136『自然と人間の歴史・日本人』建武新政(1333~1334)
鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。
概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。
まずは、「梅松論」を取り上げよう。この論は、その年の「御新政」の有り様を、こう伝える。
「去程に京都には君伯耆より還幸なりしかば、御迎へに参られける卿相雲客、行粧花をなせり。今度忠功を致しける正成・長年以下供奉する武士その数知らず。宝祚は、二条の内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年(1333)の今は天下一統に成しことこそ珍しけれ。
君の御聖断は延喜・天暦の昔に立帰りて、武家安寧に比屋(=軒並)謳歌し、いつしか諸国に国司守護を定め、卿相雲客各々その位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。
武家楠(=正成)・伯耆守(=名和長年)・赤松(=則村)以下、山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし。
御聖断の趣五幾七道八番に分けられ、卿相を以て頭人として新決所と号して新たに造らる。是は先代引付(ひきつけ)(=記録や資料の管理・作成)の沙汰のたつ所なり。
大議(=重要なこと)においては記録所において裁許あり。また侍所と号して土佐守兼光・太田大夫判官親光・富部大舎人頭・三河守師直(=高師直)らを衆中して御出有りて聞こし召し、昔のごとく武者所を置かる。
新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を結番(けちばん)(=交代勤務)せらる。古の興廃を改めて、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」とて新なる勅裁漸く聞えけり。
大将軍(足利尊氏)の叡慮不双にして御昇進は申すに及ばず、武蔵・相摸その他数国の守を以て、頼朝卿の例に任せて御受領有り。
次に関東へは同年の冬、成良(なりなが)親王征夷将軍として御下向なり。下御所左馬頭殿(足利直義)供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩大略励し奉りて下向す。鎌倉は去夏の乱に地払ひしかども、大守(直義)御座有りければ、庶民安堵の思ひをなしけり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・決断所を置かるゝといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申し断る間、綸言朝に変じ暮に改まりしほどに諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
或は先代滅亡の時に遁げ来たる輩、また高時の一族に被官の外は、寛宥の義を以て死罪の科を宥らる。また天下一統の掟を以て安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯を召さるゝ輩、恨みを含む。
時分公家に口ずさみあり、「尊氏なし」といふ詞を好み使ひける。抑も累代叡慮を以て関東を亡されし事は、武家を立らるまじき御為なり。然るに直義朝臣大守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩これに帰服して京都へは応ぜざりしかば、
「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年(1333)も暮れにけり。」(「梅松論」の18、「建武の新政」)
もう一つ、今度は、建武新政でどんな政策がなされ、その働きはどのようであったのだろうか、こんな話が伝わる。
「建武式目の条々
鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事。
就中、鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し、武家に於ては尤も吉土と謂ふべき哉、居所の興廃は政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。但し諸人若し遷移を欲せば、衆人を情に随ふべし。
一、政道の事。
右、時を量り制を設くるに、和漢の間、何法を用ひらるべきや。先ず武家全 盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済 々たり、故実を訪はんにおいては、何の不足あるべきか。古典に日く、徳こ れ嘉政、政は民を安んずるにあり、と云々。早く万人の愁を休むるの儀、速 やかに御沙汰あるべきか。其の最要粗左に註す。
一、倹約を行わる可き事。
一、群飲佚遊を制せらる可き事。
一、狼籍を鎮めらるべき事。
一、私宅の点定を止めらる可き事。
一、京中の空地は本主に返さる可き事。
一、無尽銭・土倉を興行せらる可き事。
或いは莫大の課役を充て召され、或いは打人を制せられざるの間、すでに断 絶せしむるか。貴賎の急用たちまちに闕如せしめ、貧乏の活計いよいよ治術 を失う。いそぎ興行の儀あらば諸人安堵の基たるべきか。
一、諸国の守護人は殊に政務の器用を択ばる可き事。
当時の如くんば、軍忠を募りて守護職に補せらるか。恩賞に行わるべくんば 庄国を充て給うべきか。守護職は上古の吏務なり、国中の治否は只この職に よる。尤も器用を補せらるれば撫民の儀たるべきか。
一、権貴并に女性・禅律僧の口入を止めらる可き事。
一、公人の緩怠を誡めらるべし。ならびに精選あるべき事。
一、固く賄貨を止めらる可き事。
一、殿中は内外に付きて諸方の進物を返さるべき事。
一、近習の者を撰ばるべき事。
一、礼節を専らにすべき事。
一、廉義の名誉あらば、殊に優賞せらるべき事。
一、貧弱の輩の訴訟を聞こしめさるべき事。
一、寺社の訴訟は事によって用捨ある可き事。
一、御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事。
以前十七箇条、大概斯の如し。(中略)方今諸国の干戈いまだ止まず、尤も跼蹐あるべきか。古人日く、安きに居てなお危きを思うと。いま危きに居て蓋し危きを思うべきか。恐るべきはこの時なり、慎むべきは近日なり。遠くは延喜天暦両聖の徳化、近くは義時泰時父子の行状を以て近代の師となし、殊には万人帰仰の政道を施さるれば、四海安全の基たるべきか…
