161『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の政治経済(太閤検地、刀狩、身分統制令、人掃令、対外政策)
豊臣秀吉が日本統一を果たすと、それまでの封建制の「たが」を締め直す諸種の改革を次々と打ち出していく。まずは1588年(天正16年)、兵農分離・身分固定政策の一環として、次のような刀狩令を発布する。
「条々
一、諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい、所持候事、堅く御停止候。其子細者 不入道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人に対し非儀の動をなすやから、勿論御成敗有るべし。然者、其所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候の間、其国主、給人、代官として、右武具悉く取あつめ、進上致すべき事。
一、右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度 大仏建立の釘かすがいひに仰せ付けらるべし。然者、今生の儀者申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。
一、百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓 御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也。
異国にては唐尭のそのかみ、天下を鎮撫せしめ、宝剣利刀を農器にもちひる と也。本朝にてはためしあるべからず。此旨を守り、其趣を存知し、百姓は 農桑に精を入べき事。
右道具急度取集め、進上あるべく候也。
天正十六年七月八日秀吉朱印」(『小早川文書』より)
これの文中には、「百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓 御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也」などと、百姓出身説のある秀吉にしては随分と自分勝手な言い回しとなっている。
それから、後段においては、「百姓は 農桑に精を入べき事」と下した後には、百姓統制の細々したことについて、沙汰をおこなう。ちなみに、秀吉の命令につき従う、「浅野長政掟書」には、くどくどと、こうしたためてある。
「条々
一、隣国より年貢取うせこし候者、相かかへまじき事。
一、盗賊人、またはたよりもなく一切しれざるもの、かかへ置くまじき事。
一、給人・代官、百姓にたいし謂われざるやから申かけ、人夫等むざとつかい候事。手引仕るまじく候。かうぎに仕るにをいては、直訴すべき事。
一、ありやうの年貢、相さだめ候枡をもって、はかりわたすべく候。
一、前々より走り候百姓よびかへし、田地あれざるやうに申し付くべく候。あれ地は半納、年々荒(あれ)は来年の御百姓にとらせ候。立かへり候百姓、来年の夫役を用捨せしむべく候。あれ地をひらき、またぬしなしの旧地、作毛付き候を、末代さいはんすべき事。
一、おとな百姓として下作に申し付け、作(つくり)あいを取り候儀、無用に候。今まで作仕り候百姓、直納に仕るべき事。
一、地下(じげ)のおとな百姓、またはしやうくわんなどに、一時もひらの百姓つかわれまじき事。
右、定め置くところ件の如し。
天正十五年十月二十日弾正少弼(花押)」(「浅野長政掟書」:「渡辺家文書」『越前若狭古文書撰』、岸峰純夫編「古文書の語る日本史5戦国・織豊編」筑摩書房、1989)
この文書中、とりわけ最後の二か条は、惣村内での請負小作の禁止で豪農らによる中間搾取を封じること方針、ならびに「しやうくわん」(荘官)などに「ひらの百姓 を使役するのを禁じることとしていて、平たく謂うと、その土地を耕作している本人が年貢の義務を負うのであって、その他の権利関係はこれに従うものとなった。
果たして、その頃のある僧侶は、この刀狩についての世評というこどだろうか、次のように指摘している。
「一、天下の百姓の刀を悉く取る。大仏の釘に遣すべし。現には刀故闘争に及 び身命相果つるを助けしめ、後生は釘に遣し、万民の利益理当の方便と仰せ付けられ了と云々。内証(本当には)は一揆停止止と為なりと沙汰あり。種々の計 略なり」(奈良興福寺の子院である多門院の住職、英俊による「多門院日記」より)
