2『岡山の今昔』吉備の三大河川
そういえば、瀬戸内を西へと進んできた人びとが、そのまま播磨へと通り抜けずに、内陸部へ向かっていった、またはその逆があったろう。その際には、さしあたり高梁川(たかはしがわ)、旭川(あさひかわ)、そして吉井川(よしいがわ)の三大河川に沿って北上していったのではないかと想像される。)(中略)
あるいは、東の方からやってきた人々が、吉井川が瀬戸内海に注ぐ地点、岡山の九蟠(くばん、岡山市と合併する前は西大寺市(さいだいじし)、1969年に岡山市になる)から出発し、児島湾の東端河口からほぼ北上することもあったろう。
現在の和気郡和気町(わけぐんわけちょう)の辺りで金剛川などの支流と別れ、赤磐市(あかいわし)の辺りで吉野川と分かれる。それからは、吉備高原(きびこうげん)の谷底平野に向かって北上する。この辺りまでの、吉井川は、旭川の東10キロメートルほどのところを流れている。
それからもまた、人々は北上していく。1960年(昭和35年)から1997年(平成年)に倉敷に移転するまで、津山作陽音楽大学のあった津山市横山(よこやま)まで遡ったところで、北東から流れてきた吉井川と合流する。その後はU字形の蛇行(北から西へ)を描いて、進路を西にとる。このU字形をとっているところは昔から河畔を含め50メートルを超すくらいの川幅となっていて、その深い淵の底には「ごんご」という魔物が棲みついている、と言われてきた。
今度は津山盆地から吉井川に沿って西にたどって行こう。これは、出雲街道を西へと辿ることでもある。すると、院庄(いんのしょう)と到達する。吉井川は、このあたりから北へと遡る。そこから10キロメートルばかり西には旭川が流れており、この二つの川に挟まれた地域(現在の久米郡久米町、その南に久米郡旭町がある)に古代の人々は到達し、そこかしこに定住していったのではないか。
そこからの吉井川は、津山盆地を横切って、しだいに美作の地を離れていく。西への行程で香我美川(かがみがわ)や加茂川といった支流とたもとを分かち、なおも西流してから再び北へと遡る。現在で言うと、国道179号線沿いといったところか。やがて奥津渓谷(おくつけいこく)を抜けたあと、英田郡鏡野町上斎原(あいだぐんかみさいばらむら)に至る。そして、この村の、鳥取県との県境近くの三国山(みくにやま、標高1252メートル)の山間が源流とされている。
これらのうち苫田ダム(鏡野)の建設では、紆余曲折があったことで知られる。21世紀にはいりダムが建設、完成するまで、約40年にわたる反対運動が続く。立ち退きを迫られたのは504世帯だともされる。これには、奥津町の役場も反対した程だ。1957年に国による計画がスッバ抜かれる。1986年からは、国や県当局による「きり崩し」などもあり、賛成派、慎重派、反対派が入り乱れていく。
そんな中、当初は建設反対派であった奥津町当局も、1990年にはその旗を下ろす。1994年の奥津町議会も、これに同調する。2001年には、最後の水没地地権者が立ち退き契約にサインし、2003年にはすべての地権者が移転する。
総工費は、約2035億円とのこと。主な用途としては治水や「利水」か言われるのだが、2019年現在も、計画に比べ水の需要が高まらない。供給できる水量は日量で40万トンとも。県や市町村でつくる県広域水道企業団が、県内の市町村に水を売る仕組みとなっているのだが、岡山市も含め買い手の顔は渋いという。企業団は、ダム建設費の一部を借金しているので、経営が苦しいという。
次なる旭川は、岡山県の中央部を流れる。その幹川延長としては、約142キロメートル、それに流れ込む支川を含むと825.3キロメートルある。流域面積は、1810平方メートルだ。源流があるのは、鳥取県境の真庭市蒜山の朝鍋鷲ヶ山であって、その標高1081メートルの山懐に発す。それからは、新庄川、備中川、宇甘川等146もの支川からの水を合わせ、久米郡を経る頃には大きな流れとなり、やがては岡山と同市内の岡山城を通って児島湾へ注ぐ。
しかして、この旭川水系での、土木部所管ダムは、湯原ダム、旭川ダム、鳴滝ダム、竹谷ダム、河平ダムがつくられている。これらのうち旭川には、1954年(昭和29年)に旭川ダムが完成し、発電が始まる。
そこで、こちらのダムにちなんでの楽しい話を一つ拾うと、次のものがある。
「岡山県美咲町の旭川ダム湖に“冬の使者”として知られるオシドリの群れが飛来した。時折、甲高い鳴き声を山あいに響かせ、水面を優雅に泳いでいる。
カモの仲間で体長40~50センチほど。地味な灰褐色の雌に対し、雄は銀杏羽(いちょうば)と呼ばれる鮮やかなオレンジ色の羽を持ち、愛鳥家に人気が高い。岡山県内では主に中北部の渓流や山間部の池で見られ、餌のドングリが豊富な旭川ダム湖周辺も越冬地となっている。」(2019年11月18日、 山陽新聞デジタル)
このオシドリだが、元来寒いところを好むのであろうか、日本の春から秋にかけては中国東北部、ウスリー(シベリア東南部)、サハリンなどに分布して暮らし、繁殖してからの日本の冬、こちらの各地に飛来してくるという。果たして、「観光大使」になってくれるのだろうか。
さらに、西方を瀬戸内海へ向けて流れる高梁川は、標高1188メートルの花見山(新見市)に源を発し、大まかには南に向かって111キロメートルを下り、瀬戸内海に注ぐ一級河川だ。その流れの特徴としては、中流域にては、カルスト台地を貫通するため、カルシウムを含む。なので、その道筋の至るところで断崖、絶壁の類いの地形をみることができる。それらに目を奪われ、魅せられての文学、絵画といった作品が多いのも、この川ならではの物語を現代人にかもし出す。
そしての下流域には、上流から運ぶ大量の土砂が積み重なり、肥沃な土壌を形成してきている。このあたりまで来ると、高梁川を水源とする現代の10市町で、農業から鉱業、工業などにいたるまで幅広くに人びとに生活の糧を与えてきた。
ここで留意されたいのは、今から200年より少し前までの高梁川は、酒津のあたりで東西に分かれて、それぞれ瀬戸内海に注いでいた。そんなこの川を酒津で締め切り水路を設けて一本化しようとの計画が明治末期の政府により、立てられた。それから、18年の歳月をかけ1925年(大正14年)に工事が完成し、川の流れは一本化された。
ちなみに、郷土の詩人永瀬清子は、一編の詩をこの川に寄せている。
「高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は/気性のいさぎよい末の娘/奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに/白いしぶきが、虹となる/山々はカナリアの柔毛のように/若葉が燃えだし/焔(ほのお)のように紅葉がいろどる/そそり立つ岩壁の足もとに/碧(あお)い珠玉(たま)をところどころに抱いて/歴史をちりばめ、地誌を飾り/いつもお前の魅力は尽きない。」
(続く)
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