260『自然と人間の歴史・日本篇』秩禄処分(1876)
樹立されたばかりの明治政府の最大の弱点は、財政がまるで足りないことであった。政府の歳入は極めて限られていたのに対し、旧体制から引き継いだ借金(内外)の返済や秩禄の整理と処分、新たな軍事、治安や鉄道などのインフラ建設を始めとして、膨大な歳出を行うことが迫られていた。この困難の打開を目指し、まずは、後の地租改正へと通じていく、秩禄処分(ちつろくしよぶん)という名の改革を行っていく。
いうなれば、この地租改正に対応するものとして、必要となったのが秩禄処分である。これは、地租改正によって、旧来の貢租が廃止されるのを踏まえた次の措置して、貢租の取得権ともいうべき旧領主やその家臣の家禄を処分することである。時は、1873年12月、明治政府は、陸海軍の費用を賄うためと称して、家禄税という新税を創設した。
それと同時に、政府は旧領主やその家臣の家禄を国家に奉還させる制度を発足させた。そこで家禄の奉還を希望する者には、生計を建ててもらうため家禄の6年分を現金と秩禄公債で一時的に希望者に与えるというものであった。続いて1875年9月には、、それまで米(こめ)の石高で表示されていた家禄を、貨幣表示の公債に改め、割り当て支給することにした。
その詳細だが、上の方から金禄元高が1000円以上のクラスは、公債交付額基準を5年分から7.5年分とし、公債利率を5%とする。これの対象となる公債受取人数は519人で、全体人数の0.2%に相当し、公債発行総額は31414(千円)で全体の18.0%を占めることから、一人当たりの公債発行額は6万527円となる。次の金禄元高が100円以上1000円未満のクラスは、公債交付額基準を7.75年分から11年分とし、公債利率を6%とする。これの対象となる公債受取人数は1万5377人で、全体人数の4.9%に相当し、公債発行総額は25039(千円)で全体の14.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は1628円となる。
3番目の金禄元高が100円未満のクラスは、公債交付額基準を11.5年分から14年分とし、公債利率を7%とする。これの対象となる公債受取人数は26万2317人で、全体人数の83.7%に相当し、公債発行総額は108838(千円)で全体の62.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は415円となる。最後の「売買家禄」の場合は、公債交付額基準を10年分とし、公債利率を10%とする。
これの対象となる公債受取人数は3万5304人で、全体人数の11.3%に相当し、公債発行総額は9348(千円)で全体の5.4%を占めることから、一人当たりの公債発行額は265円となる。これら4つのクラスの合計では、これらの対象となる公債受取人数は31万3517人で、全体での公債発行総額は174638(千円)で、これから一人当たりの公債発行額を計算すると557円となる。
これらを見ると、公債交付基準は、一握りの数の高禄者に集中している。それでいて、一人当たり平均交付金額の方は上層に行くに従ってうなぎのぼりになっていく、つまり格差が実に大きい。例えば、下級士族の一人当たり公債発行額の415円に利率の0.07を掛けて29.05、つまり29円5銭の利子収入を産むに過ぎない。これを365日で割った一日当たりの受け取りの金額は約8銭に過ぎない。この水準は、東京に限ると、当時の東京の土方人足が日給24銭の約3分の1ということであり、これだけでは生活を維持できないほどであったことだろう。
新しい世の中となって、実に長い間、人々を縛ってきた封建的身分制に多くの終止符が打たれたことは事実だといえる。これは、明治維新が不十分ながらも「ブルジョア革命」の本質を持っていたことから来るもので、士族は身分特権を失った。女性も、社会的及び家庭内での身分解放にはほど遠かったものの、1873年(明治6年)5月15日、妻からの離婚訴訟が条件付で認められることになったのも、その流れといえよう。
美作では、この廃藩置県によって津山藩(10万石、親藩)と鶴田藩(6万1千石、親藩)、勝山藩(2万3千石、譜代)がなくなり、幕府天領や多数の大名、旗本の飛び地も含めて、津山県、鶴田県、真島県など10県に再編成された。その後(同年)、これらの県が統合される形で、北條県(城下町のあった西北條郡の郡名をとっての名称)が発足した。こういう次第にて、禄を明治政府に返上した旧藩主たちは、平均して大いなる恩寵金と以後の爵位を約束されて東京などへ移り住み、かくして武士による領国支配に金銭面での大いなる終止符が打たれた。
(続く)
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