74『岡山の今昔』備前往来(岡山道)
美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。江戸期までは、これを「岡山道」又は「津山道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』には、「『岡山道』は、鉄砲町南土手(当時は小田中村新田の内)字広瀬で川を渡り、北村(今の津山口)から、一方・佐良(皿)・高尾・福田の諸村を経て弓削(ゆげ、久米南町)・福渡(当時久米郡、今御津郡建部町)の両駅を過ぎ、旭川を渡って備前に入り、金川(かながわ)の駅を経て岡山城下に達する」とある。現在の岡山県の南の方は温暖な気候である。ところが、北の方に行くに従い、多くは山が迫ってくる地形となっている。夏は涼しさ、冬には寒さが増していく。
5世紀後半から7世紀半ばにかけては、備前の肥沃な平野を中心として、吉備氏が君臨していた。その領地は備中、美作、備後にも及んでいて、大和の勢力に対抗していた。その備前から美作へと向かう道の主流は、おおむね現在の津山線に置き換えたルートをたどっていったのではないか。
この岡山から津山まで鉄道が通ったのは1898年(明治31年)12月21日の中国鉄道が最初であり、その時は一日四往復、52銭の汽車賃であった。このうち便数は翌年3月、一日七往復に増便された。ついでにいうと、1930年(昭和5年)には、作備線の津山~新見間が全面開通となる。続いて1932年(昭和7年)には、因美線の津山~鳥取間が開通する。さらに、1936年(昭和11年)には、姫津線の津山~姫路間が開業に漕ぎ着ける。
さて、ここでは、岡山駅からJR西日本(1985年(昭和60年)までは国鉄))の鉄道に乗って北へと向かうとしよう。法界院(ほうかいいん)、玉柏(たまがし)、牧山(まきやま)から野々口(ののくち)を経て金山(かなやま、当時は御津郡御津町、現在は岡山市)へと至る。
この辺りまでの津山線は、旭川と寄り添うように走る。今では2両建てのディーゼル列車であるが、両側のた時には急峻な山々を仰ぎ見つつ北上していく。その途中の景観は、私に歌心あれば必ず詠んでみたい、それはそれは美しい景観を見せている。金川を過ぎると直ぐ、旭川と別れて、その支流の字甘川(うかいがわ)と暫し寄り添うようにして北上する。それから、この川と別れ進路を北に取って山懐に分け入り、短いが、冷え冷えと濡れた岩肌が露わな箕地(みのち)トンネルをくぐり抜けた後、建部(たけべ、当時は御津郡建部町であったが、現在は岡山市)に近づいたところで、再び旭川と出会う。
郷土の詩人、永瀬清子の、旭川を詠みこんだ詩に、こうある。
「旭川のせせらぎは/知的な瞳の中の妹/二つのダムは白い城のようにそばだって、/湛えた湖のしずかさ重さ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959、泰光堂)
さて、列車は、建部(たけべ)を過ぎてしばらく行き、旭川を渡ったところで福渡(ふくわたり、同)に着く。この辺りがちょうど岡山と津山の中間点に当たる。その福渡駅を過ぎて少し行ったところで、今度は旭川を左に見送る。今度は、その支流である誕生寺川に沿って北上していく。そこからまた津山への鉄路をたどり、神目(こうめ)から弓削(ゆげ)、さらに誕生寺(たんじょうじ)の駅へ着く。このうち弓削駅のプラットホームの標識は少し変わっていて、「川柳とエンゼルの里・弓削駅」とある。その標識を左右から対角線状に二人のカッパが座っている。どのような仕儀で想像上の生き物であるカッパがそこにいるのだろうか。
その2人には水色の色付けがなされていて、それに陽の光が当たっているような気がしている。向かって左が子どもで、右側が母親のように見えるのだが、よくわからない。標識のてっぺんにいるのが、どうやら父親のようで、なにやらズボンのようなものを履いている。立っている筈なのに、紅葉状の足がこちらを向いているのは、愛嬌たっぷりだ。こちらの色付けは、赤銅色とまではゆかないが、なかなかに威風堂々としている。この家族の面々の表情は、3人ともやんわり笑っているようでもあり、静かに物思いにふけっているようでもある。この地になぜカッパが伝わっているのだろうかと考えを巡らしていると、やはり旭川の水と、地域の人々ののどかで、たおやかな心情が重なり合って伝説を形づくってきたのであろうか。
