46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)
そして迎えた1871年8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
「廃藩置県の詔
朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)らざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす(以下、略)。」
この措置により、備中美作、備前及び備中の諸藩などは、次に掲げる段階をたどり、編成換えされていく。まずは、1871年(明治4年)7月の廃藩置県(はいはんちけん)から述べよう。美作においては、津山藩(10万石)は津山県へ。鶴田藩(6.1万石)は鶴田県へ移行するのだが、この藩のそもそもは、浜田藩(旧石見)であったものが、1867年5月に美作に移り、7月にはその名前になっていた。真嶋藩(2.3万石)は真島県へ。こちらも、勝山藩であったものが、1868年(明治2年)5月に真島藩に名称変更されていた。
また、備前を領する岡山藩(31.5万石)は岡山県へ。それから、備中についていうと、鴨方藩(2.5万石)は鴨方年県へと移る。こちらは、この前の1867年7月に新田藩から鴨方藩となっていた。生坂藩(1.5万石)は生坂県へと移る。こちらも、この前の1867年7月に新田藩から生坂藩になり変わっていた。庭瀬藩(2万石)は庭瀬県へ、足守藩(25万石)は足守県へ、浅尾藩(1万石)は浅尾県へ、岡田藩(1.03万石)は岡田県へと移る。
それから備中松山藩(2万石)については、1868年8月の高梁藩を経て松山県へ移る。それから成羽藩(1.27万石)は、成羽県へ、新見藩(1.8万石)は新見県へと変わる。幕府直轄であったの倉敷だけは、以上の1871年4月ということではなく、早々と1867年1月に倉敷県へと変更されていた。
これが、そのあとの同年11月の第一次統合においては、前段の美作地区の津山、鶴田、真島の3県が北条県へなり変わる。また、後段の備中の10県が、備後の一部と統合して深津県となっていたのが、翌1872年(明治5年)6月に小田県と改称する。
さらに、1875年(明治8年)には、小田県を岡山県に合併、翌年北条県も廃止して岡山県と合併することにより新生の岡山県が成るのであるが、このとき旧備後国6郡を広島県に編入されることで、県域が確定する。
(続く)
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