171の1『自然と人間の歴史・日本篇』山崎の戦い(1582)、清洲会議(1582)、賤ヶ岳の戦い(1583)、小牧長久手の戦い(1584)
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年7月1日(天正10年6月2日)の本能寺の変を受け、7月12日(6月13日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町にある、大山崎IC一帯をいう)で、明智光秀の軍と羽柴秀吉を中心とする軍とが対峙する。
秀吉の軍は、織田軍最大の規模であり、中国地方の毛利の勢力と対峙していたのを、信長の落命を知り、「中国大返し」の迅速移動をして、当地に来ていた。
戦闘は、午後に始まり、人数に勝る秀吉軍が優勢に推移するうちに、光秀が陣を退き坂本城に立ち返って態勢を整えようとするも、秀吉軍が追撃する。光秀はその途中の山中にて、落武者狩りにかかり命を落とす。
秀吉軍が勝った理由としては、ほかにも、現地を見下ろす天王山を先取したのもさる事ながら、光秀側の事前の多数派工作が上手くいかなかった。
それらのことには、光秀が本能寺の変を十分な準備なしに挙兵したのと、大いなる関係があろう。それに、「下剋上(げこくじょう)」により主君を討つのなら、それなりの大義名分のいる世の移り変わりがあったのではないだろうか、さらに信長の死体を味方へと頼む諸将に見せられなかったこともあろう。
さて、光秀討伐後の、世にいう『清洲会議』では、信長親子の跡目相続が議論された。信長の子供のうち男子は10人以上いて、勢力でいうと、二男の織田信雄(おだのぶかつ)、三男の織田信孝(おだのぶたか)と、四男の羽柴秀勝であった。彼らのうち信孝は山崎の戦いで名目とはいうもの総大将をつとめ、本人もやる気満々であった。だがしかし、秀吉の方が何枚も上手だった。結局、死んだ長男の信忠の長男である三法師(さんぼうし)が後継者となり、近江国の坂田郡に3万石をもらう。
そうはいっても、幼い三法師が成人になるまでの間は信雄と信孝が共同の後見人となり、もり役には掘秀政、執権には織田家筆頭の家臣としての柴田勝家に、羽柴秀吉と池田恒興(いけだつねおき)が補佐する。また、信雄は尾張と伊勢、信孝は美濃、秀勝は光秀の旧領である丹波(たんば)を相続する。さらに、秀吉に河内と山城に新たな所領が与えられるなど、家臣団の満面にも各々某かの所領が与えられる。
と、まずは相当幅な財産分けを含めての裁定があったのだが、会議後にはさっそく不一致やら反目なりが顕在化していく。中でも、会議の決定を受けて、三法師は安土城に移る予定であった。だが、信孝は幼い彼を自身の岐阜城に留め置き、掘秀政と丹羽長英(にわながひで)、池田恒興を懐柔して織田家の実権を握った秀吉に対抗して、柴田勝家と連携するようになる。
秀吉も負けてはいない、秀吉はそれならと清洲会議の決議を守らない信孝を、同会議の決定事項を守らない謀反をたくらんでいるとして、三法師に代えて信雄に織田家の家督を継がせる。
そうはいっても、幼い三法師が成人になるまでの間は信雄と信孝が共同の後見人となり、もり役には掘秀政、執権には織田家筆頭の家臣としての柴田勝家に、羽柴秀吉と池田恒興(いけだつねおき)が補佐する。また、信雄は尾張と伊勢、信孝は美濃、秀勝は光秀の旧領である丹波(たんば)を相続する。さらに、秀吉に河内と山城に新たな所領が与えられるなど、家臣団の満面にも各々某かの所領が与えられる。
と、まずは相当幅な財産分けを含めての裁定があったのだが、会議後にはさっそく不一致やら反目なりが顕在化していく。中でも、会議の決定を受けて、三法師は安土城に移る予定であった。だが、信孝は幼い彼を自身の岐阜城に留め置き、掘秀政と丹羽長英(にわながひで)、池田恒興を懐柔して織田家の実権を握った秀吉に対抗して、柴田勝家と連携するようになる。
秀吉も負けてはいない、秀吉はそれならと清洲会議の決議を守らない信孝を、同会議の決定事項を守らない謀反をたくらんでいるとして、三法師に代えて信雄に織田家の家督を継がせる。
