◻️232の17『岡山の今昔』岡山人(20世紀、棟田博)

2019-12-21 23:03:47 | Weblog

232の17『岡山の今昔』岡山人(20世紀、棟田博)

 棟田博(むねたひろし、1908~1988)は、小説家だ。英田郡倉敷町(現在の美作市)の伊藤家に生まれ。母の実家棟田家(現在の津山市)の養子となる。神戸市内の学校を卒業後、早稲田大学に入学する。
 ところが、中退してしまう。1932年(昭和12年)には、陸軍に招集される。岡山師団に配属され、中国戦線に出征する。翌年除州作戦中に戦傷を負い、帰還する。この時の経験を「分隊長の手記」として1939年(昭和14年)から雑誌に連載して、作家の道に入る。1942年(昭和17年)には、中国軍との戦場に取材しての「台児荘」で野間文芸奨励賞を受賞する、その場所をこう説明する

 「台児荘―という、何の変哲もない、支那の田舎の街の名を、かくまでに、忘れ得ず胸に肝にきざみこまれ彫りつけられようとは、いったい何処の誰が思っていたであらう。
 如何にも台児荘は、なんの変哲もない小さな街である。人口はやっと一万というところであつた。たゞ、こゝが、往昔からの古い城市であつたことは、その城壁が話して聞かせて呉れる。この街には惜しいほどのまさに端厳たる城壁である。」 
 まさに、棒漠たる大地に迷い込んだ、ということであったろうか。


 戦後になっては、何に拠るべを巡らせていたのだろうか、後に映画化される「拝啓天皇陛下様」などの拝啓シリーズを世に送り出していく。美作を題材にした小説「美作ノ国吉井川」(1971)も、ドラマ化される。後者の文中には、中国鉄道の列車の様子が温かな視線で、こう描いてある。
 「ビィーッという初めて聞く汽笛のかん高い音が、盆地の天と地を震わせ、皿山の山裾から五平太(石炭)の煙が勢いよく噴き上がり、汽車が姿を現在わしたのだった。ダンジリの囃子は、とっくにぴたっと止んでいた。」

(続く)

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◻️64の1の1『岡山の今昔』明治、大正時代の岡山市街

2019-12-21 22:20:02 | Weblog

64の1の1『岡山の今昔』明治、大正時代の岡山市街

 明治に入ると、岡山城下町は「岡山区」になりかわる。1889年(明治22年)6月には、岡山市となって、岡山県の中心にふさわしい位置づけられる。当時の市の面積は、5.77平方キロメートル、人口は4万7564人であったらしい。ちなみに、2019年現在の市の領域は、東西35.1キロメートル、南北は47.8キロメートルに拡大している。
 当時は、大まかには商業都市といってよいだろう。商店の数は、3487店あったというが、その大半は中小零細であった。
 続いての1891年(明治24年)には、山陽鉄道の三石~岡山市間が開通する。鉄路は、それまでの市街地よりもかなり北そして西へとずれることになっていく。現在でいうと、上町、中町それに下之町といったところか。
 このような市街地の広がりの中心となったのは、これまた商業であり、その象徴的な位置づけとされるのが、大規模店舗の出現であった。その代表格として語り継がれるのが「天満屋」であり、そもそもは、1829(文政12年)に、初代の伊原木茂兵衛が備前西大寺に「天満屋小間物店」を開く。その後の1896年(明治29年)には、呉服業にも進出して小売専業となる。
 商売のやり方も、正札販売といい、駆け引きにより値段を決めるのが当たり前の当時、「一厘もまけなし」の経営を打ち出す。1912年(大正元年)には、三代目当主の伊原木藻平が中之町(現在の北区表町一丁目)で支店を開く。1925(大正14年)には、下之町(現・北区表町二丁目)に本店舗を新築し、岡山初の百貨店へと発展していく。

 そればかりか、鉄道が船による人や物資の運搬になり代わり、主役を担うようになっていく。わけても、旭川に近い橋本町(現在の京橋町)は寂しくなっていく。
 そしての1910年(明治43年)には、岡山駅を起点にする、岡山電気軌道が創業し、1912年(大正45年)その名前の路面電車が開通となる。後日談だが、それ以来少しずつ路線を広げて現在の体制になるのは1968年(昭和43年)だ。これにより、岡山市の商業圏は南方面へも延びていく。


(続く)

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◻️192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大岡熊次郎)

2019-12-21 20:52:07 | Weblog

192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大岡熊次郎)

 大岡熊次郎(おおおかくまじろう、1842~1920)は、美作国勝南郡池ケ原村(現在の津山市池ケ原)の地方政治家にして、この地方での郷土史家の先駆けでもあった。家は、元は宇喜田氏家臣にして、岡家といい、代々庄屋を務める。幕末期に中庄屋、郷吏正待遇兼津山藩外交掛をつとめ、精力的に働く。
 明治時代になっての1870年(明治3年)には、庄屋制度が廃止となる。1871年(明治4年)に北条県が発足すると、郡中用達に任命され、北条県第十番会議所副戸長(1872)、1873年第二十区、二十一戸長(1873)から、北条県会議員(1874)と要職をこなしていく。1876年に岡山県に合併すると、第八番会議所戸長(1876)、勝南郡役所の郡書記(1879)などを渡り歩く。
 それに、1882年(明治15年)に結成された美作自由党の委員としても活動していたというから、驚きだ。これへの歩みについては、まずは1881年(明治14年)2月の美作同盟会の結成に加わる。また、同年3月の美作親睦会が開催された時には、発起人の一人として、こんな弁舌をしている。
 「広く一国の精神を集結して民権、即ち吾人の自由を振張するにあるなり。元来我美作の国たる土地僻遠に位し、目に文明の物を視る希れに
、耳に開化の事を聴少なきを以て、人知の開進も随って其遅々たるを免れずといえども、亦又交際の広からざると奮発心の足らざるに由(よ)るなきを得んや。」云々と、格調が高い。

 その間、1888年(明治21年)からは、大岡に改姓する。その後、実業界にも打って出る。勝北勝南両郡蚕糸業組合長、山陽蚕種製造合資会社社長取締役を務める。とにもかくにも養蚕については、自宅に養蚕伝習所を設置する程の熱心さであったらしい。また、勝南勝北農事会を設立し幹事長となるなど、こちらの方面も何かと忙しい。 

 それらにおいては、およそ誰かに命じられたものであろうか、それとも任意の仕事ということであろうか、このあたりの政治の変遷を記すのにも怠りなく、公文書関係の記録を数多く残していく。圧巻は、明治政府の1888年(明治21年)度予算の書き写しだという。
 このような政治向きのもの以外にも、文芸を含め各種資料を写したものから、自作の詩文をまとめて「随筆」と名付けたり、季節に関わる記事、植物期節などもまとめているとのことであり、これまた驚かされる。

(続く)

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