弓削の次の誕生寺には、浄土宗の名刹(めいさつ)誕生寺がある。その立場所は、現在の久米郡久米南町である。法然上人・(幼名は勢至丸)が生まれた場所だ。彼は、ここで生まれてから浄土宗菩提寺(勝田郡奈義町)に修行に赴くまでの13年間を過ごしたらしい。彼の父・漆間時国(うるまときくに)はそのあたり(備関莊)の豪族であり、久米押領使を務めていた。
法然の出生記録といっても、ちゃんとした当時の戸籍が残っている訳ではない。京都の知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』は全48巻から成ることから、『四十八巻伝』とも呼ばれる。それは単なる伝記のみではなく、長大な伝記絵巻となっている、今では京都の知恩院が所蔵する一大絵巻である。その中には、次のような、彼の父の漆間時国に至る、美作の漆間氏の由来についての記述が見られる。
「かの時国は、先祖をたずぬるに、仁明天皇の御後、西三条右大臣光公の後胤(こういん)、式部太郎源の年(みのる)、陽明門にして蔵人兼高を殺す。その科(とが)によりて美作国に配流せらる。ここに当国久米の押領使神戸(かんべ)の大夫漆の元国がむすめに(年が)嫁して、男子をむましむ。元国男子がなかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号し、盛行が子重俊が子国弘、国弘が子時国なり。」
『津山市史、第二巻、中世』は、主にこの資料を使って、「漆間氏は平安末期から南北朝期にわたる数世紀の間、主として美作の南部で重きをなした豪族である」としている。
さて、1141年(保延7年)、久米の稲岡荘(いなおか)を管理していた明石定明(あかしさだあき)が、その国からのお目付役である、その漆間時国を館に襲って殺してしまった。まだ9歳の彼の前で、この事件があったとされているので、まだ幼気の残る少年の身にとっては大変なショッキングなことであったに違いない。その父の旧宅跡に、1193年(建久元年)になって、法然の弟子である蓮生(れんせい)が主導して師の徳を慕い、伽藍が建立された。以来、八百年余の歳月が流れた。1873年(明治6年)、当時の北條県の命達により廃寺となるも、浄土宗知恩院派の運動があって1877年(明治10年)に管許を得て再興がなった。
さて、津山線に戻ると、列車は、誕生寺を出た後、小原(おばら、久米郡中央町)へと向かう。小原を出ると、亀甲(かめのこう、現在の久米郡美咲町原田)にさしかかる。列車がホームに滑り込むと、そこには亀が出迎えてくれる。一つは、黄色をベースに、橙と青と緑と白の斑点が付いた大きな亀がいる。コンクリート製のようで、駅舎の上に突き出て見え、とにかく大きい。こちらに向けた目のところらに時計がはめ込まれている。口がぱっくり開いていて、なんとはなしにかわいい。もう一方の亀は、駅の改札に至る途中のホームの端にいる。こちらは岩に上に、実物を模したものといって良いだろう。おそらくは青銅製の亀が3匹這いつくばっている。いずれも首をもたげて、頭上を見上げているポーズのようだ。黒いし、背丈が低いので、視線を落とさないと乗降客はなかなかにして気が付かないのではないかとも考えられる。
そしてこの地は、光後玉江の故郷でもある。1830年(天保元年)、久米北條郡錦織村(今の久米郡美咲町)に生まれた。父は津山藩医の箕作阮甫とも交流の深い医師であった。医者の子は医者にというべきか、玉江は15歳ながらも向学心に燃えていて、津山藩医の野上玄雄に入門するのだった。そこで医学と産科を学び、28歳で開業したことが伝わっているが、産科はどのようにして履修したのであろうか。以来47年にわたり、当時まだ数少ない女性の医師としての生涯を生き抜いたことで知られる。
亀甲駅を出て小山に田んぼの入り交じった眺めの中をしばらく往くと、佐良山(さらやま)に出る。佐良山を出てからは、津山市に入って、津山口へ、そして津山線の終点である津山に着く。一方、その後の旭川はといえば、それから御津郡加茂川町(現在の岡山市加茂川)、ついで久米郡旭町へと遡り、そこからさらに真庭郡に入って落合町、久世町、勝山町を北へとたどり、その後さらに山間の地を北に遡って、源流とされる湯原湖に到達する。