収まらないのは信孝で、それからの信孝は、先の会議で羽柴秀吉の案に反対していた柴田勝家と語らい、秀吉と対立し、1583年(天正11年)には「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけは、現在の滋賀県長浜市にある)が勃発する。その結果は、双方にらみ合いの中、先に軍勢を動かした勝家らの軍が、隙と見せかけて引き返してきた秀吉の主力軍に打ち負かされる。
秀吉は、この戦いに勝利したことで、織田信長の後継者の最有力候補にのし上がる。さらに、秀吉には次の筋書きがあり、コンドは信雄を安土城から追放する。
そこで信雄は、徳川家康に訴えて同盟を結ぶ作戦に出る。徳川家康は、「反秀吉派」を集める。家康という強敵の出現に、これに負けじと秀吉は、信雄を排除するために、信雄の三家老の津川義冬、岡田重孝、浅井長時()田宮丸)を懐柔するのだが、これを知った信雄は、「羽柴秀吉派」へと翻った三家老を処刑してしまう。
怒った秀吉は、信雄とその後ろ楯の家康に対抗し、家康も受けて立つことで、1584年3月に小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いが起こる。
この戦いは、東西の両雄の戦いにて、戦場となったエリア(小牧山(現在の愛知県小牧市)には、織田信長が1563年(永禄6年)に築城した「小牧山城」があった。また長久手古戦場は現在の愛知県長久手市)がかなり広く、両軍が多くの陣や砦を構築した。家康の本陣は小牧にいて、また秀吉軍の本隊は始めは到着しておらず、甥の秀次が率いる別動隊とが対峙していたという。
ところが、途中で、秀吉軍の「深追い」を徳川軍が叩く形にて長久手でやや大きな戦闘があったとか。その戦況について歴代のテレビなどでは、野戦が得意の徳川方への肩入れが顕著なようなのだが、ちなみに、山本博文氏は、こんな見方をしておられる。
「掘秀政は、榊原隊を追撃していましたが、家康の金扇の馬印を見て、兵を撤収し、秀次の警護のため戦列を離れます。そして、秀次の救済要請に応えて岩崎城を出て長久手方面に引き返してきた池田恒興、森長可らの軍と家康本隊が長久手で衝突し、恒興父子と長可が討死(うちじに)するわけです。
この両人が討死しているので、全体が家康の勝利のように見えますが、勝利は紙一重のもので、家康とすれば秀吉本隊と戦うことになれば敗北必至というものでした。」(山本博文「日曜日の歴史学」東京堂出版、2011)
この両人が討死しているので、全体が家康の勝利のように見えますが、勝利は紙一重のもので、家康とすれば秀吉本隊と戦うことになれば敗北必至というものでした。」(山本博文「日曜日の歴史学」東京堂出版、2011)
その後の大方は、互いを見合う状態が続くうちに迎えた11月、双方が陣を引く。その訳とは、秀吉は蒲生氏郷(がもううじさと)に信雄の本拠である伊賀・伊勢方面を攻めさせる、そして領地の大半を占拠させ、臆した信雄と秀吉は単独で講和を結んでしまう。
これは、双方にとって、なかなかに「賢明であった」と解釈できるのではないだろうか。というのは、秀吉としては味方の結束に不安があり迂闊に決戦に持ち込めないし、政治的にはもう織田家の跡目を継いだことになり、相手が「痛み分け」で降りてくれるならそれに越したことはない。家康としても、もうこれで信長との連合相手として大義名分が立った訳で、互いににらみ合っての消耗戦で本領がおろそかになるのは避けたかったのではないか。
これは、双方にとって、なかなかに「賢明であった」と解釈できるのではないだろうか。というのは、秀吉としては味方の結束に不安があり迂闊に決戦に持ち込めないし、政治的にはもう織田家の跡目を継いだことになり、相手が「痛み分け」で降りてくれるならそれに越したことはない。家康としても、もうこれで信長との連合相手として大義名分が立った訳で、互いににらみ合っての消耗戦で本領がおろそかになるのは避けたかったのではないか。
(続く)
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