新○○260『自然と人間の歴史・日本篇』秩禄処分(1876)

2019-12-16 18:57:48 | Weblog

260『自然と人間の歴史・日本篇』秩禄処分(1876)

 樹立されたばかりの明治政府の最大の弱点は、財政がまるで足りないことであった。政府の歳入は極めて限られていたのに対し、旧体制から引き継いだ借金(内外)の返済や秩禄の整理と処分、新たな軍事、治安や鉄道などのインフラ建設を始めとして、膨大な歳出を行うことが迫られていた。この困難の打開を目指し、まずは、後の地租改正へと通じていく、秩禄処分(ちつろくしよぶん)という名の改革を行っていく。

 いうなれば、この地租改正に対応するものとして、必要となったのが秩禄処分である。これは、地租改正によって、旧来の貢租が廃止されるのを踏まえた次の措置して、貢租の取得権ともいうべき旧領主やその家臣の家禄を処分することである。時は、1873年12月、明治政府は、陸海軍の費用を賄うためと称して、家禄税という新税を創設した。

 それと同時に、政府は旧領主やその家臣の家禄を国家に奉還させる制度を発足させた。そこで家禄の奉還を希望する者には、生計を建ててもらうため家禄の6年分を現金と秩禄公債で一時的に希望者に与えるというものであった。続いて1875年9月には、、それまで米(こめ)の石高で表示されていた家禄を、貨幣表示の公債に改め、割り当て支給することにした。

 その詳細だが、上の方から金禄元高が1000円以上のクラスは、公債交付額基準を5年分から7.5年分とし、公債利率を5%とする。これの対象となる公債受取人数は519人で、全体人数の0.2%に相当し、公債発行総額は31414(千円)で全体の18.0%を占めることから、一人当たりの公債発行額は6万527円となる。次の金禄元高が100円以上1000円未満のクラスは、公債交付額基準を7.75年分から11年分とし、公債利率を6%とする。これの対象となる公債受取人数は1万5377人で、全体人数の4.9%に相当し、公債発行総額は25039(千円)で全体の14.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は1628円となる。
 3番目の金禄元高が100円未満のクラスは、公債交付額基準を11.5年分から14年分とし、公債利率を7%とする。これの対象となる公債受取人数は26万2317人で、全体人数の83.7%に相当し、公債発行総額は108838(千円)で全体の62.3%を占めることから、一人当たりの公債発行額は415円となる。最後の「売買家禄」の場合は、公債交付額基準を10年分とし、公債利率を10%とする。

 これの対象となる公債受取人数は3万5304人で、全体人数の11.3%に相当し、公債発行総額は9348(千円)で全体の5.4%を占めることから、一人当たりの公債発行額は265円となる。これら4つのクラスの合計では、これらの対象となる公債受取人数は31万3517人で、全体での公債発行総額は174638(千円)で、これから一人当たりの公債発行額を計算すると557円となる。
 これらを見ると、公債交付基準は、一握りの数の高禄者に集中している。それでいて、一人当たり平均交付金額の方は上層に行くに従ってうなぎのぼりになっていく、つまり格差が実に大きい。例えば、下級士族の一人当たり公債発行額の415円に利率の0.07を掛けて29.05、つまり29円5銭の利子収入を産むに過ぎない。これを365日で割った一日当たりの受け取りの金額は約8銭に過ぎない。この水準は、東京に限ると、当時の東京の土方人足が日給24銭の約3分の1ということであり、これだけでは生活を維持できないほどであったことだろう。
 新しい世の中となって、実に長い間、人々を縛ってきた封建的身分制に多くの終止符が打たれたことは事実だといえる。これは、明治維新が不十分ながらも「ブルジョア革命」の本質を持っていたことから来るもので、士族は身分特権を失った。女性も、社会的及び家庭内での身分解放にはほど遠かったものの、1873年(明治6年)5月15日、妻からの離婚訴訟が条件付で認められることになったのも、その流れといえよう。
 美作では、この廃藩置県によって津山藩(10万石、親藩)と鶴田藩(6万1千石、親藩)、勝山藩(2万3千石、譜代)がなくなり、幕府天領や多数の大名、旗本の飛び地も含めて、津山県、鶴田県、真島県など10県に再編成された。その後(同年)、これらの県が統合される形で、北條県(城下町のあった西北條郡の郡名をとっての名称)が発足した。こういう次第にて、禄を明治政府に返上した旧藩主たちは、平均して大いなる恩寵金と以後の爵位を約束されて東京などへ移り住み、かくして武士による領国支配に金銭面での大いなる終止符が打たれた。

(続く)

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◻️8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳、概観)

2019-12-16 15:51:33 | Weblog

8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳、概観)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。

 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。

 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。

 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。

 ここでは参考までに、当時を振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。

 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。

 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」

 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)

 要は、雄略大王の死後直ぐこと、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。
 それらのほかにも、旧山陽町においては、古墳時代に入って穂崎(ほさき)地区に両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)が見つかっており、5世紀後半の築造ではないかと推測されている。古墳の形式は、前方後円墳で、丘の周囲には水をたたえた内濠が二重にめぐらしてある。この種のものではめずらしく優美さを湛えつつも、それでいてやはり当時の首長権力の象徴といおうか、堅固な守りを感じさせる。
 全長192mの墳丘をもつこの古墳は、吉備地方では造山古墳(つくりやまこふん)、作山古墳に次ぐ巨大古墳である。これまでの発掘では、大した発見はなかったもののようだが、いつの頃か盗掘もあったのかもしれない。適切な保存とならなかったのは、あるいは、大和朝廷にとっては邪魔で、目障りな遺跡であったからなのかもしれない。もし適切に保存で現在に明らかになっていれば、古代日本史に吉備国(はびのくに)ありと知らしめることになったのではないか。
 備前地域においてはもちろん最大の前方後円墳で、国指定史跡となっているとのこと。付近には廻山(まわりやま)、森山、茶臼山(ちゃうすやま)の各古墳が点在していて、さながら吉備国の古代を臨むものとなっているのではないか。この国が律令時代に入ってからは、この地(現在の赤磐市馬屋あたりか)に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立される。国分寺の南側には、東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたのではないか。

 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。

 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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