○136『自然と人間の歴史・日本人』建武新政(1333~1334)

2020-09-26 23:08:33 | Weblog
136『自然と人間の歴史・日本人』建武新政(1333~1334)


 鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。


 概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。


 まずは、「梅松論」を取り上げよう。この論は、その年の「御新政」の有り様を、こう伝える。


 「去程に京都には君伯耆より還幸なりしかば、御迎へに参られける卿相雲客、行粧花をなせり。今度忠功を致しける正成・長年以下供奉する武士その数知らず。宝祚は、二条の内裏なり。保元・平治・治承より以来、武家の沙汰として政務を恣にせしかども、元弘三年(1333)の今は天下一統に成しことこそ珍しけれ。
 君の御聖断は延喜・天暦の昔に立帰りて、武家安寧に比屋(=軒並)謳歌し、いつしか諸国に国司守護を定め、卿相雲客各々その位階に登りし躰、実に目出度かりし善政なり。
 武家楠(=正成)・伯耆守(=名和長年)・赤松(=則村)以下、山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし。
 御聖断の趣五幾七道八番に分けられ、卿相を以て頭人として新決所と号して新たに造らる。是は先代引付(ひきつけ)(=記録や資料の管理・作成)の沙汰のたつ所なり。
 大議(=重要なこと)においては記録所において裁許あり。また侍所と号して土佐守兼光・太田大夫判官親光・富部大舎人頭・三河守師直(=高師直)らを衆中して御出有りて聞こし召し、昔のごとく武者所を置かる。
 新田の人々を以て頭人にして諸家の輩を結番(けちばん)(=交代勤務)せらる。古の興廃を改めて、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」とて新なる勅裁漸く聞えけり。


 大将軍(足利尊氏)の叡慮不双にして御昇進は申すに及ばず、武蔵・相摸その他数国の守を以て、頼朝卿の例に任せて御受領有り。
  次に関東へは同年の冬、成良(なりなが)親王征夷将軍として御下向なり。下御所左馬頭殿(足利直義)供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩大略励し奉りて下向す。鎌倉は去夏の乱に地払ひしかども、大守(直義)御座有りければ、庶民安堵の思ひをなしけり。
  爰に、京都の聖断を聞き奉るに、記録所・決断所を置かるゝといへども、近臣臨時に内奏を経て非義を申し断る間、綸言朝に変じ暮に改まりしほどに諸人の浮沈、掌を返すがごとし。
  或は先代滅亡の時に遁げ来たる輩、また高時の一族に被官の外は、寛宥の義を以て死罪の科を宥らる。また天下一統の掟を以て安堵の綸旨を下さるゝといへ共、所帯を召さるゝ輩、恨みを含む。
  時分公家に口ずさみあり、「尊氏なし」といふ詞を好み使ひける。抑も累代叡慮を以て関東を亡されし事は、武家を立らるまじき御為なり。然るに直義朝臣大守として鎌倉に御座ありければ、東国の輩これに帰服して京都へは応ぜざりしかば、
 「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年(1333)も暮れにけり。」(「梅松論」の18、「建武の新政」)




