◻️204の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、黒住章堂)

2019-12-08 21:42:41 | Weblog
204の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、黒住章堂)

 黒住章堂(くろずみしょうどう、1877~1943)は岡山県御津郡一宮村(現在の岡山市北区)の生まれ。早くから画家を志したらしい。
 岡山や京都で画を学ぶ。のちに、京都画壇の巨匠・竹内栖鳳に師事する。25歳のときに父が亡くなる。これを機に帰郷し、吉備津彦神社の御用絵師なども務める。
 この頃より、寺社再興の資金集めとして始めた観音図制作に取り組む。50代になると、出家する。神奈川県葉山の慶増院(寺名はのちに高養寺、現在は逗子市へ移築)の住職を務める。
 そのかたわら、仏画頒布をおこなう。そんな活動を通じて資金をあつめ、廃寺の危機を救う事業を行う。つまり、彼は自身のためではなく、社会事業のために描いた。その絵の数は、万を超えるというから、驚きだ。
  代表作に、和歌山市の寂光院襖絵がある。かかる寂光院は檀家を持たず、江戸時代には紀州藩の支援があったものの、明治以降はこれに「廃仏毀釈」という政府の施策もあり、資金難から衰退していく。
 
 ここに、1868年(明治2年)の神仏分離令とは、天皇家を神に祭り上げようとする試みの一つであった。それからは、東照宮を含む日光山内の仏教建築物を輪王寺と総称する。それに対し、東照宮以外の日光山内に点在する神道建築を総称して二荒山神社と呼ぶ。そのおりの日光宮寺側の抵抗の要となったのは、神と仏が時とところにより入れ替わるという「神仏習合」であった。また、1870年(明治3年)の鶴岡八幡宮寺においては、かかる分離令になびく。寺からの届け出では薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門を取り壊したという。これを行ったの者は、僧侶から神主に衣替えした上に、門に架かる「鶴岡八幡宮寺」の「寺」の字を削り、その痕跡ばかりとした。
 
 およそそういう次第にて、跡を継ぐ者もないという有り様にて、これらに直面したのが、松江の出身で、寂光院で得度した伊藤尋流であって、1924年に再興に着手し、1935年には庫裏の再建が成ったらしい。
 こうなると、不思議なもので、一連の修復作業の中から、ふすま絵は竹虎図や松鶴図、孔雀牡丹図など44点の襖絵が見つかる。落款などから、黒住章堂の作と分かったという。この様ないきさつから窺えるのは、黒住はおそらく、これらを次々に描いて、寺の再建に寄したと考えられていて、なんとも清々しい話ではないか。

(続く)

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◻️15の2『岡山の今昔』奴隷制社会は実在したか

2019-12-08 10:13:53 | Weblog

15の2『岡山の今昔』奴隷制社会は実在したか

 これまでの倭及び日本の社会中、少なくとも奈良時代までにあっては、生産関係及び全社会構造において奴隷を最末端とする人民圧政の社会であった。このことは、この国のこれまでの歴史学の上では、特段の異論は認められないようである。 
 とはいうものの、多くの歴史家は意識的にか(その幾らかは、天皇制の起源を議論するのとほぼ同様な、いわゆる「タブー視」によるものなのかもしれない)、無意識的にか、このような問いかけによる究明自体を避けてきたことが大いに覗えるのである。ここでは、まず瀧川政次郎氏の大著『「日本奴隷経済史」』からしばらく紹介させていただこう。

