◻️45『岡山の歴史と岡山人』幕末の攻防と封建体制の終焉(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

2019-12-18 10:04:39 | Weblog

45『岡山の歴史と岡山人』幕末の攻防と封建体制の終焉(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

 備前と備中そして美作の3藩は、幕府と新政府の間をさまよったものの、維新の最終段階では新政府に従った。これらのうち津山藩は、さきに将軍家斉の子斉民(なりたみ)を8代藩主として迎えた10年後の1827年(文政1年)、皮肉にも先代藩主の斉孝に慶倫(よしとも)が生まれた。そのため、斉民は隠居を余儀なくされ、家督は慶倫が継ぎ新しい藩主になった。これが契機となって藩内は分裂、斉民側は佐幕派、慶倫(よしとも)側は勤王派に分かれての抗争が始まった。
 津山藩主の松平慶倫は、1863年((文久3年)8月18日政変の後も長州藩への寛大な措置を求めた。とはいっても、それに先行して実施の陣夫役、そして政変後の長州征伐や鳥羽伏見の戦いにも幕府方として参戦した。

 ここで「陣夫役」とは、雇兵でもなければ、長州藩の奇兵隊の如き、当時の腐りきった世の中を突き崩すために志願しての兵でもない。具体的には、8月政変の5箇月前の3月、津山藩は摂津湊(せっつみなと、現在の兵庫県神戸市)の警備を請け負う、そのことで領地内の出役可能な18歳から60歳迄の男子の中から相当数を選んでこの賦役に動員した。出役者には、日程数に応じて一日当たり2升ずつの扶持米と若干の小遣いが支給されることになっていた。
 ところが、その扶持米支給は「大割入」(おおわりいり)といって、領主の出兵のための費用を、領内全体の農民の負担に割り振って拠出させるという、農民たちへはいわゆる「やらずぶったくり」のからくりなのだ。加えて、1868年(慶応4年)1月の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)時には、幕府の新たな命令を目して、領津山藩内で360人もの猟師を兵として動員する計画まで立てられていた。

 それによると、大庄屋たちに対し、彼らの管轄ごとの必要人員と集合場所まで指示していたという。そういうことだから、殿と大方の重役達は当時の時代の変化を観る目がまるでなかった酷評されても仕方がないのではないか。
 幕府の命に従っての津山藩の参戦は、しかし、惨めな失敗へと連なっていく。そのことごとくの敗戦後、備前の岡山藩などが新政府にとりなしてくれたのが効を奏したほか、勤王派の鞍縣寅次郎(くらかけとらじろう)らが奔走した。彼が公武合体と勤王両派の間をとりもって藩内を新政府に従うことにまとめたこともあって、かろうじて「朝敵の汚名」を免れることができた。もう片方の斉民は江戸にいて、鳥羽伏見で命からがら逃げ帰った将軍慶喜が江戸を退去する際、彼から田安慶頼(たやすよしのり)とともに徳川家門の後事を依頼された。
 また、同時期の岡山藩と備中松山藩の動静については、まず岡山藩が徐々に幕府から離れていった。もともと勤王色が濃かった岡山藩政が大きく勤王・倒幕側に傾いたのは、1868年(慶応4年)のことであった。これより先の1866年(慶応2年)師走に、一橋慶喜が15代目の将軍に就任した。その慶喜の実弟である岡山藩主池田茂政は、これにより微妙な位置に立たされたが、翌1867年(慶応3年)、西宮警備を命じられて家老以下約2150人が出役した。

 翌1868年(慶応4年)正月には、今度は朝廷側からの命令が下る。「朝敵」と見なされた備中松山藩の征討を命じられ、またも家老格の伊木若狭以下1千数百人が出役した。その内訳は、「本藩士および自分の手兵である勇戦・義戦・震雷の三隊」(谷口澄夫「岡山藩」、所収は児玉幸多、北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)であったという。これにあっては、「御紋御旗二流」をもらい、伊木の知行地の農民などで編成されていた震雷隊に威風堂々持たせていたのかどうなのか。
 この間に大きく世の中が動いたのを見抜いたのは、近隣の津山藩などと大きく違うところである。ちなみに、1867年に岡山藩が出した「惣触」には、こうある。
 「徳川家三百余年来の信義といい、ことに前内府公(慶喜)は兄弟の間柄にあるので、まことに心苦しい立場にあるが、今日にいたっては情○をすてられて、一途の勤王の思召ですでに人数を東西にくりだされ、近国諸藩の向背去就をさだめ、勤王の実効を正されることになった。ついては、大義を明らかにし、名分を正し、忠節を立てるように心得るべきである。」(前期、谷口澄夫による現代訳か)

