232の17『岡山の今昔』岡山人(20世紀、棟田博)
棟田博(むねたひろし、1908~1988)は、小説家だ。英田郡倉敷町(現在の美作市)の伊藤家に生まれ。母の実家棟田家(現在の津山市)の養子となる。神戸市内の学校を卒業後、早稲田大学に入学する。
ところが、中退してしまう。1932年(昭和12年)には、陸軍に招集される。岡山師団に配属され、中国戦線に出征する。翌年除州作戦中に戦傷を負い、帰還する。この時の経験を「分隊長の手記」として1939年(昭和14年)から雑誌に連載して、作家の道に入る。1942年(昭和17年)には、中国軍との戦場に取材しての「台児荘」で野間文芸奨励賞を受賞する、その場所をこう説明する。
「台児荘―という、何の変哲もない、支那の田舎の街の名を、かくまでに、忘れ得ず胸に肝にきざみこまれ彫りつけられようとは、いったい何処の誰が思っていたであらう。
如何にも台児荘は、なんの変哲もない小さな街である。人口はやっと一万というところであつた。たゞ、こゝが、往昔からの古い城市であつたことは、その城壁が話して聞かせて呉れる。この街には惜しいほどのまさに端厳たる城壁である。」
まさに、棒漠たる大地に迷い込んだ、ということであったろうか。
戦後になっては、何に拠るべを巡らせていたのだろうか、後に映画化される「拝啓天皇陛下様」などの拝啓シリーズを世に送り出していく。美作を題材にした小説「美作ノ国吉井川」(1971)も、ドラマ化される。後者の文中には、中国鉄道の列車の様子が温かな視線で、こう描いてある。
「ビィーッという初めて聞く汽笛のかん高い音が、盆地の天と地を震わせ、皿山の山裾から五平太(石炭)の煙が勢いよく噴き上がり、汽車が姿を現在わしたのだった。ダンジリの囃子は、とっくにぴたっと止んでいた。」
(続く)
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