◻️128の3『岡山の今昔』備前市

2019-12-13 23:06:11 | Weblog
128の3『岡山の今昔』備前市

 備前市は、南東部の瀬戸内海に沿ってある、歴史ある町だ。そもそもの市制は、1955年(昭和30年)、当時の備前町、伊里町、香登町、鶴山村(和気郡)、それに鶴山村(邑久郡)が合併して備前町、ついでの1971年(昭和46年)4月にその備前町と三石町とが合わさって備前市となっていた。 
 さらに、2005年3月22日の備前市、吉永町との合併により、旧日生町は新たに備前市となっている。
 その位置だが、北から時計回りに美作市、和気町(和気郡)、東部は兵庫県に隣接する。南には瀬戸内市、そして西部は赤磐市に接する。
 新幹線にのって東から岡山県内にやってくると、そこは日生(ひなせ)地区だ。旧日生町での町役場は備前市役所日生総合支所となっている。それからは、ほどなく停車駅の岡山に到着しよう。
 市の中心部は片上地区で、ここに市役所など中枢部がある。エリア別で有名なのは、やはり伊部地区であろう、ここには備前焼の工房・陶芸店が集中している。 
 産業としては、おおまかに備前焼と耐火煉瓦と農漁業の町だ。これらのうち、焼物については、そもそもが、これまでに数多くの須恵器の窯跡が知られており、なかでも、備前市・邑久郡長船町・牛窓町など吉井川左岸一帯の丘陵地に集中。このあたりは、「邑久古窯群」と呼ばれ、今までにおよそ90基の窯跡が確認されている。

 その史料としては、10世紀のはじめころに編纂された「延喜式」中の「主計」と言う部分に、全国各地から都へ運ばれた貢納品の種類や数量が詳しく記されている。これによると、備前国から都へ納められることになっていた須恵器の量は、河内国(かわちのくに)のそれを凌ぐ全国一位という。
 ところが、平安時代末期に興った備前焼の産地は、そことは山一つ隔てた備前市伊部に発達していく。もう少しいうと、伊部集落周辺の山麓から、南北の谷筋沿いに標高400メートルを越えるような高地まで、5キロメートル四方にわたる。このように須恵器が備前焼へと発展しながらひと山越えた、そのメリットが何であったかは、一説には、次のように言われる。

 こうみてくると、かなり前からの産業構成みたいなのだが、そこは「一工夫、二工夫」が行われてきたようで、これまでの焼き物の歴史を生かすべく、培ってきた技術を使ってセラミックなどへの展開や、北部地区での林業や、海岸エリアでの蠣(かき)養殖も盛んだという。
 それから、最近の当市を眺めると、県南東部ということではあるものの、人口の減少や高齢化はかなり進んでいるという。そうなれば、医療や福祉の面でも、個々の自治体を跨がる形での調整の必要も出てくることを、例えば、次の記事が伝えている。
 「岡山、玉野、備前市など5市2町の将来的な医療体制について医療関係者が協議する「岡山県南東部地域医療構想調整会議」が8日、岡山市北区南方のきらめきプラザで開かれ、国が9月に再編・統合の検討が必要として公表した医療機関について意見を交わした。(中略)
 出席者からは、判断の基になったデータが古く実情を踏まえていないことを指摘する声が相次ぎ「住民の不安をあおっている」「再編・統合は地域の実情に照らし合わせて考えるべきだ」といった意見も出た」(2019年11月8日付け山陽新聞電子版)とのこと。
 ここに参加したのは、福渡病院(岡山市)、玉野市民病院、備前病院、吉永病院(備前市)、瀬戸内市民病院、吉備高原医療リハビリテーションセンター(吉備中央町)、赤磐医師会病院(赤磐市)の8病院であり、互いによる意見交換がなされたようだ。

(続く)

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◻️96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

2019-12-13 22:44:28 | Weblog

96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

 やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主であった水谷勝隆がこの備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。

 さて、同藩は、この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、他の寺とともに、城および城下町の防衛戦の一つの役割を担っていた。
 1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代目水谷勝美(かつよし)が31歳で死去、その末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ(幕府から相続が許される)前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。なお、勝美の弟、勝時に改めて2千石が与えられ相続が許され、旗本として存続していく。

 その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。

(続く)

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◻️169『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、森(関)衆利)

2019-12-13 21:00:02 | Weblog
169『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、森(関)衆利)

 森衆利(せきあつとし、1672~1705)をご存知だろうか。彼は、津山藩二代藩主、森長継の12男にして、どのような子供時代を過ごしたのであろうか。当初は、森家一門の関家を継いで(長継の実弟で家老職を務める一門の関衆之(せきあつゆき)の養子に入る)、やがて家老職となる。「若いのに、凄いなあ」という評判であったのかどうか。そればかりか、その彼が中心となって、江戸の中野村に広大な犬小屋を設置したのは、幕府の命令によるものであった。だから、凡庸というのではなく、優れた才覚を持っていたのは間違いなかろう。
 ところが、である。兄で四代藩主の長成が27歳で没する。英明と言われた長成には天が味方しなかったのであろうか。そこで急きょ、藩主候補として実績の深い、家老職を務める衆利に期待が集まったらしい。次の藩主に、ということになり、長成存命中に幕府への末期養子を願い出ていたことから、幕府老中から早急に参府するよう命じられた。
 そこで、挨拶かたがたの気分であったろうか、衆利一行は津山を発したが、急病のため途中桑名付近でとどまって、それから先へは行けなくなってしまう。一応は、衆行が乱心してしまったことになっているのだが、なぜそうなったのかが不明なのだ。
 ここに、その原因はよくわからない。それというのも、一説には、「衆利は前日から気分すぐれず、侍医延原竜庵が多量の朝鮮人参を加えた薬を与えると、たちまち総身に発汗し逆上したという」(宗森英之「森長成(美作津山藩)」、所収は高澤憲治外「江戸大名廃絶物語」新人物往来社、2009)とあるが、かかる史料の信頼性が明示されていない。
 さらに穿った見方によると、この乱心の裏には、「犬小屋普請に対する幕府への不信があった」とか、元々「藩主候補を嫌がっていたのではないか」ともいわれるのだが、これらとても決め手はないようだ。

  ともあれ、これにより津山藩十八万六千五百石は幕府に召し上げられてしまう。それからのことは、先々代の長継が存命だったことから、「御家存続」に奔走したのであろう、備中西江原に二万石を衆利の兄・長直に、分家の関長治に備中新見に一万八千石を、次いで森長俊に一万五千石の存続を許された。衆利自身は兄・長直への身柄お預けとなる。伝わるところでは、衆行は失意のまま33歳で力尽く。


(続く)

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