  もう一つ、今度は、建武新政でどんな政策がなされ、その働きはどのようであったのだろうか、こんな話が伝わる。


 「建武式目の条々
鎌倉元の如く柳営たる可きか、他所たる可きか否かの事。
 就中、鎌倉郡は文治右幕下、始めて武館を構へ、承久義時朝臣天下を併呑し、武家に於ては尤も吉土と謂ふべき哉、居所の興廃は政道の善悪によるべし。これ人凶は宅凶にあらざるの謂なり。但し諸人若し遷移を欲せば、衆人を情に随ふべし。
一、政道の事。
 右、時を量り制を設くるに、和漢の間、何法を用ひらるべきや。先ず武家全 盛の跡を遂ひ、尤も善政を施さるべし。然らば宿老・評定衆・公人などの済 々たり、故実を訪はんにおいては、何の不足あるべきか。古典に日く、徳こ れ嘉政、政は民を安んずるにあり、と云々。早く万人の愁を休むるの儀、速 やかに御沙汰あるべきか。其の最要粗左に註す。
一、倹約を行わる可き事。
一、群飲佚遊を制せらる可き事。
一、狼籍を鎮めらるべき事。
一、私宅の点定を止めらる可き事。
一、京中の空地は本主に返さる可き事。
一、無尽銭・土倉を興行せらる可き事。
 或いは莫大の課役を充て召され、或いは打人を制せられざるの間、すでに断 絶せしむるか。貴賎の急用たちまちに闕如せしめ、貧乏の活計いよいよ治術 を失う。いそぎ興行の儀あらば諸人安堵の基たるべきか。
一、諸国の守護人は殊に政務の器用を択ばる可き事。
当時の如くんば、軍忠を募りて守護職に補せらるか。恩賞に行わるべくんば 庄国を充て給うべきか。守護職は上古の吏務なり、国中の治否は只この職に よる。尤も器用を補せらるれば撫民の儀たるべきか。
一、権貴并に女性・禅律僧の口入を止めらる可き事。
一、公人の緩怠を誡めらるべし。ならびに精選あるべき事。
一、固く賄貨を止めらる可き事。
一、殿中は内外に付きて諸方の進物を返さるべき事。
一、近習の者を撰ばるべき事。
一、礼節を専らにすべき事。
一、廉義の名誉あらば、殊に優賞せらるべき事。
一、貧弱の輩の訴訟を聞こしめさるべき事。
一、寺社の訴訟は事によって用捨ある可き事。
一、御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事。
 以前十七箇条、大概斯の如し。(中略)方今諸国の干戈いまだ止まず、尤も跼蹐あるべきか。古人日く、安きに居てなお危きを思うと。いま危きに居て蓋し危きを思うべきか。恐るべきはこの時なり、慎むべきは近日なり。遠くは延喜天暦両聖の徳化、近くは義時泰時父子の行状を以て近代の師となし、殊には万人帰仰の政道を施さるれば、四海安全の基たるべきか…
 建武三年十一月七日     真恵
   (人衆  前民部卿以下8名略)是円」(「建武式目」)

☆☆☆


 これに、次のような「恩賞の不公平」の声が加わる。


 「元弘三年八月三日より、軍勢恩賞の沙汰有るべきとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定らる、之に依り諸国の軍勢軍忠の支証を立、申状を捧げて、恩賞を望む輩名何千万人と云数を知ず、其中に実に忠有者は功を憑で諛ず、更に忠無者は媚を奥竈に求め上聞を掠ける間、数月の間に纔に廿余人の恩賞を申沙汰せられらりけれ共、事正路に非ずとて軈て召返されにけり、さらば上卿を改よとて、万里小路中納言藤房卿と上卿に成され、申状を附渡さる、藤房之を請取否を正し、浅深を分ち、各申与んとし給ひける処に、内奏秘計に依て、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に忠なき輩も五箇所十箇所の所領を給りける間、藤房諌め言を納かねて、病と称して奉行を辞せらる。(中略)
 相模入道の一跡の徳宗領をば内裏の供御料所に置れぬ、舎弟四郎左近大夫入道の跡をば兵部卿親王へ進たせらる、大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる、此外相州の一族の一跡、関東家風の輩の所領をば、指る事も無き郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司女官僧に至まで、一跡二跡を合て、内奏より申給ければ、今は六十六ケ国の中に立錐の地も軍勢に行べき闕所は無りけり、かゝりけれ ば、光経卿も心計は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給ひけれども、叶はで年月をぞ送られける。(中略)
 或は内奏より訴人勅許を蒙れば、決断所にて論人に理を付られ、又決断所にて本主安堵を賜れば、内奏より其他を別人の恩賞に行はる、此の如く互いに錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々動乱更に休時なし」(「太平記」)