 この年の旧暦正月15日、藩主の池田茂政は急遽隠居をして、徳川氏とゆかりのない鴨方支藩の池田章政が本藩の藩主となり、かねてよしみを通じていた長州藩との連絡をも密にし、倒幕の旗印を鮮明にするに至るのである。
 これに対し、備中松山藩は、家柄の重さが大いに関係した。この藩の元々は、1617年(元和3年)、因幡鳥取の池田長幸(いけだながよし)が6万5千石で入封した。ところが、1641年(寛永18年)にその子長常が死んで無継嗣・改易となり、翌年備中成羽(びっちゅうなりわ)の水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石を与えられて入封した。しかし、これも1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。ために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり除封された。

 その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄(いちくらかつすみ)が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして、7代藩主の板倉勝浄(いたくらかつきよ)が幕府老中に就任していたこともあり、結局は倒幕に抗する動きを示した。
 戊申戦争(ぼしんせんそう)においては、彼は奥羽越列藩同盟の公儀府総裁となって函館まで行って新政府軍に抵抗したものの、時流には逆らえず、1869年(明治2年)、明治政府によって禁固刑に処せられることになる。加えるに、鶴田藩(だづたはん)は、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で長州軍に所領を奪われた石見国浜田藩6万1千石の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら、水戸藩主徳川斉昭の子)が、翌1867年(慶応3年)に幕府から久米北條郡内で2万石を与えられて立藩していた。 

 このため、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いのおり、幕府側について敗れ、「お家存亡の危機」に立たされたが、家老尾関隼人の赦罪賜死での嘆願によってどうにか新政府側の許しを得たのであった。


(続く)

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◻️160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)

2019-12-18 08:57:58 | Weblog

160の5『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門)


 世にも有名な「赤穂浪士」のうちには、岡山出身の武士が幾人かいる。茅野和助(かやのわすけ、1702)、神崎与五郎(かんざきよごろう、~1702)、横川勘平(よこがわかんぺい、~1702)は、美作出身だ。まず茅野は、森家の断絶により失業し、浪人を経て元禄10年から浅野家に仕える。
 次の神崎も頑張り屋にちがいないが、いつの頃からだろうか、俳諧にも通じていた。江戸入りからは、前原伊助の営む米屋と合流、小豆屋善兵衛と名乗り雑穀を売る。その傍らで俳人としての世渡りをしつつ、情報を集めていた。
 さらに横川は、江戸詰めであったのだが、率先して盟約に加わる。江戸に入ると、これまた偵察で才能を開花させ、大高源吾とは別のルートて吉良方の茶会の日取りを聞き出す。
 それから、早水藤左衛門(はやみとうざえもん、1702)は、備前西大寺の出身だ。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)という。こちらは、備前国岡山藩の池田家家臣の家の生まれ。家督を兄が継いだため、赤穂藩の浅野家家臣、早水家の婿養子に入る。弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては達人の域に達していたという。和歌や絵画もたしなむ。
    主君の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内において刃傷事件を起こした時は江戸におり、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620キロメートル)を4日半で第一報を赤穂に伝えた。その後では、大石内蔵助に従い、ひたすらに進んだ、根っからの熱血漢なのではないか。
 参考までに、彼らが浅野家の家臣であった時の部屋住み、石数及び年齢は、こうであったという。茅野和助は、横目、5両3人扶持、37歳。神崎与五郎は、足軽徒目付・郡目付にして5両3人扶持(役料5石)、38歳。横川勘平は、徒目付、5両3人扶持、37歳。そして早水藤左衛門は、馬廻、150石にして40歳であったという(進士慶幹「赤穂藩」、所収は児玉幸多、北島正元編「物語藩史5」人物往来社、1965)。

 そんな彼らの思いを乗せつつも、時代は移っていく。思い起こせば、1701年(元禄14年)の浅野家改易(かいえき)、4月19日の赤穂城明け渡し後に、赤穂城に入ったのは、下野(しもつけ、現在の栃木県あたり)にいた永井直敬であった。9月には、それまでは江戸城の城郭内、呉服橋門内(現在の千代田区八重洲)にあった吉良(きら)屋敷が取り上げられ、本所松坂町(現在の墨田区両国三丁目)に移らされた。さらに、その翌年の1702年(元禄15年)12月14日には、浅野家旧臣たちによる吉良邸討入りが起こる。
 一方、赤穂においては永井氏が4年ほどで信濃に移る。その後の1706年(宝永3年)には、備中の西江原藩2代目藩主の森長直が2万石で入府する。その前までの5万3500石からは大きく後退するも、塩田の専売経営などで持ち直していく面もある。それから明治維新になるまで、13代165年に渡って赤穂城の城主は森氏が代々受け継いでいく。


