのイギリス英国植民地の請願により連邦が憲法を制定する形をとる。誕生当初は6州だったが、その後、北部地域(ノーザン・テリトリー)が自治を認められて準州になり、首都特別地域も制定される。1927年には、計画都市として首都キャンベラが建設される。
 1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発すると、オーストラリアは参戦する。ニュージーランド軍とともに結成されたアンザック軍団には、オーストラリアから約40万人が出征する。この大戦で、約6万人の戦死者が出る。この後、国際連盟への加入が認められ、国際社会での地位を確立していく。
 1942年、イギリスのウェストミンスター法受諾。英国議会から独立した立法機能を取得する。今度は第二次世界大戦が始まると、オーストラリアは連合軍につき、参戦する。そのため、ノーザン・テリトリーのダーウィン、西オーストラリアのブルームは日本軍の空襲を受け、シドニーやニュー・キャッスルも外洋から砲撃を浴びる。
 第二次世界大戦が終結すると、オーストラリアは好景気を迎える。小麦や羊毛などの輸出好調に加え、鉄鉱石などの資源、製造業でも業績を上げていく。1950年代は、鉱物資源の開発や水力発電事業など、国家的なプロジェクトが行われ、開発が西部、内陸へと進んでいく。
 1975年、連邦高等裁判所のイギリス枢密院への上訴権を放棄する。1986年、オーストラリア法が制定される。この中で、州裁判所の上訴権を放棄するなど、イギリスからの司法の独立が決まる。1999年、ついに共和制移行の是非を問う国民投票を実施する。その結果は立憲君主制の継続となる。
さかのぼること、1961年からは、現地先住民族に対する政策に変化が見える。従来の同化を迫る政策を修正していく。その集大成が、1976年に制定された土地法にほかならない。これにより、ノーザンテリトリー州におけるアボリジニの土地と聖地を定義する。彼らの土地権を認めるとともに、の土地での鉱物資源などの開発に一定の制限を加える。この土地法は、その後、クイーンズランドなど他の州にも拡大されていく。

(続く)

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