☆☆☆


 さらに、建武政権に対する庶民の批判には、次に紹介するように、厳しいものがある。


 「東寺御領若狭国太良御荘の百姓など謹みて言上す。
 早く前例に因准せられ、根本の御例に任せ、御哀憐(ごあいりん)を垂れられ、御免の御成敗を蒙らんと欲する条々の愁状右、明王聖主(めいおうせいしゅ)の御代み罷り成る。
 随って諸国の所務は旧里に帰し、天下の土民百姓など、皆もって貴きの思いをなすの条、その隠もなき者なり。(中略)
 去る正安年中より以来、地頭職においては関東御領(鎌倉幕府のこと・引用者)に罷(まか)り成り、非法横法を帳行せらると云々。(中略)
 関東御滅亡の今は、当寺の御領に罷り成り、百姓など喜悦(きえつ)の思いを成すの処、御所務(荘園運営のための年貢徴収など)かって以て御内(得宗家である北条氏本家の家来であるところの御内人のこと・引用者)御領(みうちごりょう)の例に違(たが)わず。
 剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる。当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって、子細を勒して言上す。
 建武元年五月日」(「東寺百合文書」)



 これに「剰(あまつさ)え新増せしめ、巨多(こた)の御使(おんつかい)を付せらる」とあるのは、「当時濃業(農業)の最中、呵責(かしゃく)せらるるの間、愁吟(しゅうぎん)にたえざるによって」、今すぐやめてもらいたいのだと抗議している。


☆☆☆


 そういう、大いなる政情不安が垂れ込める中、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)の看板が立てられる、それには、こうある。


 「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上(げこくじょう)スル成出者(なりづもの)。


 器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏(しゃく)持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。


 前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。 


 犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。


 花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家(源頼朝)ノ掟(おきて)ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウ(だらしないさま・引用者)ニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)に生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(「建武年間記」・「二条河原落書」国立公文書館内閣文庫)

 かいつまんでは、これの前段に見える象徴的な出来事なのが、「器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所」というのが、「能力を判断しないで採用する雑訴決断所」であった。

 ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
 美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。


 1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。


 この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。


 ところで、備前、備中、美作の武士の中の一部には、論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝える。


 「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。


 奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。


 この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。


 美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)


 新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。


 そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。


 足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。


 だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。


 征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。
 後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。


(続く)


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○214『自然と人間の歴史・日本篇』田沼政治(1767~1786)

2020-09-26 22:37:48 | Weblog
214『自然と人間の歴史・日本篇』田沼政治(1767~1786)

 18世紀の中頃から後半にかけての時期は、幕政上、田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治と、その次の寛政の改革により知られる。まずは田沼で、1786年(天明6年)までのおよそ20年もの間、 幕府老中(ろうじゅう)として幕政を主導した。その子の意知(おきとも)も若年寄(わかどしより)へ昇り、親子でそろい踏みの出世をしたことで、幕政の上では珍しいケースだといえる。

 田沼は、1751年(宝暦元年)に10代将軍家治の側衆(そばしゅう)になったのを皮切りに、1767年(明和4年)には御側御用人にすすみ、その2年後には老中に取り立てられる。その特徴は典型的な経済官僚であり、幕府の財政強化に辣腕を発揮した。その1は、年貢の増収である。耕作面積を拡大するために、いろんな事業を興す。印旛沼(現在の茨城県)の水田開発事業もその一つであった。

 これについてのそもそもは、1666年(寛文6年)に幕府でも印旛沼(いんばぬま)や手賀沼(てがぬま)の新田開発を目的として、利根川を開削し布川・布佐の狭窄部を締め切り利根川を付け替える工事を行った。しかし、その3年後には再び旧流路に戻されとしまう。