建武三年十一月七日 真恵
(人衆 前民部卿以下8名略)是円」(「建武式目」)
☆☆☆
これに、次のような「恩賞の不公平」の声が加わる。
「元弘三年八月三日より、軍勢恩賞の沙汰有るべきとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定らる、之に依り諸国の軍勢軍忠の支証を立、申状を捧げて、恩賞を望む輩名何千万人と云数を知ず、其中に実に忠有者は功を憑で諛ず、更に忠無者は媚を奥竈に求め上聞を掠ける間、数月の間に纔に廿余人の恩賞を申沙汰せられらりけれ共、事正路に非ずとて軈て召返されにけり、さらば上卿を改よとて、万里小路中納言藤房卿と上卿に成され、申状を附渡さる、藤房之を請取否を正し、浅深を分ち、各申与んとし給ひける処に、内奏秘計に依て、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に忠なき輩も五箇所十箇所の所領を給りける間、藤房諌め言を納かねて、病と称して奉行を辞せらる。(中略)
相模入道の一跡の徳宗領をば内裏の供御料所に置れぬ、舎弟四郎左近大夫入道の跡をば兵部卿親王へ進たせらる、大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる、此外相州の一族の一跡、関東家風の輩の所領をば、指る事も無き郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司女官僧に至まで、一跡二跡を合て、内奏より申給ければ、今は六十六ケ国の中に立錐の地も軍勢に行べき闕所は無りけり、かゝりけれ ば、光経卿も心計は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給ひけれども、叶はで年月をぞ送られける。(中略)
或は内奏より訴人勅許を蒙れば、決断所にて論人に理を付られ、又決断所にて本主安堵を賜れば、内奏より其他を別人の恩賞に行はる、此の如く互いに錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々動乱更に休時なし」(「太平記」)
☆☆☆
さらに、建武政権に対する庶民の批判には、次に紹介するように、厳しいものがある。
「東寺御領若狭国太良御荘の百姓など謹みて言上す。
早く前例に因准せられ、根本の御例に任せ、御哀憐(ごあいりん)を垂れられ、御免の御成敗を蒙らんと欲する条々の愁状右、明王聖主(めいおうせいしゅ)の御代み罷り成る。
随って諸国の所務は旧里に帰し、天下の土民百姓など、皆もって貴きの思いをなすの条、その隠もなき者なり。(中略)
去る正安年中より以来、地頭職においては関東御領(鎌倉幕府のこと・引用者)に罷(まか)り成り、非法横法を帳行せらると云々。(中略)
関東御滅亡の今は、当寺の御領に罷り成り、百姓など喜悦(きえつ)の思いを成すの処、御所務(荘園運営のための年貢徴収など)かって以て御内(得宗家である北条氏本家の家来であるところの御内人のこと・引用者)御領(みうちごりょう)の例に違(たが)わず。
剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる。当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって、子細を勒して言上す。
建武元年五月日」(「東寺百合文書」)
これに「剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる」とあるのは、「当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって」、今すぐやめてもらいたいのだと抗議している。
☆☆☆
そういう、大いなる政情不安が垂れ込める中、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)の看板が立てられる、それには、こうある。
「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)。
器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏(しゃく)持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。
前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。
花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家(源頼朝)ノ掟(おきて)ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウ(だらしないさま・引用者)ニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)に生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(「建武年間記」・「二条河原落書」国立公文書館内閣文庫)
鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。
概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。
まずは、「梅松論」を取り上げよう。この論は、その年の「御新政」の有り様を、こう伝える。
「去程に京都には君伯耆より還幸なりしかば、御迎へに参られける卿相雲客、行粧花をなせり。今度忠功を致しける正成・長年以下供奉する武士その数知らず。宝祚は、二条の内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年(1333)の今は天下一統に成しことこそ珍しけれ。
君の御聖断は延喜・天暦の昔に立帰りて、武家安寧に比屋(=軒並)謳歌し、いつしか諸国に国司守護を定め、卿相雲客各々その位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。
武家楠(=正成)・伯耆守(=名和長年)・赤松(=則村)以下、山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし。
御聖断の趣五幾七道八番に分けられ、卿相を以て頭人として新決所と号して新たに造らる。是は先代引付(ひきつけ)(=記録や資料の管理・作成)の沙汰のたつ所なり。
