◻️232の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田實と小槙孝二郎)

2019-12-01 20:17:00 | Weblog

232の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田實と小槙孝二郎)

 本田實(ほんだみのる、1913年~)は、天文家。鳥取県八頭郡八東村(現在の八頭町)の農家の長男の生まれ。1927年頃に、直径28ミリメートルのレンズを購入し、望遠鏡を自作したというから、既にやる気満々であったのではなかろうか。比較的作りやすいとされる「ニュートン式反射望遠鏡」でいうと、「「主鏡」とも呼ばれる凹面鏡が、筒のおしり、つまり底の部分にあって、そこで反射した光が、筒先の平面鏡「斜鏡」で折り曲げられ、筒の側面の外側に導き出されてくるようになっています」(藤井旭「天体望遠鏡の使い方がわかる本」誠文堂新光社わ2007)とのこと。それにしても、もしそうであったなら、あの時代に肝心の凹面鏡をどうやって手に入れたのだろうか。

 それからは、神田茂著『彗星の話』を読み、彗星探しを決意したらしい。1932年(昭和7年)頃でのことながら、自作望遠鏡で見つけた光を彗星と誤って「京都帝国大学附属花山天文台(かざんてんもんだい)」に知らせるも、その光は実は、レンズの反射光だったことを指摘される。これが転機となり、天文学を学ぶため、花山天文台長・山本一清の指導を受ける。精進のかいあって、山本が開設した「黄道光観測所」(広島県沼隈郡瀬戸村、現在は福山市)の観測員となる。

 1941年(昭和16年)4月には、民間の「倉敷天文台」台員に着任する。この天文台は、「広く一般に天文知識を普及するため」ということで、1926年(大正15年)、元倉敷町長の原澄治によって設立された日本最初の民間天文台だ。そのあたりは、倉敷市中央にありながら、静かな住宅地だという。

 ところが、同年8月には、召集され、中国東北部へ、さらにシンガポールへとやらされる。敗戦により復員。1947年、34歳の時には元の職場にあって、戦後としては日本人初の新彗星を見つけ、これが認められ、「本田彗星」と命名される。1952年(昭和27年)には、「財団法人倉敷天文台」主事に着任する。そこでの主な観測機材としては、31.5センチメートルカセグレン式反射望遠鏡と15センチメートル対空型双眼望遠鏡(本田實が彗星捜査に使用していた望遠鏡)だという。前者は、イギリスより購入した望遠鏡(鏡はカルバー研磨)であるという。

 1967年(昭和42年)になると、今度は「若竹の園保育園」園長になる。それからも、天文観測を続け、多くの新星や彗星を発言していく、アマチュア天文界のパイオニアの一人として活躍をしていく。生涯に彗星12個、新星11個を発見したと伝わる。
 ちなみに、この天文台だが、
現在でも地域の人々に天文一般知識普及活動を無料で行い、月に一回の天体観望会を実施している。

 小槙孝二郎(こまきこうじろう、1903~ 1969)は、アマチュア天文家。津山市上之町の山本家に生まれる。1921年には、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り、京都大学の山本一清に師事する。同会の流星課長として月刊誌「天界」に寄稿していく。
 1925年には、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居し、小槙姓を名乗る。以後、教職との「二足のわらじ」ながら流星観測を続ける。1943年(昭和18年)には、紀伊天文同好会の設立に参加する。戦後になると、これが「日本流星研究会」に発展していく。これにて全国的な流星観測のネットワークが発展していくことになる。このかいあって、47年間にわたる同会の流星観測数は2万数千個に及んだというから、驚きだ。

(続く)

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◻️221『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)

2019-12-01 18:24:49 | Weblog

221『岡山の今昔』岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)

 我が国における果樹栽培の発端とは、どんなであったろうか。山内善男(やまうちよしお、1844~1920)は、当時の津高郡(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩に登用される。明治維新の後は、郷里に戻り、多種の商売を志す。そんな中で、このあと紹介する大森熊太郎(おおもりくまたろう、)とともに、ぶどう栽培を手掛ける。
 それは、切磋琢磨の時期だったのであろうか、1888年(明治21年)、マスカットオブアレクサンドリアの栽培にこぎ着ける。これより前の1875年(明治8年)には、中国から上海水蜜、天津水蜜などが中国から日本にもたらされる。1915年(大正4年)には、ぶどう栽培の温室化と販売促進を目的とする祖山会を中心となって立ち上げる。そればかりか、害虫の駆除を研究し、袋かけ法を考案する。

 大森は、山内と同じ村の出身で、1875年(明治8年)に、それまでの郵便御用取り扱いの仕事をやめて、山内らと園芸で身を立てようとする。友人からフランスの事情を聞き、ぶどう栽培を志す。1878年には、岡山県にはじめてアメリカ産ぶどうを入れる。1883年(明治16年)には、今度はヨーロッパから新種を入れる。

 そして迎えた1886年(明治19年)、大森は、山内とともに前述のぶどう栽培の温室化を手掛けるのであった。1902年には、実績をかわれて兵庫県明石農事試験場に招かれる。

 大久保重五郎(おおくぼじゅうごろう、1867~1941)は現在の岡山県瀬戸町の生まれ。小学校を卒業すると直ぐに、岡山で「果樹栽培の祖」と呼ばれる小山益太(1861~1924、現在の岡山県熊山町)に入門し、漢学と果樹栽培(桃、ブドウ、梨など)を学ぶ。

 これらのうち桃については、師匠の小山益太(こやまえきた、1861~1924)が桃の新品種「金桃」(1895)を生み出すほどの大家であったことを、まず言わなければならぬだろう。その小山は、現在の熊山町の豪農の家に生まれる。長じては、広大な果樹園を使い、桃やブドウ、梨などを育てる。他にも桃の新品種「六水」を生み、果樹の袋かけ法の改善、それにボルドー液を試したり、殺虫剤の創案にも関与した(その情熱の概要は、三宅忠一「岡山の果物、果実の百年史」日本文教出版の岡山文庫、1968に詳しい)。

 その開拓者精神を高く評価した大原孫三郎は、1914年(大正3年)の大原農業研究所の開設時に小山を園芸部の指導者として招き、こやまは約10年間にわたりその役割を果たす。

 さて、話を戻しての、それからの大久保は、そこで交配や剪定、病害虫への対処方法など、いろいろと精出すのであった。中でも、明治期に中国から持ち込まれた上海水蜜、天津水蜜などを品種改良してより美味しい、市場価値の高い桃を栽培できないか、研究を重ねるようになる。ちなみに、一説には、中国の黄河流域あたりの原産だと伝わる桃が、どんな人に運ばれてか、はるばる日本列島に伝わったのは、弥生時代の頃ではないかという。

 そして迎えた1901年(明治34年)に、大久保は、上海水蜜系とされる新品種「白桃」の開発に成功する。その味の特徴だが、強い甘みとねっとりした食感だとから注目される。近隣の農家に、やがて県南部へと栽培が広まっていく。そればかりか、現在、日本の産地で中心となっている桃の相当部分も、そのルーツは「白桃」だともいわれる。
 この品種が元となってか、1932年(昭和7年)に西岡仲一(現在の岡山市芳賀)が「新品種の「清水白桃」を育て上げ、公表にいたる。やわらかな食感が人気を起こし、現在の日本に極めて広く伝わる。これは、現在も高品質の白桃の代名詞となっているとのこと。

(続く)

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