黒住章堂(くろずみしょうどう、1877~1943)は岡山県御津郡一宮村(現在の岡山市北区)の生まれ。早くから画家を志したらしい。
岡山や京都で画を学ぶ。のちに、京都画壇の巨匠・竹内栖鳳に師事する。25歳のときに父が亡くなる。これを機に帰郷し、吉備津彦神社の御用絵師なども務める。
この頃より、寺社再興の資金集めとして始めた観音図制作に取り組む。50代になると、出家する。神奈川県葉山の慶増院(寺名はのちに高養寺、現在は逗子市へ移築)の住職を務める。
そのかたわら、仏画頒布をおこなう。そんな活動を通じて資金をあつめ、廃寺の危機を救う事業を行う。つまり、彼は自身のためではなく、社会事業のために描いた。その絵の数は、万を超えるというから、驚きだ。
代表作に、和歌山市の寂光院襖絵がある。かかる寂光院は檀家を持たず、江戸時代には紀州藩の支援があったものの、明治以降はこれに「廃仏毀釈」という政府の施策もあり、資金難から衰退していく。
こうなると、不思議なもので、一連の修復作業の中から、ふすま絵は竹虎図や松鶴図、孔雀牡丹図など44点の襖絵が見つかる。落款などから、黒住章堂の作と分かったという。この様ないきさつから窺えるのは、黒住はおそらく、これらを次々に描いて、寺の再建に寄したと考えられていて、なんとも清々しい話ではないか。
(続く)
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