 「全国奴隷人口の実数は、全国総人口の実数に、前節に検出せる全人口と奴隷人口との比を乗じて、これを求めるより外に適当なる方法とてはない。故に奴隷人口の実数如何の問題は、簡単に全国総人口の問題に置き換へられる。而してこの問題に就いては、先輩学者の研究が二三あるが、澤田吾一氏の『奈良朝時代民政経済の数的研究』は、それらの中で最も傑出したものであらうと思ふ。故に私は、この問題に就いては、氏の研究を紹介するに止める。
 即ち氏は、まづ前紀の著書の第一篇に於いて、正倉院所伝の帳面を材料として、年齢別と男女別及び男口課別の比例を求め、各その百分比例を作成して居られる。今その百分比例の要領を転載すれば、即ち次の如くである。
 次に氏は、第二篇に於いて、続日本紀、天平十九年五月戊寅の條に見える「・・・・・」なる官奏によって知られる」としているが、以下『続日本書紀』からの引用は、漢文のまま記されているので、ここでは別の同著注釈書により書き下し文を挿入させていただくと、こうある。
 「戌寅(いぬとら)、太政官、奏して曰さく、「封戸の人数の多き少き有るに縁りて、輸(いだ)せる雑物、その数等しからず。是を以(もち)て、官(つかさ)・位同等しきに、給(たま)ふ所は殊に差(たが)へり。法(のり)に准(なずら)へ量(はか)るに、理実(ことわりまことに)に○(かなはず。請(こ)はくは、一戸毎に正丁(しょうちょう)五六人、中男(ちゅうなん)一人を以て率(のり)として、郷別(ごうごと)に課口(くわく)二百八十、中男五十を用(もち)て、擬(なずら)へて定まれる数とし、その田租(でんそ)は一戸毎に○束を限として、加減すべからざらむことを」とまうす。奏するに可としたまふ。」」(青木・稲岡・篠山・白藤校注『続日本書記』(三)岩波書店、1992、43~44ページ)
 ここに「郷」とあるのは、「霊亀元年以後の郡の下の地方行政単位」(同著注)をいう。そこで再度、瀧川氏の論考から引用を続けさせていただく。
 「封戸の郷の課口三百三十人に、前期の課口男口の比を乗じて、この郷の男口六百三十七人を得、更にこれに男口女口の比を乗じて、この郷の女口七百三十七人を得、両者を併せて当時の一郷の平均人口を一千三百九十九人と見積もり、これに和名抄記載の郷数四千四十一を乗じて、全国の総人口を五百六十余万人と計算して居られる。又氏は別に弘仁延喜の主税式に見える諸国の出挙稲額が、その国々の人口と比例的関係にあることに着眼し、弘仁六年八月甘三日の官符に見える陸奥国解に、この国の課丁三万三二九十人、外に勲八等以上の健士一千五百人とあることによって、陸奥国の課口を三万四千七百九十人と算定し、弘仁主税式の陸奥国の出挙稲百二十八万万五千二百束によって、出挙稲一千束に対する課口数二十七人〇七厘を得、これを弘仁延喜の諸国出挙稲に乗じて、諸国の課口数と人口数とを得、これを合計することによって、全国の人口を五百五十八万六千二百人と計算して居られる。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
 続いて奴隷の地方的分布を見る場合においても、澤田氏の研究をそのまま引用する形で、次のように述べておられる。
 「即ち澤田氏は、前述の如く、弘仁六年八月二三日の官符に見える陸奥国の課口数と弘仁主税式の陸奥国の出挙稲額とによって、出挙稲一千束に対する課口数を算出し、これを弘仁延喜式の主税式に見える諸国の出挙稲数を乗じて、諸国の課口数とを次表の如く計算して居られる。」
 掲げられる表中の「美作」は、「弘仁苗」では7400、その課丁が2003、それに見合うであろう「人口」が1071人となる。また「延喜苗」が1万2210もしくは7640、その課丁が(2684)もしくは1679、それに見合うであろう「人口」が()1435人)もしくは898人となる。続いて「備前」は、「弘仁苗」が8033、その「課丁」が2175、それに見合うであろ「人口」が1163人となる。また「延喜苗」が9566、その課丁が2103、それに見合うであろう「人口」が1124人となっている。さらに「備中」としてあるのは、「弘仁苗」が6400、その課丁が1732、そに見合うであろう「人口」が926人となる。また「延喜苗」が7430、その課丁が1633、それに見合うであろう「人口」が873人ということになる。ただし、畿内諸国は「調」が半減されたり、「出挙稲」の配分額も半分に減額があることから、半減の表も掲げておられる)
 その上で瀧川氏は、澤田氏の業績をこうまとめておられる。
 「依って諸国の奴隷人口は、右の諸国全人口に一割乃至一割五分を乗ずることによって容易にこれを算出することができる。而してそのこれを算出した結果は、奴隷人口は東海、東山の二道に最も多く、西海、山陽の二道これに次ぎ、南海、北陸、畿内は最も少ないと云ふことになっているが、その面積によって奴隷分布の密度を計れば、畿内諸国は第一位を占め、西海、山陽の二道これに次ぎ、東海、東山の諸道は第三位以下に落ちる。」(同著) 
 翻ってみれば、このような制度が成り立たつには、それなりの社会的な生産が実現されていることがあり、例えば、文化人類学者によりこういわれる。
 「奴隷制度は、初期の国家の大半が、首長社会よりも大規模に取り入れていた。これは、首長社会のほうが倒した敵を情け深く取り扱ったからではない。国家のほうが、労働の分化が進んでいて、奴隷にさせる仕事がたくさんあったからである。食料生産や公共事業がより大規模におこなわれるようになっていたからであり、国家間の戦闘のほうが、首長社会同士の戦いよりも大規模で、多くの敵国人を捕虜にできたからである。」(ジャレド・ダイヤモンド著、楡井浩一(にれいこういち)訳「文明崩壊ー滅亡と存続の命運を分けるもの」草思社、2005)
    もっとも、古代日本において、海外に戦闘に繁く出て行き、かつ捕虜を連れかえった話という話は、ほとんど聞かない。だから、上の指摘があるのは、一般的なレベルて念頭に置いておけばよいのではなかろうか。


(続く)

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