◻️46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

2019-12-15 20:32:52 | Weblog

46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

 そして迎えた1871年8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)らざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす(以下、略)。」
 この措置により、備中美作、備前及び備中の諸藩などは、次に掲げる段階をたどり、編成換えされていく。まずは、1871年(明治4年)7月の廃藩置県(はいはんちけん)から述べよう。美作においては、津山藩(10万石)は津山県へ。鶴田藩(6.1万石)は鶴田県へ移行するのだが、この藩のそもそもは、浜田藩(旧石見)であったものが、1867年5月に美作に移り、7月にはその名前になっていた。真嶋藩(2.3万石)は真島県へ。こちらも、勝山藩であったものが、1868年(明治2年)5月に真島藩に名称変更されていた。
 また、備前を領する岡山藩(31.5万石)は岡山県へ。それから、備中についていうと、鴨方藩(2.5万石)は鴨方年県へと移る。こちらは、この前の1867年7月に新田藩から鴨方藩となっていた。生坂藩(1.5万石)は生坂県へと移る。こちらも、この前の1867年7月に新田藩から生坂藩になり変わっていた。庭瀬藩(2万石)は庭瀬県へ、足守藩(25万石)は足守県へ、浅尾藩(1万石)は浅尾県へ、岡田藩(1.03万石)は岡田県へと移る。
 それから備中松山藩(2万石)については、1868年8月の高梁藩を経て松山県へ移る。それから成羽藩(1.27万石)は、成羽県へ、新見藩(1.8万石)は新見県へと変わる。幕府直轄であったの倉敷だけは、以上の1871年4月ということではなく、早々と1867年1月に倉敷県へと変更されていた。

 これが、そのあとの同年11月の第一次統合においては、前段の美作地区の津山、鶴田、真島の3県が北条県へなり変わる。また、後段の備中の10県が、備後の一部と統合して深津県となっていたのが、翌1872年(明治5年)6月に小田県と改称する。
 さらに、1875年(明治8年)には、小田県を岡山県に合併、翌年北条県も廃止して岡山県と合併することにより新生の岡山県が成るのであるが、このとき旧備後国6郡を広島県に編入されることで、県域が確定する。

(続く)

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◻️216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

2019-12-15 09:29:50 | Weblog

216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

  片山潜(かたやません、本名は薮木菅太郎1859~1933)は、作州の久米南条郡羽根木(現在の岡山県久米郡久米南町羽根木)の藪木家に生まれた。家は、当時のこの辺りではやや貧しかったのだろうか。
 それというのも、当時を思い出し、こういう。
 「私の家は昔から農民だった。いつのころからか知らないが、代々庄屋を世襲していたことは、長い間保存されていた古い記録からも明らかである。私の祖父は国造、母は吉よといった。父はこの村から二里のところにある越尾村の生まれで、15歳のとき養子として私の家にきて、やはり15歳だった母と結婚した。二人のあいだに子供が生まれ、私は弟の方である。兄は三つ年上だった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 13歳で、初めてできた誕生寺の成立小学校に入学する。ところが、わずか4か月足らずでやめてしまう。

 以後は、家業を手伝う傍ら、副業として炭焼きに精を出す。それでできた炭を背負って約6キロメートル離れた大戸下まで運搬し、売っていたと、後の「自伝」に記している。その大戸下には、山田方谷のつくった知本学舎があった。教塲から洩れてくる生徒の声を聞いて、学問をしたいとの気持ちを抱く。

 やがて1877年(明治10年)には片山家の養子となり、いよいよ学問をしたいとの気持ちが高じていく。1880年(明治13年)、岡山師範学校(現在の岡山大学)に1年通学するのだが、これにも満足できない。そして歳の青年は、上京する。それからは、実に多様な事柄について、首を突っ込んで、学んでいく。

 1884年(明治17年)には、さらに大志を抱いて、アメリカに行く。その心持ちを駆り立てたのは何であったのだろうか。ともあり、いったん思い立ったら、引かないのが彼の特色であった。かの地の大学では、大学予科で勉強しなければならず、苦労したそうだ。コックをして働いて、学費を稼ぐ。日曜日は、教会のミサに参加するといった生活。洗礼を受けて、キリスト教徒になる。

 1889年(明治22年)には、アイオワ大学、現在のグリンネル大学に入学を果たす。大学院に進み、修士論文は「ドイツ統一史」であった。1894年(明治27年)には、友人とイギリスに行き、社会勉強の中で、神学士の称号を得た。また、アメリカに戻って、エール大学の1年の在学を終え、日本の横浜港に着いたのが、1895年(明治28年)1月のことであった。

 1911年(明治44年齢)12月には、東京市電従業員のストライキの応援にうごき、翌12年1月に検挙され、禁固5か月の刑の判決を受ける。出獄後の家族5人での生活は厳しいものであった、そこで一家は、1914年(大正3年)に日本より自由と考えられるアメリカに渡る、これが4度目の渡米であった。そのアメリカでも社会主義者への風当たりが増してくると、1921年(大正10年)7月、今度はソ連のモスクワに新天地を求めた。1922年(大正11年)7月15日の日本共産党の結成には、モスクワの地から賛成の意を送ったらしい。

 その後もモスクワにとどまり、ソ連側の論客に加わる。1940年(昭和15年)には、アムステルダムで開催の第二インターナショナルの大会に出席し、日露戦争(1904~1905)への反対を世界に向けて訴えた。その後、ソ連の地で平和なうちに生涯を終えたとはいえ、その心は日本の地を振り返り、また振り返りの晩年であったのではないか。当代の中でも最も大いなる旅路を踏破した日本人として有名だ。

(続く)

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