◻️269の1『岡山の今昔』南海地震(1946)

2019-12-26 20:17:32 | Weblog

269の1『岡山の今昔』南海地震(1946)

 ここに南海トラフというのは、日本列島がある大陸(ユーラシア)プレートの下に、フィリピン海プレートが南側から年間数センチメートルの割合で沈み込んでいる場所(境界)だ。かかるプレートの沈み込みに伴い、それに引きずられる形で両プレートの境界にひずみが蓄積していく。その蓄積された歪みを解放するものとして大地震が発生してきた。
 現在に一番近いところでは、1946年(昭和21年)12月21日午前4時20分頃に起きた昭和南海地震が挙げられよう。その規模は、マグニチュード8.0と言われる。また、震源地としては、南海トラフの紀伊半島から四国沖沖だとされる。三重県や高知県、それに瀬戸内海に沿っての兵庫県淡路島や岡山で震度4~6の激しい揺れを観測したとのこと。
 その被害は甚大で、
約1万1500戸が全壊、1350人もの死者が出たと伝わる。大揺れのほか、津波による被害も大きく、静岡から紀伊半島、四国を経由して九州に至る太平洋岸には、30分~40分後には、津波が押し寄せる。
 中でも、三重から徳島、高知にかけての沿岸に押し寄せた波は、高さが4~6メートルにもなったという。そればかりか、室戸から紀伊半島にかけては南上がりの隆起を呈し、特に室戸(むろと)と潮岬(しおのみさき)での隆起はそれぞれ1.3~0.7メートルになったという。一方、高知県の須崎(すざき)あたりでは、それらと同程度の沈降があり、わけても高知付近の平地では、田園約15平方キロメートルが海面下に沈んでしまったらしい。
 このように和歌山県潮岬南方沖を震源に発生した南海地震なのだが、太平洋とは直接に接していない、瀬戸内海沿岸の地域においても、大きな被害が出た。なぜそうなったのか、その詳しいメカニズムについては、必ずしも明らかになっていないのではないか。
 例えば、岡山県では、児島湾周辺の干拓地、高梁川下流域の新生地、笠岡湾沿岸など、県南の平野部一帯に軟弱地盤地域の液状化によって地盤沈下が生じる。その時からの模様は、「地震時に沈降した高知平野は急速に隆起する一方、瀬戸内海沿岸部が地震後5年程度で最大50センチメートル程度沈降したというから、なんとも不思議だ。

 岡山県では、この地震により、死者52名、負傷者157人、建物でいうと全壊が約1200戸、半壊が2346戸の被害が出たという。その他、堤防や道路などの損壊がかなりの数に及んだことになっている。


(続く)

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◻️123の1『岡山の今昔』岡山市(明治から現在、その全体)

2019-12-26 10:31:51 | Weblog
123の1『岡山の今昔』岡山市(明治から現在、その全体)

 1871年(明治4年)に廃藩置県の令が発布され、岡山藩は岡山県になり、県庁が設置される。それからは、幾つか周りの県を吸収していく。
 1889年(明治22年)6月、面積5.77平方キロメートル、人口4万7564人で市制を施行、「岡山市」が成る。以後、山陽鉄道の開通や第六高等学校・医科大学の開学などもあって、岡山市は政治経済から交通、教育文化、医療などまで、さまざまな都市機能を備えた、岡山県の中心都市として発展していく。
 戦後になっての1969年(昭和44年)には、西大寺市との合併があった。その西大寺市は上道郡、邑久郡に属していた町村(一部)が合併して1953年(昭和28年)に誕生して以来、しだいに岡山市のベッドタウン化していたこともあり、岡山市との合併に活路を求めたのようで、その後は岡山市東区西大寺地区となる。
 1971年(昭和46年)には、9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町) との合併が行われる。1975年(昭和50年)には、藤田村との合併が実現する。
 このような市域の拡大に合わせるかのように、交通の便利も、飛躍的によくなっていく。1972年(昭和47年)には、高度成長期の波に乗っての山陽新幹線が開通する。人口は、50万人を超える。この間、瀬戸大橋、岡山空港、山陽自動車道、岡山自動車道など広域高速交通網の整備が進む。
 交通での特色としては、「オカデン」こと、岡山電気軌道の路面電車が便利であろう。開業されたのは、1912年(明治45年)5月5日だと聞く。当時の路線は、岡山駅前~上之町(現城下)及び番町線の一部であったという。それが、同年6月に西大寺町まで延長された。1923(大正12)年7月になると、メインの東山本線が旭川を越えて東山まで開通する。それから、清輝橋線(せいきばしせん)の開業は1928年(昭和3年)3月ながら、清輝橋まで路線が延びたのは1946年(昭和21年)年9月のことであったという。
 