 1783年(天明4年)になると、幕府自ら印旛沼の水と合わせて検見川に排水し新田をつくる計画をつくる。手賀沼の部分の工事は、1785年(天明6年)に完成する。これで、先につくられていた手賀沼新田は復興の兆しがみられたものの、再び洪水により水害に襲われたことと、田沼意次が失脚したため完成を見ないまま中止されてしまう。

 一方、北に向かっては、『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見に耳を傾け、蝦夷地(北海道)の直轄による開拓を計画し、幕府による北方探査団を派遣するなど行った者の、実現に漕ぎ着けるまでには至らなかった。

☆☆☆

 その2としては、事業のための資金を商業資本や高利貸資本に求める政策をとっていく。しかし、かえって幕政は贈賄がはびこり、政治の腐敗が進んでいくことになる。

 しかして、田沼意次の権勢がいかほどのものであり、彼による政治がいかに賄賂政治の温床をつくっていたかを伝えるものに、『甲子夜話』(かつしやわ)があり、それにはこうある。

 「先年田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屡彼の第に住たり。予は大勝手を申込て主人に逢しが、その間大底三十余席も敷べき処なりき。他の老職の座敷は大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の座敷は両側に居並び、夫にても人数余るゆへ、後は又其の中間にいく筋にも並び、夫にても人余り、又其の下に横に居並び、其の余は座敷の外通りに幾人も並び居ることなりき。

 その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其の人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては主人は余程客と離れて座し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るるゆへ、ようようと主人出座の所、二三尺許りを明て客着座するゆへ、主人出て逢ときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不札とも云べきありさまなり。(中略)

 予は大勝手の外は知らず、中勝手・親類勝手・表座敷等、定めて其の体は同じかるべし。当年の権勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲の如くなりき。」(『甲子夜話』:肥前平戸藩主松浦静山による随筆)


 そうしたいわくつきの田沼だが、幕府内で、殖産興業や株仲間の育成などで功績が某か認められていたに違いあるまい。国家もまた、利益を上げなければならないと。
 なお、ここに株仲間(かぶなかま)というのは、大どころの江戸においては十組問屋、大坂では二十四組問屋があった。
 ついては、先代までの政策が一皮剥けることで、運上金や冥加金をとりたてて幕府の財源となし、積極的に保護・公認していく。成員権としての株は、相続や抵当の対象ともなる、ただし、仲間の同意がなければ、それを売却することはかなわない。
 だが、これらで幕府にそうとの利益が転がり込んでいるとしても、これに見られるような賄賂などの横行が事実なら、幕府内で不信感なりが増してくるのは避けられなかったに違いあるまい。
 そればかりではない、この時期には、諸藩においても、領国から米やその他の作物を大坂の蔵屋敷に運んで、天下の台所たる大坂の市場で換金する傾向が顕著になってくる。

 そうした諸藩の大坂蔵屋敷の数は、1747年(延享4年)時点で、九州、四国及び中国を中心に103にのぼっていたという。こうした商品経済の発展状況に着目したのであろうか、かれらは競うようにして仲間を公認する。
 これにより問屋などの商人の便宜を幕府が「お墨付き」として与える見返りに、これまた地方版の運上金や冥加金(みょうがきん)の取立てで財政収入の増加をはかっていく。

 この時代にはまた、新たなかたちの座を設立する動きが強まる。株仲間とは異なり、幕府直営にて銅座、鉄座、真鍮座(しんちゅうざ)、それに朝鮮人参座といった、幕府直営の座や会所を次々に設置する。
 これを平たくいえば、幕府による製造・販売を独占する、今で云う専売制であり、幕府としてこれらから上がる利益を独占したいとの思惑からの政策であったろう。
 わけても銅座については、銅の専売制によって独占的な売買利益を獲得するばかりでなく、輸出用銅の安定的確保をはかるという意味合いも込められていた。


☆☆☆

 その3としては、貿易での新政策がとられる。すなわち、田沼の外交政策は、今日で言うところの「改革開放」にあった。そのとっかかりは、1715年(正徳5年)に6代将軍とその参謀の新井白石が、国際貿易額を制限するために制定した海舶互市新例を緩和するなど鎖国政策を緩める。

