139『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達、総論、農業、座、市、移動販売)
室町時代に入ってからの政治状況では、全般に「14世紀末から15世紀にかけて、諸国の守護はほぼ特定の大名に固定してくる。」(網野善彦「日本の歴史・下」岩波新書)。
このことは、「この時代(鎌倉時代)から南北朝時代、室町時代を通じて荘園は武家によってしだいに併呑せられ、貴族は実勢力の小さい一小階級として残存したにすぎなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。
この間に武家相互のあいだにしばしば戦争が行われ、さまざまな場所で弱小なものが強大なものによってしだいに併呑されていく過程で、地方の権力が確立されてゆき、中央の幕府権力は名目だけのものとなっていったことが窺える。
それでは、室町の幕府を初めとした諸権力を支える下部構造、経済はどのようであったのだろうか。
農業面では、鎌倉期の二毛作が普及していく。さらに室町時代に入ると、三毛作で米、麦、そばの栽培開始があり、次に紹介するのは、摂津国尼崎で、稲、ソバ、麦の三毛作が行われていたことを示す史料となっている。
「阿麻沙只村(あまさきむら)に宿して日本を詠ふ。
日本の農家は、秋に田を耕して大小麦を種き、明年初夏に大小麦を刈りて苗種を種き、秋初に稲を刈りて木麦(ソバ)を種き、冬初に木麦を刈りて大小麦を種き、一田に一年三たび種く。
乃(すなわ)ち川塞がれば則(すなわ)ち田となし、川決すれば則ち田となす。
水村山かくに火えん斜なり。役なく人閑かにて異事多。耕地一年三たび穀を刈る。若(も)し仁義(じんぎ)を知らばまた誇るに堪えん。」(宗希けい「老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)」、この書物を書いた宗は、朝鮮回礼使として1420年に来日し、足利義持に謁見して、朝鮮に戻り、道中見聞きしたことを記した。)。
室町時代に入ってからの政治状況では、全般に「14世紀末から15世紀にかけて、諸国の守護はほぼ特定の大名に固定してくる。」(網野善彦「日本の歴史・下」岩波新書)。
このことは、「この時代(鎌倉時代)から南北朝時代、室町時代を通じて荘園は武家によってしだいに併呑せられ、貴族は実勢力の小さい一小階級として残存したにすぎなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。
この間に武家相互のあいだにしばしば戦争が行われ、さまざまな場所で弱小なものが強大なものによってしだいに併呑されていく過程で、地方の権力が確立されてゆき、中央の幕府権力は名目だけのものとなっていったことが窺える。
それでは、室町の幕府を初めとした諸権力を支える下部構造、経済はどのようであったのだろうか。
農業面では、鎌倉期の二毛作が普及していく。さらに室町時代に入ると、三毛作で米、麦、そばの栽培開始があり、次に紹介するのは、摂津国尼崎で、稲、ソバ、麦の三毛作が行われていたことを示す史料となっている。
「阿麻沙只村(あまさきむら)に宿して日本を詠ふ。
日本の農家は、秋に田を耕して大小麦を種き、明年初夏に大小麦を刈りて苗種を種き、秋初に稲を刈りて木麦(ソバ)を種き、冬初に木麦を刈りて大小麦を種き、一田に一年三たび種く。
乃(すなわ)ち川塞がれば則(すなわ)ち田となし、川決すれば則ち田となす。
水村山かくに火えん斜なり。役なく人閑かにて異事多。耕地一年三たび穀を刈る。若(も)し仁義(じんぎ)を知らばまた誇るに堪えん。」(宗希けい「老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)」、この書物を書いた宗は、朝鮮回礼使として1420年に来日し、足利義持に謁見して、朝鮮に戻り、道中見聞きしたことを記した。)。
そのおりには、従来からの肥料に代わって下肥の使用が開始された。灌漑も、戦国大名たちの地方制覇に従って、ますます組織的に行われるようになっていく。稲の品種改良として、早稲、中稲、晩稲の栽培が見られる。
一部には、外来米の普及もあったらしい。どの栽培がさらに発展していく。殊に冬作に、豆作が普及していく。食料以外も、生糸や「からむし」と呼ばれる衣服の原料、染料そして荏胡麻(えごま)といったところか。
一部には、外来米の普及もあったらしい。どの栽培がさらに発展していく。殊に冬作に、豆作が普及していく。食料以外も、生糸や「からむし」と呼ばれる衣服の原料、染料そして荏胡麻(えごま)といったところか。
☆☆☆
これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。
畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
やがて室町期になると、座が本格的な発展の時期を迎える。その代表例としては、祇園社の綿座、北野社の酒麹座、大山離宮八幡宮の油座などが名を馳せる。
そんな中でも、台頭著しい、新たな動きがあった。1397年に世に出た「座の特権」を記した文書に、「離宮八幡宮文書」があり、それには、こうある。
「石清水八幡宮大山崎神人(いわしみずはちまんぐうおおやまざきじにん)等、公事(くじ)并びに土倉役の事、免除せらるる所なり。
将又(はたまた)摂州道祖小路(さいこうじ)・天王寺・木村・住吉・遠里小野(おりおの、現在の大阪市住吉区、大阪府堺市)并びに江州(ごうしゅう、近江国、現在の滋賀県辺り)の小秋散在(こあきさんざい)土民等、悉(ほしいまま)に荏胡麻(えごま)を売買せしむと云々。
向後(きょうご)は彼の油器を破却すべきの由、仰せ下さるる所なり。仍(よ)って下知(げち)件(くだん)の如し。 応永四年(139年7)五月廿六日
沙弥(しゃみ、管領、斯波義将(しばよしまさ))(花押)」(「離宮八幡宮文書」)
この史料によると、これに挙げられている新興の油商人たちが、独自の行動をとり、鎌倉時代からの取り決めなりをもってしては、もはや各地の油商人に対する統制がきかなくなってしまっていることがわかるだろう。
これからいうと、公家や寺社を本所(ほんじょ)と仰いで、彼らに労役や年貢(一種の営業税か(座役))を納入し、庇護を求め、商売の向きは独占的な特権を手にすることでの仕入れ、販売を行うことで収益拡大を目指した。
大山崎油座(もしくは、荏胡麻油座ともいう、石清水八幡宮を本所とする)、酒麹座(北野神社を本所と仰ぐ)、綿座(祇園社を本所に戴く)といった、より大規模な座が繁盛の時を迎える。
これらの民間の座に、公家を本所とする座、寺社の経営する座を加えると、あわせて数十もの座のあったことが史料にみうけられる。同様に奈良の地でも、寺社を中心にその展開が見られる。
この組合は、はじめは商工業者の活動を促進する方向に展開したが、商品経済の発達につれ、やがてその閉鎖的なあり方が桎梏(しっこく)と化していく。やがて公家や寺社の統制力が失われてくると、かような性格を持つ座に加わらない新興商人たちの台頭を食い止めることができなくなってゆく。
高梁正彦氏も、こう説明しておられる。
「生糸は公家、寺社、武家などの支配者階級の要求によって生産され流通した。遠隔地から年貢米の京上が困難な時は生糸が代わって大都市へ納入された。十四世紀末には京都に綾座、錦座などが成立している。○(からむし)は当時の庶民から支配者階級までの日常衣服の原料である。全国的に生産されていたが、特に越後産が優れていた。京都、奈良
には十五世紀に白布座、布座が成立して商品経済化が進んだ。
荏胡麻は灯油の原料で、前述の通り、離宮八幡宮の神人らが取り扱ったことで有名であるが、奈良では興福寺の大乗院を本所とする符坂油座があって、吉野地方生産の原料を独占して大和国中での油の専売権を強めていった。染料には茜、藍、紫などがある。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育課程教材、1968)
この時代には、流通もさらに発展した。定期市として六齋市が立つようになっていく。鎌倉期の月に三度の市開催であったのが室町の世になると六度の開催に増えたわけだ。京都では、「淀の朝市」や「三条・七条の米市」が繁盛した。地方での市はこの時代、さらに発展していった。さらに、鎌倉期に続いて、小売業の増加も見られた。例えば、鎌倉期からの「桂女(かつらめ)」による売り歩きについては、次のように言われる。
「戦国期に入る頃から、桂女は「勝浦女」「勝浦」と書かれるようになる。摂津の石山本願寺の証如のもとには、天文五年(1536)以降、連年、都市の始めに「佳例の鮒」「鰹一編・樽一荷」を持参して、「勝浦女」が訪れ、証如から毎年の祝儀・小袖などを与えられた(『証如上人日記』)。
桂女はときには七月にも姿を見せ、小袖や鮎鮨を持参しており、そこには、かつての鵜飼の女性、鮎売の女商人の面影をうかがうことができるが、注目すべきは、天文五年正月一〇日に来た桂女が「和睦珍重」としてさきの鰹を持参しており、天文一二年(一五四三)には、「誕生の儀につき」として、昆布を持ってきている点である。」(「網野善彦著作集」第十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)
(続く)
