58の2『岡山の今昔』医療改革と県民
1870年(明治3年)末には、岡山藩は現在の岡山市中区門田屋敷に「岡山藩医学館大病院」を開く。それからは、1871年(明治4年)の廃藩置県をはじめ幾多の変遷を経ながら存続していく。1922(大正11年)には岡山医科大学となり、第二次世界大戦まで過ごす。第二次世界大戦後の学制改革で、岡山医科大学は岡山大学医学部に改組され、病院は医学部附属病院となり、その後歯学部も併設となる。
では、倉敷での近代医療の始めは、どんなであったのだろうか。倉敷総合病院は、当時の倉敷紡績の経営者である、大原孫三郎の肝いり、構想で創られ、1913年(大正10年)に開院した。彼が病院建設を決心したのは、主に、一万人近くなった従業員、特に「紡績職工」に十分な健康管理・診療を行うことであったろう。次なるは、大原の人権や未来社会に関する思想がうかがえる言葉であろうか。
「将来工場を社会化させるという意味もあり、殊に紡績職工といえば社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が職工を人として平等の人格を認めて待遇していることを示す一事実と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱いを為すことは、可成り意義あることであると信じます」(早川良夫「勤務管理十ヶ年」健文社、1944)
ほかにも、当時西日本一帯に流行したスペイン風邪に際し、地域医療が後手に回ったのを何とかしたかったからだという。
優秀な人材と最先端の施設・設備を整えた総合病院ということで、 その後、一般にも開放された。 それからは、1927年(昭和2年)に「倉敷中央病院」と改名、2013年(平成25年)からは公益財団法人となっている。
(続く)
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