これに見抜かれているように、秀次の刀狩の真の目的というのは、彼が表向きの理由に持ち出した京都の方広寺の鐘の鋳造するためでな毛頭なく、兵農分離、自分たちの独裁的な権力を保持するための、必要にして不可欠な手段以外の何ものでもなかった。
それでは、世にいう「太閤検地」は、どのようなものだったのだろうか。1590年(天正18年)に出された文書には、こうある。
「一、其許検地の儀、一昨日仰せ出され候如く、斗代等の儀は御朱印の旨に任せて、 何も所々、いかにも念を入れ申し付くべく候。もしさそうに仕り候ハヾ各越 度たるべく候事」
一、仰せ出され候趣、国人並百姓共に合点行き候様ニ能々申聞かすべく候。自 然相届かざる覚悟の輩之れあるに於ては、城主にて候わば、其もの城へ追入 れ、各相談、一人も残置かずなでぎりに申し付くべく候。
百姓以下にいたるまで相届かざるに付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。
六十余 州堅く仰せ付けられ、出羽、奥州迄そさうにはさせらる間敷候(まじくそうろう)。たとへ亡所 に成り候ても苦しからず候間、其意を得べく候。山のおく、海はろかいのつ ゞき候迄、念を入るべき事専一に候。
自然各退屈するに於ては、関白殿(豊臣秀吉)御自身御座成され候ても、仰せつけらるべく候。急度(きっと)此返事然るべく候也。
百姓以下にいたるまで相届かざるに付ては、一郷も二郷も悉くなでぎり仕るべく候。
六十余 州堅く仰せ付けられ、出羽、奥州迄そさうにはさせらる間敷候(まじくそうろう)。たとへ亡所 に成り候ても苦しからず候間、其意を得べく候。山のおく、海はろかいのつ ゞき候迄、念を入るべき事専一に候。
自然各退屈するに於ては、関白殿(豊臣秀吉)御自身御座成され候ても、仰せつけらるべく候。急度(きっと)此返事然るべく候也。
八月十二日、(秀吉朱印)
浅野弾正少弼殿へ」(「浅野家文書」)
これに見えるのは、織田信長が命じた指出検地をさらに推し進めての、それそれの土地の所有者と様子とを確定することによって、農民を直接的に把握するとともに、かつての、一つの土地に何重もの権利関係が存在するという、中世の途中からの複雑な土地の所有関係を完全に否定する、そのことで、領主と農民という近世土地制度の基礎を作り上げるのであった。
さらに、秀吉は晩年、対外戦争を企てる。一説にこれは、彼の主君の織田信長から受け継いだ構想であった。秀吉が、九州征伐頃からそのことを腹づもりにしていたのは、ほぼ間違いない。
そういう次第にて、いよいよその時への準備にとりかかろうと頭を巡らせたようだ。朝鮮への出兵に絡んでは、1591年の身分統制令には、こうある。
「定
一、奉公人、侍、中間(ちゅうげん)、小者、あらし子に至る迄、去(さる)七月、奥州之御出勢(1590年(天正18年)7月)より以後、新儀に 町人百姓に成候者これあらば、其町中地下人(じげにん)として相改、一切をくべからず。若(も)しかくし置くに付いては、其一町一在所、御成敗を加へらるべき事。
一、在々百姓等、田畠を打捨て、或はあきない、或は賃仕事に罷出る輩(ともがら)有らば、そのものの事は申すひ及ばず、地下中御成敗たるべし。並に奉公をも仕(つかまつ)、田畠もつくらざるもの、代官、給人としてかたく相改め、をくべからず。
天正十九年八月廿一日 秀吉朱印」(「小早川家文書」)
これの冒頭に「奉公人侍中間小者あらし子に至迄」とあるのは、奉公人、侍は若党(わかとう)、中間(武家の召使いの男)、あらし子(武家奉公人であるが、主に戦場での雑役に従う者)などをほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。
これの冒頭に「奉公人侍中間小者あらし子に至迄」とあるのは、奉公人、侍は若党(わかとう)、中間(武家の召使いの男)、あらし子(武家奉公人であるが、主に戦場での雑役に従う者)などをほかの武家が召抱えることなどを禁じたもので、これらに違反した場合は成敗するという。
しかして、これの主旨としては、当時の武家奉公人などが兵役(さしあたり、「朝鮮侵略」が念頭にあったと考えられる)を逃れるため一時的に農民などに成り変わるのを認めない、それゆえ、農民などが武家奉公人になることは禁じていない。
また、農民が商売に手を繋出したり、賃仕事につくことを禁止する、こちらは兵糧米に充当する年貢米を確保しようとの思惑からであったろう。要するに、百姓には、しっかり戦の兵糧を供給するようにとの督励と、そうしないと命はないぞということなのだろう。
あわせて、同じく1591の人掃令(ひとばらいれい)、別名としては人別改め令)には、こうある。