 長崎貿易を緩め、俵物などの商品作物を奨励しつつ、海外の物産や新技術の輸入を図る。めずらしいところでは、8代将軍吉宗の治世時に漢文書籍の輸入を許可した事績に習ってか、『解体新書』の出版を奨励したりしている。果ては、ロシアとの交易も模索していたようだが、企画の域を出ないうちに失脚の時を迎えた。

 さらに、田沼期には貨幣政策においても新たな方向がみてとれる。これについては、幕府財政の補填をしたい、通貨需要の増大にも応えたいということであった。その際には、輸出需要の旺盛であった銅に代わって、銀を用いることを考えた。

 具体的には、田沼とその部下である勘定「明和二朱銀」(南鐐二朱銀)として発行した。それには、これの8枚を小判1両に兌換できるという意味の表記があった。材質を「元文銀」(1736年(元文元年)から通用開始された丁銀の一種で秤量貨幣銀貨)と比べると、元文銀だと60匁(もんめ)が金貨1両の値打ちなのが、この明和二朱銀になると8枚重ねて金貨1両に相当するのを約すものとしてつくられた。

 これだと、改鋳を通して「出目」と呼ばれる多額の貨幣発行益(シニョレッジ)を得ることができ、通貨需要増大に応えることができる、さらに金貨との間で融通性のある銀貨(「金貨単位計数貨幣」といわれる)が社会に流通することで、通貨単位が1本に系列化できることにも繋がるというメリットがあった。


 それら以外にも、この時代には、彼の権威を頼んでか、ロシアとの交易をも視野に入れた、「蝦夷地開発」の構想にも繋がっていく、少なくともその可能性を帯びるにいたる。
 
 「紅毛書にて考るに、「ヲロシア」の日本交易を好むは、数十年以前よりの趣向と見ゆる故、いか様なる事をしても、交易すべきの心有りと思はるるなり。

 此の如きの次第故、かたがた以て奉行を置て支配これ無くては、禁制しがたき事故、此の幸便を以て日本の富栄へん事を求るに、兎角蝦夷の出産物も吟味するにしくはなし。蝦夷地の金・銀・銅を以て、我国の薬種共の他国用に相成るべき程にこれ有り、これ依り年々異国渡りの銅をはぶき、抜荷禁制の御法令行者ならば、数十年の内国家の豊なる事掌を指す如くならんかし。惣て国を治るの第一は、是我国の力を厚くするにあり。国の力を厚くするには、とかく外国の宝を我国に入るを第一といふべし。(中略)

 扨(さて)開発さて日本の力を増には蝦夷の金山をひらき、並びに其の出産物の多くするにしくはなし。蝦夷の金山を開く事、昔より山師共の云ふらす所成が、入用と出高と相当せず、これ依りすたれ有る所なり。然に先に云ふ所の「ヲロシア」と交易の事おこらば、この力を以て開銀・銅に限らず一切の産物、皆我国の力を助くべし。
 右交易の場所あながち蝦夷にも限るまじ。長崎をはじめすべて要害よき湊に引き請て宜(よろしき)事なり。右に申す通り日本の力を増す蝦夷にしくなし。」(工藤平助「赤蝦夷風説考」)(以下、略)」(「ロシア貿易の進言」)」

 この案件は、田沼の関心を引き、「蝦夷地」開発についての調査が開始されるまでになっていたのだが、10代将軍の家治が死ぬと田沼が失脚、それを受け計画は瓦解してしまう。

 
(続く)

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○140『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(流通・金融)(問丸、土倉、撰銭令)

2020-09-26 21:39:53 | Weblog
140『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(流通・金融)(問丸、土倉、撰銭令)