(続く)

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◻️173『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鞍懸吉寅)

2019-12-18 08:20:07 | Weblog

173『岡山の今昔』岡山人(19世紀、鞍懸吉寅)

 鞍懸吉寅(くらかけよしとら、俗名は寅次郎、1834~1871)は、赤穂(あこう)の下級藩士、足軽の家に生まれた。長じては、儒学者の塩谷宕陰(しおのやとういん)や水戸藩の会沢正志斉らに学んだ。浪人するが、「富籤論」(とみくじろん)をあらわした。
 おりしも、赤穂藩の財政は逼迫し、保守派と革新派とが改革を巡りにらみ合いをしていた。24歳の若さにして、1857年(安政4年)に足軽の身分から勘定奉行に抜擢され、藩政改革に携わったものの、彼の登用を喜ばない保守派に活動を阻止され、追放の憂き目を見る。
 その後は、同藩に見切りをつけたものと見える。師匠の塩谷の推挙で津山藩領にて私塾を開き、人材育成に務めていた。
 ふとしたことから、旧縁のある津山へ来て、津山藩士の河井達左衛門を頼る。塾で、講義をするなどした。これを機縁に津山藩に出仕する道が開ける。7人扶持という。儒者として用いられることになった。就任直後の1864年(元治元年)夏には、津山藩領である小豆島(しょうどしま)である事件があった。
 この島には、イギリス軍艦が碇泊していた。これに商品を運ぶため小舟が近づくのを浜から島民が見物していた。この中の一人を、水兵が銃殺した。その水兵は、すぐさま船中へ逃げ込んだ。イギリス軍艦は、早々に去った。

 津山藩からその処理を命じられた鞍懸は、現地に赴き、この事件を詳細に調べた上で不当であるとし、幕府に訴え出た。しかし、幕府にイギリスを訴えようとする気はない。それでも、鞍掛は諦めなかった。働きかけを続け、1865年1月10日(元治元年12月13日)付けのイギリス公使の「賠償金をだすことは当然の義務と考えている」との書簡を引き出した。これに基づき、1867年に入ってようやくイギリスに賠償金の洋銀200枚を支払わせた。
 その後は、江戸屋敷に左遷されていたのが、呼び戻されたものの、藩政の要路からは外されていた。かれの「勤王」の立場が、「佐幕」(さばく)の念の強い藩の空気にそぐわなかったと見える。その後、しだいに実力を発揮するに至り、国事周旋掛となる。時の藩主は、9代松平慶倫(まつだいらよしとも、1827~1871)であり、蛤御門の変後、慶倫が幕府に提出した上言書には、鞍懸に攘夷の思想が反映されていた。その幕府からの長州追討の命に対しては、「征長延引に今一層尽力せられたい」という意見書をしたため、藩主に願い出ている。
 明治維新後の1869年には、一転して、小参事を経て権(ごんの)大参事に任命された。この時の辞令書は、知事が直接に渡したという。その後、民部省をもつとめる身の上(「民部省出仕」)となる。津山城下においては、1871年9月19日(明治4年8月5日)、津山県庁から士族および卒に対し、今後の処遇に関する通告があった。
 「海内一般郡県の制度になったので、県内の士族は追って文武の常識を解いて家禄を収め、「同一人民之族類」に帰するようになるから、その旨を心得て方向を定めるようにせよ。もっとも家禄を収めたうえは相応の米券を遣わし、生活の道がたつようにする。」(『布告控』:津山市史編纂委員会「津山市史」第五巻近世Ⅲ幕末維新、1974での現代語訳から引用) 
 1871年9月26日(明治4年8月12日)の夜、津山の椿高下の河瀬重男(友人)宅を出たところを短銃で狙撃され、翌日息を引き取った。犯人は逃げおおせたが、当時の城下士族のすさんだ空気がこの暗殺を呼び寄せたものと推察される。頭脳鋭敏な鞍懸としては、そんなこともあろうかと思っていたのかも知れぬが、かれを取り立ててくれた津山藩最後の藩主・慶倫の恩顧に報いようとする気もあって、わざわざ津山を訪れていたのかもしれない。

(続く)

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