 聞けば、1968年(昭和43年)5月には、上之町から北に延びる番町線が廃止された。それからは、2019年の現在に至るまで路線の変化はないとのこと。今は、3.1キロメートルの東山本線と、途中で別れて南へ向かう1.6キロメートルの清輝橋線、二つ合わせて総延長4.7キロメートルの規模だという。
 参考までに、停車駅を並べ、おおよその位置関係を述べておこう。東山線は、西川緑道から柳川、ついで城下、県庁通り、西大寺町、小橋、中納言、門田屋敷とやって来て、東山が終点だ。
 二つ目の清輝橋線の方は、柳川までは同じで、そこを過ぎて直ぐに右折して行路を南へとる。郵便局前から田町、新西大寺町筋、大雲寺前、東中央町(市民病院入口)を経て、清輝橋に電車は滑り込む。
 およそこれだけをいうならば、限られた範囲での小さな営業ということで済まされるかもしれない。けれども、岡山駅を起点に市内の主要な場所を繋ぎ、なおかつ、乗客となりては路面電車でしか味わえない楽しみも多々ある。これまで数度しか乗っていないにも関わらず、はや「わが街」との思いにも浸ることができる、不思議だ。
 それから、2005年3月には、御津町、灘崎町と、2007年1月には建部町、瀬戸町とそれぞれ合併し、発展していく。市域面積は789.95平方キロメートル、旧備前国、備中国、美作国3カ国にまたがる広大な市域に、約70万人を擁するにいたる。そして迎えた2009年4月1日には、全国で18番目の政令指定都市になる。
 市内には、北区、東区、中区そして南区の四つの行政区がある。まずは北区だが、その範囲は広く、岡山市街地の中心部から旧御津町、旧建部町までの広い範囲にわたる。岡山駅前や県庁、市役所などの行政機関があり、また人口でも市の中心をなす。市役所内に区役所がある。
 また、中区は、町の中心部ということではなく、4つの区に分けたときに真ん中だからこう呼ばれるという。面積は最小で人口密度は最大だ。
 さらに、東区は、西大寺地区(1967年までは西大寺市だった)や旧瀬戸町を合わせた領域だ。
 それから南区は、南へ向かって児島湾埋立地までを含む。幹線道路としての国道30号線は住民の動線として利用されている。また鉄道は、JR西日本の宇野線や本四備讃線が通っており、玉野市や倉敷市方面へ通じるほか、バスも充実しているという。

 観光では、瀬戸内海国立公園に含まれる金甲山や貝殻山が、近世以来名高い。金甲山は標高403メートルの山で、展望台から瀬戸内海や香川県を見ることができる。他にも岡山市サウスヴィレッジやなださきレークサイドパーク、岡山ふれあいセンター、さらに岡山市総合文化体育館や小串スポーツ広場といった大型のスポーツ施設も備わる。

 産業としては、岡南工業地帯を構成している。戦後の農地改革で、海沿い、岡山港までの広範な地域に、軽工業や運輸、倉庫などの工場が並び、水島地区と並び岡山県最大規模の活動。また、農業が盛んで、米や麦に始まり、スイートピー、千両ナス、レンコン、レタスなどが栽培されているとのこと。さらに、区内の国道30号沿線などには住宅街が形成されており、若者層の定着が進む先進地域だ。
 このように大都市として発展著しい岡山市ながら、多様な問題を抱えているという。まずは、合併絡みでこんな話が持ちあがっている。
 「岡山市北区の「福渡病院は、深い緑の山並みに囲まれた52床の小さな公立病院だ。「肝臓の数値が悪いね」。10月末の診察室。塩田哲也院長は耳に補聴器を付けた男性患者(85)にかおを近づけ、検査結果をゆっくりと伝えた。
 福渡病院はもともと岡山市に隣接する久米南町と旧建部まで運営され、自治体合併で住所が岡山市になった。大病院の集まる市中心部から車で30分以上。高齢者の肺炎や骨折、人口透析など幅広く対応するが、地域の過疎化で患者は減っている。介護施設が増え高齢者の長期入院が減ったこともあり、昨年度の病床数は35%にとどまる。とはいえ、住民には大事な医療機関だ。(中略)
 病院には2市町から年間2億円の公金が投入されるが、赤字が続く。(中略)国がリスト化したのは、公立病院と国立病院機構や赤十字などの公立病院のうち、重症患者を扱う「急性期」病床を持ちながら急性期の診実績が少ないと判断した病院で、地域事情は考慮していない。」(「毎日新聞」2019年11月12日付け)
 
(続く)

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