大議(=重要なこと)においては記録所において裁許あり。また侍所と号して土佐守兼光・太田大夫判官親光・富部大舎人頭・三河守師直(=高師直)らを衆中して御出有りて聞こし召し、昔のごとく武者所を置かる。
新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を結番(けちばん)(=交代勤務)せらる。古の興廃を改めて、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」とて新なる勅裁漸く聞えけり。
大将軍(足利尊氏)の叡慮不双にして御昇進は申すに及ばず、武蔵・相摸その他数国の守を以て、頼朝卿の例に任せて御受領有り。
次に関東へは同年の冬、成良(なりなが)親王征夷将軍として御下向なり。下御所左馬頭殿(足利直義)供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩大略励し奉りて下向す。鎌倉は去夏の乱に地払ひしかども、大守(直義)御座有りければ、庶民安堵の思ひをなしけり。
爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・決断所を置かるゝといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申し断る間、綸言朝に変じ暮に改まりしほどに諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
或は先代滅亡の時に遁げ来たる輩、また高時の一族に被官の外は、寛宥の義を以て死罪の科を宥らる。また天下一統の掟を以て安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯を召さるゝ輩、恨みを含む。
時分公家に口ずさみあり、「尊氏なし」といふ詞を好み使ひける。抑も累代叡慮を以て関東を亡されし事は、武家を立らるまじき御為なり。然るに直義朝臣大守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩これに帰服して京都へは応ぜざりしかば、
「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年(1333)も暮れにけり。」(「梅松論」の18、「建武の新政」)
もう一つ、今度は、建武新政でどんな政策がなされ、その働きはどのようであったのだろうか、こんな話が伝わる。
「建武式目の条々
鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事。
就中、鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し、武家に於ては尤も吉土と謂ふべき哉、居所の興廃は政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。但し諸人若し遷移を欲せば、衆人を情に随ふべし。
一、政道の事。
右、時を量り制を設くるに、和漢の間、何法を用ひらるべきや。先ず武家全 盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済 々たり、故実を訪はんにおいては、何の不足あるべきか。古典に日く、徳こ れ嘉政、政は民を安んずるにあり、と云々。早く万人の愁を休むるの儀、速 やかに御沙汰あるべきか。其の最要粗左に註す。
一、倹約を行わる可き事。
一、群飲佚遊を制せらる可き事。
一、狼籍を鎮めらるべき事。
一、私宅の点定を止めらる可き事。
一、京中の空地は本主に返さる可き事。
一、無尽銭・土倉を興行せらる可き事。
或いは莫大の課役を充て召され、或いは打人を制せられざるの間、すでに断 絶せしむるか。貴賎の急用たちまちに闕如せしめ、貧乏の活計いよいよ治術 を失う。いそぎ興行の儀あらば諸人安堵の基たるべきか。
一、諸国の守護人は殊に政務の器用を択ばる可き事。
当時の如くんば、軍忠を募りて守護職に補せらるか。恩賞に行わるべくんば 庄国を充て給うべきか。守護職は上古の吏務なり、国中の治否は只この職に よる。尤も器用を補せらるれば撫民の儀たるべきか。
一、権貴并に女性・禅律僧の口入を止めらる可き事。
一、公人の緩怠を誡めらるべし。ならびに精選あるべき事。
一、固く賄貨を止めらる可き事。
一、殿中は内外に付きて諸方の進物を返さるべき事。
一、近習の者を撰ばるべき事。
一、礼節を専らにすべき事。
一、廉義の名誉あらば、殊に優賞せらるべき事。
一、貧弱の輩の訴訟を聞こしめさるべき事。
一、寺社の訴訟は事によって用捨ある可き事。
一、御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事。
以前十七箇条、大概斯の如し。(中略)方今諸国の干戈いまだ止まず、尤も跼蹐あるべきか。古人日く、安きに居てなお危きを思うと。いま危きに居て蓋し危きを思うべきか。恐るべきはこの時なり、慎むべきは近日なり。遠くは延喜天暦両聖の徳化、近くは義時泰時父子の行状を以て近代の師となし、殊には万人帰仰の政道を施さるれば、四海安全の基たるべきか…
建武三年十一月七日 真恵
(人衆 前民部卿以下8名略)是円」(「建武式目」)
☆☆☆
これに、次のような「恩賞の不公平」の声が加わる。
「元弘三年八月三日より、軍勢恩賞の沙汰有るべきとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定らる、之に依り諸国の軍勢軍忠の支証を立、申状を捧げて、恩賞を望む輩名何千万人と云数を知ず、其中に実に忠有者は功を憑で諛ず、更に忠無者は媚を奥竈に求め上聞を掠ける間、数月の間に纔に廿余人の恩賞を申沙汰せられらりけれ共、事正路に非ずとて軈て召返されにけり、さらば上卿を改よとて、万里小路中納言藤房卿と上卿に成され、申状を附渡さる、藤房之を請取否を正し、浅深を分ち、各申与んとし給ひける処に、内奏秘計に依て、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に忠なき輩も五箇所十箇所の所領を給りける間、藤房諌め言を納かねて、病と称して奉行を辞せらる。(中略)
相模入道の一跡の徳宗領をば内裏の供御料所に置れぬ、舎弟四郎左近大夫入道の跡をば兵部卿親王へ進たせらる、大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる、此外相州の一族の一跡、関東家風の輩の所領をば、指る事も無き郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司女官僧に至まで、一跡二跡を合て、内奏より申給ければ、今は六十六ケ国の中に立錐の地も軍勢に行べき闕所は無りけり、かゝりけれ ば、光経卿も心計は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給ひけれども、叶はで年月をぞ送られける。(中略)