 流通面では、既に鎌倉期から交通業者や倉庫業者、卸売り(大方は委託販売としてのもの)は「問丸(といまる)」と呼ばれる業者が畿内を中心に現れていた。南北朝を経て室町時代中期になる頃には、この問丸の中から自身の勘定で手広く受け入れから販売までを行う「問屋」への移行が始まっている。運送の業態も、海上廻船、陸上は馬借・車借りという具合に双方向で発展していった。

 室町期の金融では、室町時代になると、従前からの宋銭に加え、明から大量に輸入された明銭(永楽銭など)のウェイトが高くなっていく。この期には、鎌倉時代後期から土倉(どそう)なる商売人が現れる。彼らは、土蔵(どぞう)とよばれる倉庫をもつ高利貸業者である。
 土倉はまた、酒屋とともに高利貸業を兼ねることがしばしばであった。彼らは、動産や不動産を担保物件に金銭を貸し付ける。その分、鎌倉時代に金融業者の代名詞であった借上は南北朝時代になってほぼ同一の業務を行う土倉が登場したことで、室町時代にはかなりが業界から淘汰され、土倉の呼称で一般化されていく。また一部には、庶民の相互扶助的な「頼母子講(たのもしこう)」や「無尽(むじん)」などが組織されていった。

 撰銭令(せんせんれい、えりぜにれい)の最初は、1485年(文明17年)に周防国(すおうのくに)の守護大内氏によって出された撰銭令だと言われる。その中から、幾つか紹介しよう。

 「禁制
一、銭を撰ぶこと
 段銭のことは,往古の例たる上は、撰(えら)ぶべき事,勿論たりといえども、地下の仁宥免の儀として、百文に、永楽・宣徳の間廿文あて加えて収納すべき也。
一、利銭並びに売買のこと
 上下大小をいとわず、永楽・宣徳においては,撰ぶべからず。さかい銭と洪武銭・打ち平め、この三色をば撰ぶべし。但し、かくのごとく相定めらるるとて、永楽・宣徳ばかりを用うべからず。百文の内に、永楽・宣徳を卅文加えて使うべし。」  

 「永正二年(1505)条
定む 撰銭の事
 右、度々御せいはゐにまかせて、京銭、うちひらめ等、これをせんし、其外のとたう銭、ゑいらく、こうふ、せんとく、われ銭 但し、われとをざる銭以下、とりあわせて、百文に三十二銭 けりやう三ぶんこれあるべし。向後後取わたすべし。若いはんの族あらは、注進に随い、罪科に処さるべきの由、仰せ下され候ところ也。仍て下知件の如し。」(蜷川文庫古文書)

 「一、商売の輩以下撰銭の事。 明応九、十
  近年恣に撰銭の段、太だ然るべからず。所詮、日本新鋳の料足においては、堅くこれを撰るべし。根本渡唐銭、永楽、洪武、宣徳等に至っては、向後これを取り渡すべし。但し自余の銭の如く相交うべし。若し違背の族あらば、速かに厳科に処せらるべし。」(「建武以来追加」)


 要するに、撰銭をさかい銭・洪武銭・打ち平めに限定する。永楽銭・宣徳銭の撰銭を禁止する。それから、大内氏へ納入する段銭への混入率を民間流通よりも低く抑制した。これにより領内での円滑な貨幣流通を確保すしつつ、大内氏による良銭の確保をはかったものだといえる。


 室町幕府が成立してからは、1500年(明応9年)から1566年(永禄9年)までの間に9回もの撰銭令を出している。この頃には、唐銭、宋銭、元銭、明銭(永楽銭など)、私鋳銭などのさまざまな品質の貨幣が流通していた。
 取引のそれぞれの場面、段階で「撰銭」が行われると、商業取引の円滑化の障害になる。そのため、中国の明の永楽銭その他の貨幣を幕府公認の流通通貨とに指定し、こちらを世の中に広く流通させようとした。 
 それでも粗悪貨幣の乱用は後を絶たずに、この政策はその後時代が下る程に、煩雑さを増していったものと見える。やがて戦国大名達が割拠する時代となるに及んで、織田信長の撰銭令(1569年)に見られるように、悪貨の流入防止ばかりでなく、増大する貨幣需要に応えるため貨幣流通量の増加をも視野に入れる、そのためには主要な両銭の基準を定め、貨幣の交換比率を定めることにつながっていく。