いまは、JR(旅客鉄道会社、1985年(昭和60年)の国鉄分割民営化決定により、国鉄から経営が変更されたことによる)による経営となっても、津山線のディーゼル機関車に乗って津山に向かっていると、自分が古代の舟を操って旭川を探検している姿が彷彿としてくるから不思議だ。列車が天空に輝く程の日差しを浴びた地点にさしかかると旅情によってはなぜか血がざわめき、胸がさわさわとときめくときがある。なお、これまで岡山から今日の津山までの鉄道路を古代の人々の行路に見立てて話をすすめてきたが、第二次大戦後からは中国鉄道津山線や宇野バス(林野から岡山の内山下までの乗合自動車)による方がむしろ一般的な行路だといっていいだろう。物資の運搬についても、馬車で陸路を運ぶほか、1930年代(昭和の初め頃)までは、旭川をいかだや高瀬舟が米や木炭などを積んで下っていたことがある。
(続く)
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46の2『岡山の今昔』地租改正(1873)
さらに新政府は、秩禄処分と相俟って地租改正を行う。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。
1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。
つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
地租改正のその後であるが、1875年(明治8年)には、岡山県の地租改正作業(田畑と宅地)が一応完了したという。1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。
(続く)
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78『岡山の今昔』山陽道(播磨から備前へ、山陽本線から山陽新幹線へ)
古くからの天下の大道としての山陽道を播磨方面からやって来て、岡山に向けてさらに進んでいく。相生(あいおい)からの山陽本線は、赤穂線を分岐させる。後者は、瀬戸内海の沿岸沿いを南へ西へうねうね辿りながら、岡山へと繋げていく。
昔の山陽道からはずれるということで山陽脇街道というか、作家の井伏鱒二(いぶせますじ)は、持ち前の紀行文の中でこれを「備前街道」と呼んだ。赤穂は、いうまでもなく、南に塩田を抱えて江戸時代に商業で栄えた、千種川(ちぐさがわ)の三角州(デルタ)の遠浅の地に発展したところだ。そのこともさることながら、この地は「忠臣蔵」の赤穂浪士の町でもある。
話を戻して、赤穂の西は寒河そして日生(ひなせ)だが、後者の有り余る日光を浴びているかのような土地名は、どこから来るのであろうか。その次に伊里、それから備前片上、西片上を経て伊部(いんべ)へと鉄路が続く。このうち伊里のすぐ南の海に面したところが穂波(ほなみ)といって、このあたりでは瀬戸内海が深い入り江をなし、平地にいるかぎりは水平線は見えないといわれる。
さらに、岡山へ向かっての先に進もう。現在の岡山と相生を1時間20分ほどで結ぶJR赤穂線(あこうせん)のほぼ中程に伊部(いんべ)駅がある。この駅には、東西の大動脈としての国道2号線が駅前間近に通っているので、交通の便は鉄路、車道ともに良い。国道2号線を渡ると南北に「伊部通り」という名の大通りがあり、それを来た道へ向かって歩いてゆくうち約100メートルにて、T字形にて旧山陽道に出くわすことになっているとのこと。而(しか)して、この伊部という地域には、上代から脈々と伝えられし備前焼きの故郷がある。
一方、山陽本線の方だが、山間部にしばらく分け入って進む。顧みれば、1891年には、それまで岡山までであった山陽鉄道の岡山から笠岡間が開通した。
1960年(昭和35年)には、宇野線とともに、山陽本線が電化される。ちなみに、宇野線は1910年に開通していた。
とはいえ、1972年(昭和47年3月)に山陽新幹線が開通すると、それまでの旅のあり方のおおよそが変貌する。続いての1975年(昭和50年)には、新幹線の岡山から博多間が開通となる。
(続く)
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