◻️3の2『岡山の今昔』旧石器・新石器・縄文・弥生時代の吉備社会の構造

2019-12-23 22:21:47 | Weblog

3の2『岡山の今昔』旧石器・新石器・縄文・弥生時代の吉備社会の構造

 そもそも、このあたりの生活の最初は、最終氷期が終わり、間氷期が始まった頃であろうか、一説には、約1万3000年BP(西暦にして今や世界暦2000年を基準、すなわち0(ゼロ)BP(Before  Present)とする表記。これは、考古学や地質学の用語で、2000年を「現在」とする年代測定の単位。放射性同位元素や地層などによる測定法をいい、「2000 years BP」のように略語のBPを後置するのが習わし)から始まったのではないかと見られているようだ。
 そのあたりを、旧石器時代(約1万5000年BP~約1万3000年BP)とそれ以降の新石器時代(地質学の文献に、この時代は取り上げられていない場合が見られる)及び縄文時代(約1万3000年BP~約3000年BP)との境界と考える向きもあろう。なお、北海道と沖縄では、縄文時代からの年代の定義が相当に異なることになっている。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、大まかに北(日本海側)からと西(瀬戸内海側)からの渡来ルートのうち、前者の道、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。
 ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされている。かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。

 やがての弥生時代(約3000年BP~1800BP、その後には古墳時代)の中期(紀元前400年位~紀元前後)にさしかかるまでは、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。

 それでは、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来にはいたっていない頃は、どのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
 このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、首長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はまだないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。


(続く)

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◻️211の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐々廉平)

2019-12-23 21:06:12 | Weblog

211の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐々廉平)

 佐々廉平 (さっされんぺい、1884 ~1979 )は、医師。津山市湯郷生まれ。  湯郷尋常小学校から勝間田高等小学校業に通う。その後は、津山中学校に入学する。ところが、その途中にして、「医者になれ」と父親に言われ退学だというから、驚きだ。 
 静岡県で開業していた親類の眼科医に寄宿し、医学を学ぶ。内務省の医術開業試験の前期試験に挑戦して、合格する。 後期試験は臨床の学科、実地があり、それも合格する。18歳だったという。けれども、医師開業免状は20歳にならないともらえず年が足りない。 
 そこで、今度は一高を経て東京帝国大学へと進む。内科教室(青山胤通教授)に入局し、内科医を目指す。秀才を認められていたのであろうか、 国費でミュンヘンとウィーンへ留学する。
 約2年半後に日本に帰国する。そして迎えた 1914年(大正3年)には、東京 神田の名門杏雲堂病院の心臓、腎臓、新陳代謝科の科長として迎えられる。 それからは、国内でも数少ない心臓、脳卒中、腎臓の専門医として名を馳せるかたわら、一般向けにも医学を啓蒙していく。
 そんな中でも、日本腎臓学会誌一巻一号に見える佐々77歳の時の記念講演においては、「ウィーン大学の内科臨床講義で心臓病、腎臓病、糖尿病などを勉強して帰ったが、生涯で一番腎臓病に親しみを持っておりました」と話す。

 その集大成であるかのように、「medicina」 1巻2号 (1964年5月)中の「佐々廉平氏に聞く」(発行は1964年)には、こうあるという。

 「臨床家の心がけなければならないことはまず懇切ていねいということですね。そのつぎには、日進月歩の進歩に遅れないようにすることです。それには本や雑誌を読むことが必要です。読んでわからんところは先輩に聞くとかして、不審なことをそのままにしておかないで、はっきりさせないといけません。
 不審なことは多いものですから、そのままにしておきますと、年中わからんということになります。ところが、いまは健保の診療ですから、数が相当ないとやってゆけない、したがって急ぐ、懇切ていねいにできない、また勉強する時間もないということになります。」
 と、なかなかに味わい深い言葉でもって、医学のみならず、他の道にも通じる案内人の役割を果たしているかのよう。


(続く)

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