備前市は、南東部の瀬戸内海に沿ってある、歴史ある町だ。そもそもの市制は、1955年(昭和30年)、当時の備前町、伊里町、香登町、鶴山村(和気郡)、それに鶴山村(邑久郡)が合併して備前町、ついでの1971年(昭和46年)4月にその備前町と三石町とが合わさって備前市となっていた。
さらに、2005年3月22日の備前市、吉永町との合併により、旧日生町は新たに備前市となっている。
その位置だが、北から時計回りに美作市、和気町(和気郡)、東部は兵庫県に隣接する。南には瀬戸内市、そして西部は赤磐市に接する。
市の中心部は片上地区で、ここに市役所など中枢部がある。エリア別で有名なのは、やはり伊部地区であろう、ここには備前焼の工房・陶芸店が集中している。
産業としては、おおまかに備前焼と耐火煉瓦と農漁業の町だ。これらのうち、焼物については、そもそもが、これまでに数多くの須恵器の窯跡が知られており、なかでも、備前市・邑久郡長船町・牛窓町など吉井川左岸一帯の丘陵地に集中。このあたりは、「邑久古窯群」と呼ばれ、今までにおよそ90基の窯跡が確認されている。
その史料としては、10世紀のはじめころに編纂された「延喜式」中の「主計」と言う部分に、全国各地から都へ運ばれた貢納品の種類や数量が詳しく記されている。これによると、備前国から都へ納められることになっていた須恵器の量は、河内国(かわちのくに)のそれを凌ぐ全国一位という。
ところが、平安時代末期に興った備前焼の産地は、そことは山一つ隔てた備前市伊部に発達していく。もう少しいうと、伊部集落周辺の山麓から、南北の谷筋沿いに標高400メートルを越えるような高地まで、5キロメートル四方にわたる。このように須恵器が備前焼へと発展しながらひと山越えた、そのメリットが何であったかは、一説には、次のように言われる。
(続く)
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