○169『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺

2020-09-14 22:01:58 | Weblog
169『自然と人間の歴史・日本篇』「自由都市」堺


 現在の堺市は、かなり広い範囲をしめ、臨海部に工業地帯を抱える。そもそも北西部は、小さな海辺の集落に過ぎなかったという。後背地としては、和泉(いづみ)、河内(かわち)があり、長尾と竹内の両街道で大和盆地(やまとぼんち)と繋がる。

 遡ること南北朝内乱期には、軍事物資の集散地として名前を馳せる。1467年に勃発の応仁の乱においては、瀬戸内海の航行と兵庫津は大内政弘の勢力下に入る。ついては、これを避けるべく、対明貿易船は、四国の南を迂回して堺に発着する海路を開いたという。そのことで堺は、兵庫津に代る貿易船の発着地として、栄える。

 勢い、勘合貿易の利益の某かが堺にもたらされていく。日本有数の商人町へと成長を始める。当時の「南蛮船」は、九州の平戸(ひらど)や長崎に来航したため、堺の商人は船団を組んで九州よりの輸送を担う。そういえば、対馬氏からの鉄砲に関する人や技術の一端も、このルートで堺に運ばれていったのではないだろうか。

 1419年(応永26年)までには、「納屋貸十人衆」と呼ばれる富裕な商人が合議をなしての自治を始める、16世紀になると、「会合衆(えごうしゅう)三六人衆」として力を振るう、かかる強力な自治組織と環濠を備え、雇われ武士が治安を担う自衛都市、堺がだんだんに出来上がっていく。


 ちなみに、16世紀中頃に堺を訪れていたのだろうか、ポルトガル人宣教師のガスパル・ビレラは、こう書き送っている。

 「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる。」(1561年(永禄4)年8月17日付け、「耶蘇会士日本通信」所収の、インドのイエズス会修道士ら宛のガスパル・ビレラによる書簡)
 「日本全国当堺の町より安全なる所なく、他の諸国に於て動乱あるも、此町には嘗て無く、敗者も勝者も、此町に来住すれば皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加ふる者なし。市街に於ては嘗て紛擾起ることなく、敵味方の差別なく皆大なる愛情と礼儀を以て応対せり。」(1562年(永禄5年)付け、「耶蘇会士日本通信」所収の同書簡)


 しかしながら、彼らの栄華には、やがて陰りが射してくる、やがて、信長がその力を伸ばしてくるのに対し、抵抗する堺という構図となっていく。
 それというのも、かねてから頼みの綱とした「三好三人衆が、1568年(永禄11年)、信長との戦いに破れ四国に敗走したため、状況が大きく変わる。ちなみに、「続応仁記」には、こうある。

 「扨又畿内繁昌の地、在々所々寺社等迄、公方家再興の御軍用、今度大切の御事なれば、各々金銀を差上げ然る可き由相触れられける程に、皆人是を献上す。中にも大坂本願寺は一向宗門の惣本寺大富裕なれば迚、五千貫を課せられしに、住持光佐上人難渋に及ばず五千貫を献上す。

 信長此金銀を上納させて諸軍勢の兵粮軍用、且又公方家御在京御官位等の御入用に、各是を相行はる。寔に余儀なき政道也。扨泉州ノ堺津ハ大富有ノ商家共集居タル所ナレバ、三万貫ヲ差上グベキ事子細有ラジト申付ラル。

 然ル処堺ノ津ハ皆三好家ノ味方ニテ庄官三十六人ノ長者共、中々御請申スコトナク、同心セザルノ由ヲ申ス。然ラバ早速ニ堺ノ津ヲ攻破ラント有ケレバ、三十六人ノ者ドモ弥以テ怒ヲ含ミ、能登屋、臙脂屋ノ両庄官ヲ大将トシ堺津一庄ノ諸人多勢一味シ、溢レ者諸浪人等相集テ、北口ニ菱ヲ蒔キ堀ヲ深クシ、櫓ヲ揚ゲ専ラ合戦ノ用意シテ信長勢ヲ防ガントス。

 信長是を聞て何とか思案致されけん。今度公方家の御共して、和泉・河内・摂津・山城四箇国、不日に退治して京都へ凱旋有べき事、武功天下に隠れ無し。堺の庄の町人共をば只其まゝに左置べしとて、更に取かけ攻伐の事無く、 和州は未だ帰服せず。松永父子に加勢して連々和州を退治すべしと、隠便に沙汰せらる。」(「続応仁記」、著者は不明)

 そして迎えた1569年(永禄12年)に、堺はついに「万策尽きる」形であったろうか、織田信長の軍門に降る、すなわち信長は堺を支配下に収める。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