(続く)

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○154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

2020-09-26 21:33:10 | Weblog
154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

 ここに「掟」というのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農村部における「農民の結合体」である惣(そう)において、彼らが世俗集団として生きぬくための約束事にほかならない、例えば、こうある。

 「延徳元年(1489年)条
  定 今堀地下掟  
一(5条)、惣ヨリ屋敷請候テ、村人ニテ無キ物置クベカラザル事。
一(7条)、他所ノ人ヲ地下ニ請人候ハテ置クベカラザル事。
一(8条)、惣ノ地私ノ地トサイメ相論ハ金ニテスマスヘシ。 
一(12条)、犬カウヘカラス事。
一(15条)、二月六月サルカクノ六ヲ壱貫ツゝ、惣銭ヲ出スベキモノナリ。
一(16条)、家売タル人ノ方ヨリ、百文ニハ三文ツゝ、壱貫文ニハ三十文ツゝ、惣ヘダ スベキ者也。此旨ニ背ク村人ハ座ヲヌクベキナリ。
一(17条)、家売タル代、カクシタル人ヲハ、罰状ヲスヘシ。 
一、堀ヨリ東ヲバ、屋敷ニスベカラズ者也。」(「今掘日吉神社文書(いまぼりひえじんじゃもんじょ)」、なお今掘は、現在の滋賀県八日市市)

 これにあるのは、惣」が当該村落の自治組織として、振る舞うには、きれいごとだけてはすまされない、なぜなら、彼らは有形無形の共同財産を持ち、時には外の権力と闘うことも覚悟しなければならない。
 だからこそ、惣の掟という法律を定め違反者には追放や罰金を科し、自分たちの組織の力を保持しようとする。 身内に甘いようでは、相手につけ入る隙をあたえてしまうと考えたのだろう。


 ついては、同神社発の、もう一つの文を紹介しよう。

 「一、寄合ふれ二度に出でざる人は五十文咎(とが)たるべきものなり。
一、森林木なへ切木は、五百文宛(づつ)の咎たるべきものなり。
一、木柴並びにくわの木は百文宛の咎たるべきものなり。
一、初なりかきは、一つたるべきものなり。
衆議によって定むる所、件(くだん)のごとし。
文安五年(1448年)十一月十四日、これを始む。」(「今掘日吉神社文書」)

 こちらの方には、惣の運営については、寄合がもたれ、そこでの議論で事を決め、「衆議」をもって進めていく。しかして、これに従わない者は、「咎」に問われることになっているではないか。


 あわせて、この時期には、幾つかの村に跨がる形が現れるのであって、その中には、例えば、「桂川用水今井の事」がある、こちらは、現在の京都市の南西部の桂川(かつらがわ)の西、そこに広がる丘陵地帯の西岡地域には、中小の荘園があって、灌漑用水の確保を巡り争いが起こりかねない状況であった。

 そこで、このように関係するところの「西岡十一郷」のうち三つが荘園の枠を越えて、以下の如く、結合して事にあたる事を申し合わせ、盟約した。
 ちなみに、上久世荘は東寺領、河嶋荘は三条、西園寺、それに山科三軒家の所領、さらに寺戸荘は仁和寺領と領主を異にしている。
 
 「契約 桂川用水今井の事  右契約の旨趣は、この要水こ事につき、自然煩、違乱出来の時は、久世、河嶋、寺戸もっともこの流水を受ける上は、彼の三毛ケ郷一身同心せしめ、合体の思いを成し、面々私曲なくその沙汰あるべし。
 もし同心の儀に背く郷においては、要水を打ち止むべし。この契約の旨にらいつわり申し候はば、(中略)」
暦応□年七月(「革島文書」)
 
