232の15『岡山の今昔』岡山人(20世紀、本田實と小槙孝二郎)
本田實(ほんだみのる、1913年~)は、天文家。鳥取県八頭郡八東村(現在の八頭町)の農家の長男の生まれ。1927年頃に、直径28ミリメートルのレンズを購入し、望遠鏡を自作したというから、既にやる気満々であったのではなかろうか。比較的作りやすいとされる「ニュートン式反射望遠鏡」でいうと、「「主鏡」とも呼ばれる凹面鏡が、筒のおしり、つまり底の部分にあって、そこで反射した光が、筒先の平面鏡「斜鏡」で折り曲げられ、筒の側面の外側に導き出されてくるようになっています」(藤井旭「天体望遠鏡の使い方がわかる本」誠文堂新光社わ2007)とのこと。それにしても、もしそうであったなら、あの時代に肝心の凹面鏡をどうやって手に入れたのだろうか。
それからは、神田茂著『彗星の話』を読み、彗星探しを決意したらしい。1932年(昭和7年)頃でのことながら、自作望遠鏡で見つけた光を彗星と誤って「京都帝国大学附属花山天文台(かざんてんもんだい)」に知らせるも、その光は実は、レンズの反射光だったことを指摘される。これが転機となり、天文学を学ぶため、花山天文台長・山本一清の指導を受ける。精進のかいあって、山本が開設した「黄道光観測所」(広島県沼隈郡瀬戸村、現在は福山市)の観測員となる。
1941年(昭和16年)4月には、民間の「倉敷天文台」台員に着任する。この天文台は、「広く一般に天文知識を普及するため」ということで、1926年(大正15年)、元倉敷町長の原澄治によって設立された日本最初の民間天文台だ。そのあたりは、倉敷市中央にありながら、静かな住宅地だという。
ところが、同年8月には、召集され、中国東北部へ、さらにシンガポールへとやらされる。敗戦により復員。1947年、34歳の時には元の職場にあって、戦後としては日本人初の新彗星を見つけ、これが認められ、「本田彗星」と命名される。1952年(昭和27年)には、「財団法人倉敷天文台」主事に着任する。そこでの主な観測機材としては、31.5センチメートルカセグレン式反射望遠鏡と15センチメートル対空型双眼望遠鏡(本田實が彗星捜査に使用していた望遠鏡)だという。前者は、イギリスより購入した望遠鏡(鏡はカルバー研磨)であるという。
1967年(昭和42年)になると、今度は「若竹の園保育園」園長になる。それからも、天文観測を続け、多くの新星や彗星を発言していく、アマチュア天文界のパイオニアの一人として活躍をしていく。生涯に彗星12個、新星11個を発見したと伝わる。
ちなみに、この天文台だが、現在でも地域の人々に天文一般知識普及活動を無料で行い、月に一回の天体観望会を実施している。
小槙孝二郎(こまきこうじろう、1903~ 1969)は、アマチュア天文家。津山市上之町の山本家に生まれる。1921年には、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り、京都大学の山本一清に師事する。同会の流星課長として月刊誌「天界」に寄稿していく。
1925年には、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居し、小槙姓を名乗る。以後、教職との「二足のわらじ」ながら流星観測を続ける。1943年(昭和18年)には、紀伊天文同好会の設立に参加する。戦後になると、これが「日本流星研究会」に発展していく。これにて全国的な流星観測のネットワークが発展していくことになる。このかいあって、47年間にわたる同会の流星観測数は2万数千個に及んだというから、驚きだ。
(続く)
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