◻️59の2『岡山の今昔』金融の発展(大正から昭和時代へ)

2019-12-17 11:08:51 | Weblog

59の1『岡山の今昔』金融の発展(大正から昭和時代へ)

 かえりみれば、1872年(明治5年)には、国立銀行条令が公布される。これにより、一般への預金と貸付から、為替、割引などの一般事務にとどまることなく、国立銀行券としての紙幣が発行できるようになる。
 そして、これを受けての国立銀行が全国的に設立されていく中、岡山においても設立の機運が高まっていく。
 1877年(明治10年)には、岡山市に第22銀行が、高梁に第86銀行が開設となる。
 一方、倉敷においては、それがなかなか進まなかった。そのため、1888年(明治21年)に設立の倉敷紡績などは、大阪などの遠隔地との取引においては、岡山に出たりして行う。

 続いての1914年(大正14年)、知事に就任した笠井伸一は、県下で乱立ぎみの銀行の合同を説く。これを契機に、倉敷銀行、茶屋町銀行、倉敷商業銀行、天満屋銀行、鴨方銀行、日笠銀行及び玉島銀行が話し合いにはいり、玉島銀行を除いた六銀行が合同を決め、1919年(大正8年)に第一合同銀行が岡山市で開業にいたる。

 続いての1923年(大正12年)には、北部の六つの銀行が合同しての作備銀行が津山町に設立されるも、その翌年には津山銀行と合わさって山陽銀行が設立される。

 1927年(昭和2年)には、銀行法が公布される。こちらは、預金者の保護や、銀行経営に最低限の資本金を確保させようたするものであった。銀行側としても、自己資本の積み増しは地盤強化のため某かの必要性を感じていたのではないか。

 おりしも同年4月には、全国大手としての鈴木商店の経営破綻や、台湾銀行の経営危機と、それらにつられての株式相場の暴落が起こる。4月22日になると、緊急勅令たる「金銭債務の支払延期および手形の保存行為の期間延長に関する件」が発布される。そしての3週間にわたっての支払猶予命(モラトリアム)が出された。

 この時には、大原孫三郎が取締役を務めていた近江銀行も休業に追い込まれ、追って整理されていく(1928年に昭和銀行に吸収合併される)、という慌ただしさてあった。

 それからだが、1929年(昭和4年)の世界大恐慌の年になると、日本経済そのものが深刻な不況になる中、倉敷紡績を始め県内企業の経営も厳しさを増した。倉敷紡績は日本興業銀行から緊急融資を受けたりしていく。県内の銀行も、1930年(昭和5年)12月には最大手の第一銀行と山陽銀行が合併し、中国銀行(本店は岡山市)となる。

(続く)

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