 しかして、この史料は、桂川の用水を西岡地域の久世(しぜ)、河嶋(かわしま)、それに寺戸(てらど)に住民が集団で管理するために作成した。


 その後の惣の行く末については、例えば、こうある。

 「このような惣村もやがて衰退の方向に向かっていった。その理由の一つは経済的破綻となって現れていた。
 近隣の惣村との争いに際して多くの出費を要し、また惣の指導者の力の低下、商業資本の新登場など惣内外からの圧力、新たに出現した戦国大名ならの干渉、などがあげられよう。
 管浦荘では戦国時代に入ると戦国大名浅井(あざい)氏の干渉が甚(はなはだ)しくなり、荘民のあるものは浅井氏に従って惣の規則を無視したり、あるいはその被官となるものも出てきた。
 やがて惣の機能を失うこととなった。」(村山光一、○高橋正彦「国史概説1ー古代・中世」慶応義塾大学通信教育教材、1988)




(続く)


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○154『自然と人間の歴史・日本篇』一向宗(鎌倉時代から室町・戦国時代へ)

2020-09-26 09:08:27 | Weblog
154『自然と人間の歴史・日本篇』一向宗(鎌倉時代から室町・戦国時代へ)

 一向宗(いっこうしゅう)は、戦国時代からしばらく政治の面でも勇名を馳せた仏教集団であり、幾つかの流れがある。 
 
 それは、一向俊聖(いっこうしゅんじょう)の宗団、一遍智真の時宗、今でいう浄土真宗の旧称などの総称として用いられる、鎌倉時代の末期に書かれた「野守鏡」や「天狗草紙」に「一向宗」と書かれてあるともいう。その場合の「一向」とは、なんでも、「ひたすら」の意味あいからで、かつ「一向往生を思うの大事」(「玉葉」文治元年)にも見える表現とか。

 それらの中でも、親鸞を開祖とする浄土宗本願寺派が蓮如(れんにょ)の時代、伸長が著しかった。彼は、「御文」という漢字かな混じりの消息の形式を用いて、庶民に「阿弥陀仏への帰依を説いていく。その中、「猟漁(りょう、すなどり)(3)」の項目には、こうある。

 「まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。 
 このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明三年十二月十八日」
 
 これを、かの親鸞の次の言葉に比べると、いかに分かりやすい、噛み砕いた説得の「調べ」であるかが、納得できるだろう。
 
 「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」(親鸞「教行信証」の「総序」より)
 
 なお、現代訳は、「わたしなりに考えてみると、思いはかることの難しい阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願は、渡ることの難しい迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」

 すなわち、これにあるのは、西方かなたの「阿弥陀如来」に対して、ひたすらに願いをこめる、仏の教えにひたすらに、帰命(きみょう)、帰依(きえ)するうちには、その仏は、「ことごとくお助けになるのだ」と。
 
 なお、余談ながら、この親鸞の言葉は、仏教を開いた釈尊の無神論とは異なる、中国、朝鮮などへとつながる流れながら、永遠存在を求めて止まない人間の「業」なり「宿命」を是とする仏教の一分派たる「大乗仏教派」の精神を正面から捉えているものとして、現代にいたる日本仏教の精髄を伝えているように思われる。


 それはさておき、このような「御文」の下りを、「寄合」と称する問徒の集会を組織し、その場で指導の者が人々に読み聞かせる、あるいは「南無阿弥陀仏」を唱和したりするうちには、信仰心はいやがうえにも高まっていく。教団は、主に、農民や零細な商工業者の間に広めていき、地域としては、北陸、東海、近畿を中心に勢力を拡大していく。
 そのうちに、世俗の権力とも向き合っていく。というのも、特段、暮らし向きの厳しい中では、いかにすればその不幸から抜け出すことができるかに、話が及んでいくのは自然な流れであったのでは、ないだろうか。

(続く) 
 
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