181の2『世界の歴史と世界市民』マゼラン艦隊の世界一周(1519~1522)
2020.9.3のテレビ番組では、世界で様々な形で暮らしている「現地日本人」を取材し、その人を訪ねてインタビューする。その行程の途中の陸地から、かなり向こう、マゼラン海峡を見晴らす場面があり、観ていて感動した。
この海峡は、スペイン語では「マガヤネス海峡」と呼ぶという。 世界地図を広げると、南アメリカ大陸南端部、パタゴニア地方の一角に見つかる。そこは、南米大陸とその沖のフエゴ島(面積は約4万8000平方キロメートル)を分ける細長い海峡にして、水路で太平洋と大西洋を結ぶ。
思い起こせば、この海峡の東北に少し行った先の1980代のフォークランド紛争で、イギリスが南米大陸の東側現地(アルゼンチン南部の東沖にあるフォークランド(マルビナス)諸島において、英国空軍と「英雄的なゴムルカ兵」を先頭に仕掛けた相手が、アルゼンチンであったのは、まだ記憶に旧くない。
それでも、東の入口の北岸がアルゼンチン領であるほかは、水路並びに沿岸はチリに属するのだという。してみれば、全長は約 550キロメートル、幅たるや約3~30キロメートルというから、相当に入りくんでいるようだ。
しかして水路ということでは、浅いV字形に大きく屈曲している。東へは、ビルヘネス岬を経て大西洋へつながる。また、西半分は北西へ延びていき、デセアド岬を経て太平洋へとつながる。
それにしても、このような海峡名および航路名に自己の名前が刻まれる「栄誉」に浴している、マゼランの船団(軍備を兼ねているということでは艦隊と呼ぶべきか)は、どのようにしてその「偉業」を成し遂げたのだろうか。とっかかりの話として、同船員による次の話が、こう伝わる。
「(前略)ところで、当時のポルトガロ(ポルトガル)国王はドン・マヌエル幸運王(在位1495~1521)だったが、提督(マゼランのこと、引用者)がご奉公の報酬として月額わずか1テストーネだけ給金を増してくれるよう願い出たのにたいして、これを拒絶した。そのため提督はスパーニャ(スペイン)へ移ってしまった。
スパーニャ(スペイン)の皇帝陛下(カルロス1世、ローマ皇帝カール5世)はかれの求めるだけのものを与えられた。」(「ピガフェッタ著、長南実訳「最初の世界周航」岩波文庫より)
それでは、マゼランの艦隊は、どのような航路をたどり、またそこそこの立ち寄り地でどんな行動に至ったのだろうか、そのごく大まかな行程は次のようであった、と伝わる。
まずは、1519年8月に5隻にマゼランら237人が乗り込んで、スペインのセビリアを出帆した。掲げたのは、「モルッカ諸島到達計画」であった。いわゆる乗組員のほか、戦士や商人なども含めた大人数であったのは、想像に難くない。
12月には、現在のリオデジャネイロに到着する。それから南下し、ラフラタ川を上るも、川だとわかり、河口に引き返す。
さらに南下し、10月には、南米大陸とフェゴ島の間に海峡を見つける。海峡を西に向かい、太平洋に出る。
1521年3月、フィリピンのセブ島に到着する。現地のセブ王に対して、キリスト教への改宗を迫り、従わせる。スペインとの友好条約も結ばせ、「意気揚々」といったところであったろうか。
続いて、その東にあるマクタン島に上陸し、これまた改宗を迫るも、首長ブラプ(ラブラブとも)の逆襲にあい、マゼランは殺されてしまう。
彼の死後、残っていた3隻のうち1隻を捨て、一説には47名が乗船し、2隻で当初予定の航海を続ける。指導者なき艦隊は、ボルネオ島などに立ち寄っていく。
そして迎えた1521年11月、当初の目的地、モルッカ島のティドーレ島へ上陸し、現地の王に贈り物をし、代わりに香辛料を手に入れる。
1522年2月には、ビクトリア号に、戦いや事故、疫病などを生き延びた人々が乗って、アフリカ大陸の南端、喜望峰を西に越え、母国へ向かう。
そして同年9月、エルカーノ指揮下にて、18人を乗せたビクトリア号がスペインに帰還を果たす、都合約2年の、波乱に満ちた航海であった。
まずは、1519年8月に5隻にマゼランら237人が乗り込んで、スペインのセビリアを出帆した。掲げたのは、「モルッカ諸島到達計画」であった。いわゆる乗組員のほか、戦士や商人なども含めた大人数であったのは、想像に難くない。
12月には、現在のリオデジャネイロに到着する。それから南下し、ラフラタ川を上るも、川だとわかり、河口に引き返す。
さらに南下し、10月には、南米大陸とフェゴ島の間に海峡を見つける。海峡を西に向かい、太平洋に出る。
1521年3月、フィリピンのセブ島に到着する。現地のセブ王に対して、キリスト教への改宗を迫り、従わせる。スペインとの友好条約も結ばせ、「意気揚々」といったところであったろうか。
続いて、その東にあるマクタン島に上陸し、これまた改宗を迫るも、首長ブラプ(ラブラブとも)の逆襲にあい、マゼランは殺されてしまう。
彼の死後、残っていた3隻のうち1隻を捨て、一説には47名が乗船し、2隻で当初予定の航海を続ける。指導者なき艦隊は、ボルネオ島などに立ち寄っていく。
そして迎えた1521年11月、当初の目的地、モルッカ島のティドーレ島へ上陸し、現地の王に贈り物をし、代わりに香辛料を手に入れる。
1522年2月には、ビクトリア号に、戦いや事故、疫病などを生き延びた人々が乗って、アフリカ大陸の南端、喜望峰を西に越え、母国へ向かう。
そして同年9月、エルカーノ指揮下にて、18人を乗せたビクトリア号がスペインに帰還を果たす、都合約2年の、波乱に満ちた航海であった。
このような世界一周の新航路の発見と相まって、以降、スペインの海外進出はますます勢いを増していく。とりわけ、メキシコからペルー、そしてチリ、それから太平洋に出て西インド諸島、フィリピンなどをつぎに植民地化し、ポルトガルをしのいで世界の強国となる。
艦隊を整え、その覇権を軍事的に維持するとともに、商船隊により、鉱産物のほか、新しい産物として馬鈴薯、トマト、トウモロコシといった作物とともに、唐辛子やオールスパイスなどの広い意味での食料を、本国並びにヨーロッパにもたらす。
(続く)
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