♦️180の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペイン、1096~1489)

2020-09-11 22:46:50 | Weblog
180の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペイン、1096~1489)


 かたやカスティーリャ王国は、14世紀中頃、サラードの戦いに勝利して、半島よりマリーン朝を追い出す。イスラム勢力のナスル朝を孤立化させていく。1469年には、もうひとつのキリスト教勢力である、バルセロナを拠点とし、ナポリにも進出していたアラゴン王国の王子との組み合わせにて、カスティーリャ王女の結婚に漕ぎ着ける。


 これを機に、その後両王の即位で1479年、同君連合が成立して、スペイン(イスパニア)王国が誕生する。1482年には、ナスル朝への攻撃を再開する。やがての1492年には、グラナダの無血開城に成功し、およそ250年続いたイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝を滅ぼして、キリスト教国家のレコンキスタ(再征服運動)を果たす。

 それからは、国家統一の実をあげるべく、王権の教科書に突き進んでいく。ますは、宗教的に、地域のおいて色々あるの問題視し、一体性を目指し統制を強めていく。大胆にも、王国の高位聖職者推挙権を国王の手中におさめる。これにより、各地の司教たちは、国王に従属するほかなるよう仕向けていく。あわせて、三大宗教騎士団を王権の管轄下に組み入れるとともに、修道院改革を行う。

 それら以外にも、とりわけユダヤ教からの改宗を詮索し、「隠ユダヤ教徒」の取り締まりでは、死刑を多用しての恐怖政治を行う。その中には、「学問論」などで知られるエラスムスなどの文化人も含まれていた。

 宗教以外にも、統治機構の整備への努力は多方面に及んだものの、成果には結びつきにくい。アラゴン、カタルーニャ、バレンシアにはそれぞれ統治契約主義の伝統がある中では、都市参事官の選出に「くじ引き」が取り入れられるなどの小規模改革に留まる。

 また、官僚機構を整えて貴族勢力を押さえようとすると、有力貴族たちは、議決権のない国王諮問会議に徐々に参加しなくなっていく。それでも、1480年のトレードのコルテス(王国議会)では、王室財政の強化の一環として、1464年以降に国王が与えた「恩寵」を取り消し、それらでの世襲年金や租税徴収権、王領地などでの国家の権益を強めたり、取り戻していく。

(続く)

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♦️180の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(ポルトガル、1096~1489)

2020-09-11 10:07:02 | Weblog
180の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(ポルトガル、1096~1489)

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、イスラム勢力との戦いで勲功があったということで、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュ(アンリ・ド・ブルゴーニュとも)に、伯爵の称号と共に土地を与える。そこはドウロ川の流域で、ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスと呼ばれていた。

 その息子・アルフォンソ・エンリケスは、 ポルトガル王国を建国し、 アフォンソ1世と号する。その後、サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取し、ここを首都に定める。

 13世紀後半、ポルトガルの王位に継承問題が発生し、カスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する戦いで勝利を得て、ポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのが、好奇心旺盛なジョアン1世であった。1409年、ヤコブス・アンゲリクスにがプトレマイオスの著「地理学」をラテン語に訳出する。1411年、カスティーリャ王国とポルトガル王国との間で和議が成立した。

 1415年から、ジョアン1世は大いなる富を得ようと海外進出を始めた。ジョアン1世(~1433)の息子のエンリケ航海王子(1394~1460)やコインブラ公ペドロも、モロッコ遠征に同行し。ポルトガル軍は、北西アフリカのセウタ(モロッコの港町、物資集散の要衝の地ではなかったものの)を攻略する。

 ここにエンリケについては、「航海王子」の通称で呼ばれる。探検家であるとともに、ポルトガル内外の他の競争者とともに、ポルトガルを海洋王国へと引き上げていく先駆的役割を担う。ポルトガル南端のサン・ヴィンセント岬を根拠地にして、船団を組んではアフリカ遠征の探検隊を送り込む。
 当時の地理学では、まだインド洋と大西洋とはつながっておらず、アフリカ西海岸のポハドル岬あたりが大西洋の南の果てと考えられていたという。その意図するところとしては、王権の拡大やアフリカ奥地の金銀のみか、一説にはイスラム勢力の挟撃もなどが目当てとなっていたという。
 エンリケは1460年に「大いなる探検の成果と借財」を残して死ぬが、その後も、ポルトガルはその海洋熱を持続し、1492年には世界で最初の地球儀を作成するのを含め、強大な海軍国となっていく。

 とはいえ、当時のスペイン朝廷を動かしていたのは新興ブルジョアジー(ブルジョワジー)というよりも、一説には「ブルジョワジーの利害は後者にあったが、80年ころまで遠征事業の重心は、土地貴族の利害を強く反映して、モロッコにおける軍拡路線にあった」(合田昌史「ポルトガルの歴史的歩み」、立石博高編「スペイン・ポルトガル史」山川出版社、2000)という。

 それからだが、ジョアン1世から王位を継承したのはドゥアルテ1世だったのだが、その5年後に死ぬ。後を継いだのは、6歳のアフォンソ5世だった。コインブラ公ペドロが幼王の摂政として選ばれた。ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。摂政としてのペドロは、エンリケ航海王子が唱える大西洋の探検航海を支援する。

 1434年、ポルトガル人の航海士であり探検家ジル・エアネスが、ボアドール岬を回航する。エンリケ航海王子の命であったともいわれる。1477年、プトレマイオスの地図がイタリアで印刷される。1479年には、ポルトガルとスペインとの間でアルカソヴァス条約が結ばれる。仲介の労をとったのはローマ教皇であり、ポルトガルがアフリカ沿岸、マデイラ諸島、アソーレス諸島、カボヴェルデ諸島を、そしてスペインがカナリア諸島をそれぞれ領有することに決めた。

 1455年から1456 年にかけては、ポルトガル国王アフォンソ5世が、ローマ教皇から勅書を引き出す。その中では、キリスト教の布教を最大目に、すでに「発見」され、さらに「発見」されるであろう非キリスト教世界における征服と貿易を独占する権利、それに聖職叙任権をポルトガル国王に「贈与」することがうたわれた。


 1482~1485年、探検家ディオゴ カウンが、アフリカ大陸探検のためリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受けていた。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。現在のコンゴとアンゴラの地域に当たる。

 1487年、この年の暮れから翌年初めにかけて、ポルトガル国王の命により、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスが出航した。アフリカ大陸を周回してインドへの航路を見出すためであった。彼の船団は、アフリカ大陸南端の喜望峰の回航に成功し、そこから折り返してポルトガルに帰港を果たす。

 それに同年、ペドロ・デ・クビリャン(Pedro de Covilh)が陸路で東方旅行に出発する。アデン経由でインド半島西岸の香料取引地に達した。またペルシア湾岸オルムスから紅海に出て、アフリカ大陸の東岸にとりつき、そこからザンベジ川河口付近まで南下した。

(続く)
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