或は内奏より訴人勅許を蒙れば、決断所にて論人に理を付られ、又決断所にて本主安堵を賜れば、内奏より其他を別人の恩賞に行はる、此の如く互いに錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々動乱更に休時なし」(「太平記」)
☆☆☆
さらに、建武政権に対する庶民の批判には、次に紹介するように、厳しいものがある。
「東寺御領若狭国太良御荘の百姓など謹みて言上す。
早く前例に因准せられ、根本の御例に任せ、御哀憐(ごあいりん)を垂れられ、御免の御成敗を蒙らんと欲する条々の愁状右、明王聖主(めいおうせいしゅ)の御代み罷り成る。
随って諸国の所務は旧里に帰し、天下の土民百姓など、皆もって貴きの思いをなすの条、その隠もなき者なり。(中略)
去る正安年中より以来、地頭職においては関東御領(鎌倉幕府のこと・引用者)に罷(まか)り成り、非法横法を帳行せらると云々。(中略)
関東御滅亡の今は、当寺の御領に罷り成り、百姓など喜悦(きえつ)の思いを成すの処、御所務(荘園運営のための年貢徴収など)かって以て御内(得宗家である北条氏本家の家来であるところの御内人のこと・引用者)御領(みうちごりょう)の例に違(たが)わず。
剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる。当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって、子細を勒して言上す。
建武元年五月日」(「東寺百合文書」)
これに「剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる」とあるのは、「当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって」、今すぐやめてもらいたいのだと抗議している。
☆☆☆
そういう、大いなる政情不安が垂れ込める中、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)の看板が立てられる、それには、こうある。
「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)。
器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏(しゃく)持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。
前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。
花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家(源頼朝)ノ掟(おきて)ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウ(だらしないさま・引用者)ニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)に生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(「建武年間記」・「二条河原落書」国立公文書館内閣文庫)
かいつまんでは、これの前段に見える象徴的な出来事なのが、「器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所」というのが、「能力を判断しないで採用する雑訴決断所」であった。
ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。
1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。
この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。
ところで、備前、備中、美作の武士の中の一部には、論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝える。
「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。
美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。
だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。
征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。
後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。
(続く)
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ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。
1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。
この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。
ところで、備前、備中、美作の武士の中の一部には、論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝える。
「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。
美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。
だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。
征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。
後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。
(続く)
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