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畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
やがて室町期になると、座が本格的な発展の時期を迎える。その代表例としては、祇園社の綿座、北野社の酒麹座、大山離宮八幡宮の油座などが名を馳せる。
そんな中でも、台頭著しい、新たな動きがあった。1397年に世に出た「座の特権」を記した文書に、「離宮八幡宮文書」があり、それには、こうある。
「石清水八幡宮大山崎神人(いわしみずはちまんぐうおおやまざきじにん)等、公事(くじ)并びに土倉役の事、免除せらるる所なり。
将又(はたまた)摂州道祖小路(さいこうじ)・天王寺・木村・住吉・遠里小野(おりおの、現在の大阪市住吉区、大阪府堺市)并びに江州(ごうしゅう、近江国、現在の滋賀県辺り)の小秋散在(こあきさんざい)土民等、悉(ほしいまま)に荏胡麻(えごま)を売買せしむと云々。
向後(きょうご)は彼の油器を破却すべきの由、仰せ下さるる所なり。仍(よ)って下知(げち)件(くだん)の如し。 応永四年(139年7)五月廿六日
沙弥(しゃみ、管領、斯波義将(しばよしまさ))(花押)」(「離宮八幡宮文書」)
この史料によると、これに挙げられている新興の油商人たちが、独自の行動をとり、鎌倉時代からの取り決めなりをもってしては、もはや各地の油商人に対する統制がきかなくなってしまっていることがわかるだろう。
これからいうと、公家や寺社を本所(ほんじょ)と仰いで、彼らに労役や年貢(一種の営業税か(座役))を納入し、庇護を求め、商売の向きは独占的な特権を手にすることでの仕入れ、販売を行うことで収益拡大を目指した。
大山崎油座(もしくは、荏胡麻油座ともいう、石清水八幡宮を本所とする)、酒麹座(北野神社を本所と仰ぐ)、綿座(祇園社を本所に戴く)といった、より大規模な座が繁盛の時を迎える。
これらの民間の座に、公家を本所とする座、寺社の経営する座を加えると、あわせて数十もの座のあったことが史料にみうけられる。同様に奈良の地でも、寺社を中心にその展開が見られる。
この組合は、はじめは商工業者の活動を促進する方向に展開したが、商品経済の発達につれ、やがてその閉鎖的なあり方が桎梏(しっこく)と化していく。やがて公家や寺社の統制力が失われてくると、かような性格を持つ座に加わらない新興商人たちの台頭を食い止めることができなくなってゆく。
高梁正彦氏も、こう説明しておられる。
「生糸は公家、寺社、武家などの支配者階級の要求によって生産され流通した。遠隔地から年貢米の京上が困難な時は生糸が代わって大都市へ納入された。十四世紀末には京都に綾座、錦座などが成立している。○(からむし)は当時の庶民から支配者階級までの日常衣服の原料である。全国的に生産されていたが、特に越後産が優れていた。京都、奈良
には十五世紀に白布座、布座が成立して商品経済化が進んだ。
荏胡麻は灯油の原料で、前述の通り、離宮八幡宮の神人らが取り扱ったことで有名であるが、奈良では興福寺の大乗院を本所とする符坂油座があって、吉野地方生産の原料を独占して大和国中での油の専売権を強めていった。染料には茜、藍、紫などがある。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育課程教材、1968)
この時代には、流通もさらに発展した。定期市として六齋市が立つようになっていく。鎌倉期の月に三度の市開催であったのが室町の世になると六度の開催に増えたわけだ。京都では、「淀の朝市」や「三条・七条の米市」が繁盛した。地方での市はこの時代、さらに発展していった。さらに、鎌倉期に続いて、小売業の増加も見られた。例えば、鎌倉期からの「桂女(かつらめ)」による売り歩きについては、次のように言われる。
「戦国期に入る頃から、桂女は「勝浦女」「勝浦」と書かれるようになる。摂津の石山本願寺の証如のもとには、天文五年(1536)以降、連年、都市の始めに「佳例の鮒」「鰹一編・樽一荷」を持参して、「勝浦女」が訪れ、証如から毎年の祝儀・小袖などを与えられた(『証如上人日記』)。
桂女はときには七月にも姿を見せ、小袖や鮎鮨を持参しており、そこには、かつての鵜飼の女性、鮎売の女商人の面影をうかがうことができるが、注目すべきは、天文五年正月一〇日に来た桂女が「和睦珍重」としてさきの鰹を持参しており、天文一二年(一五四三)には、「誕生の儀につき」として、昆布を持ってきている点である。」(「網野善彦著作集」第十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)
(続く)
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