265の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上柴舟)
尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)は、明治から大正にかけての歌人、国文学者、書家。本名は八郎という。津山市田町の旧津山藩士、北郷家の生れ。三男であり、家庭環境は学問に理解があったのではないか。上京して、東京府立一中学校に入る。在学中に、旧津山藩の尾上家を継ぐ。東大国文科を卒業する。
尾上柴舟(おのえさいしゅう、1876-1957)は、明治から大正にかけての歌人、国文学者、書家。本名は八郎という。津山市田町の旧津山藩士、北郷家の生れ。三男であり、家庭環境は学問に理解があったのではないか。上京して、東京府立一中学校に入る。在学中に、旧津山藩の尾上家を継ぐ。東大国文科を卒業する。
東京女高の教師から学習院などの教授まで歴任していく。1895年には、落合直文のあさ香社に加わる。1902年には、金子薫園と結んで叙景詩運動をおこす。一説には、「明星」と対立する。1905年には、車前草社(しゃぜんそうしや)を結成する。
作品は、歌集「銀鈴」(1904)、「静夜」(1907)をへて「永日」(1909)から、「日記の端より」(1913)へ。有名なものでは、「つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき」(伊藤城跡歌碑)、「生きぬくきにほひみたせて山ざくら咲き極まれば雨よぶらしも」(津山城跡歌碑)など、温雅にして古典的作風な句が含まれる。
その作風としては、かなりの小さな字を連ねたりで、そのため、気概がいま一つ、との評価もあったらしい。ところが、1956年(昭和31年)に日展に出した作品(絶筆)、「道」では、「我みちは人のみちとしことならぬ我たどること人はたどらず」の大文字を披露し、実は変幻自在であることを演出して見せた。その生涯に、実に七千余りの歌をよんだといわれ、また書でも一家をなしたあたり、芸術への情熱は限りなく続いたのであろうか。
(続く)
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その作風としては、かなりの小さな字を連ねたりで、そのため、気概がいま一つ、との評価もあったらしい。ところが、1956年(昭和31年)に日展に出した作品(絶筆)、「道」では、「我みちは人のみちとしことならぬ我たどること人はたどらず」の大文字を披露し、実は変幻自在であることを演出して見せた。その生涯に、実に七千余りの歌をよんだといわれ、また書でも一家をなしたあたり、芸術への情熱は限りなく続いたのであろうか。
(続く)
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