また、農民が商売に手を繋出したり、賃仕事につくことを禁止する、こちらは兵糧米に充当する年貢米を確保しようとの思惑からであったろう。要するに、百姓には、しっかり戦の兵糧を供給するようにとの督励と、そうしないと命はないぞということなのだろう。
あわせて、同じく1591の人掃令(ひとばらいれい)、別名としては人別改め令)には、こうある。
「急度申し候
一、当関白様(豊臣秀次のこと・引用者)従(よ)り六十六国へ人掃(ひとばらい)の儀仰せ出され候の事。
一、当関白様(豊臣秀次のこと・引用者)従(よ)り六十六国へ人掃(ひとばらい)の儀仰せ出され候の事。
一、家数、人数、男女、老若共に一村切に書付けらるべき事。
付(つけたり)、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓は百姓、一所に書出だすべき事。(以下、略)
天正十九年三月六日」(吉川(きつかわ)家文書)
これに「人掃」というのは、「一村」ごとに調べる人口調査のことであり、身分ごとの人数を書き出すべきとしている。こちらも、来る朝鮮出兵に動員可能な人員を把握すること、あわせて、年貢や夫役(ふえき)の負担能力を見る役割があったから。
これだけの前準備をしてから、1592年(文禄元年)、秀吉は朝鮮への出兵の事業にとりかかる。
ちなみに、太閤秀吉から関白・豊臣秀次へ宛てた二十五箇条の覚書・『古蹟文徴』には、こうある。
「覚
一、殿下(関白秀次)、陣用意(出陣の用意)油断あるべからず候。来年正二月ごろ、進発(出陣)たるべき事。
一、高麗都(首都の漢城)、去る二日落去(落城)候。然る間いよいよきっと御渡海なされ、このたび大明国までも残らず仰せ付けられ、大唐(明)の関白職御渡しなさるべく候事。(明を支配下において秀次を中国の関白職につけるつもりである。)
一、大唐の都(ペキン)へ叡慮(後陽成天皇)うつし申すべく候、その御用意あるべく候。明後年行幸(ぎょうこう、天皇が外出すること。ここでは明へ行くこと)たるべく候。しかれば、都廻(みやこまわり)の国十か国これを進上すべく候。その内にて諸公家衆何も知行仰せ付らるべく候。(以下、略)。
一、大唐関白、右仰せられ候如く、秀次へ譲らせらるべく候。(中略)
日本関白は大和中納言(秀吉の甥・羽柴秀保)、備前宰相(宇喜田秀家)両人の内覚悟次第、仰せ出さるべき事。
一、日本帝位(天皇の位)の儀、若宮、八条殿何にても相究めらるべき事。
一、高麗の儀は岐阜宰相(織田信長の嫡孫・秀信)か、しからざれば備前宰相相置かるべく候。
一、高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条、諸国へ遣はし候奉行共召返し、陣用意申付くべき事。
天正弐十五年(1592年)五月十八日、秀吉(朱印)」(前田尊経閣文庫蔵『古蹟分徴』)
これに紹介した文中に「高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条」とあるのは、当時の秀吉の誇大妄想ぶりを伝える。
そればかりではない、この文面からは、朝鮮半島を手中に収め、最終的な侵略目標は明(みん)であったことが読み取れる。いうなれざ、国内ではもはや満たせなくなった領土拡張の欲求を果たそうとしたのであった。
戦況は、初めは日本軍の大勝続きであり、朝鮮の王・宣祖(センジョ)は首都の漢陽(ハニャン)を出て撤退して追求を逃れた。その後、朝鮮の軍も頑強に抵抗するにいたり、戦況はだんだんに膠着状態に傾いていく。翌1593年(文禄2年)には休戦する。これを文禄の役と呼ぶ。
まだあって、1597年(慶長2年)の講和交渉決裂によって、秀吉は侵略の試みを再開させる。1598年(慶長3年・万暦26年、朝鮮側は宣祖31年の太閤豊臣秀吉の死をもって、この戦争は終結する。
それから、秀吉の経済政策のめずらしいところでは、全国の金山・銀山の収益を独占するに至った1587年から、通貨単位の統一を図るとともに金貨・銀貨の鋳造をはじめたことがある。
最も大きいのが「天正長大判」(てんしょうながおおばん)」である。これは、重さは約165グラム、大きさは縦17センチメートル×横10センチメートル程度の大きさで、表面に品質を保証する刻印や、「花押(かおう)」と呼ばれるサインが墨書きされている。もっとも、これらの大半は本来貨幣として用いられたというよりは、報償や贈答などに配られたという。
(続く)
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一、日本帝位(天皇の位)の儀、若宮、八条殿何にても相究めらるべき事。
一、高麗の儀は岐阜宰相(織田信長の嫡孫・秀信)か、しからざれば備前宰相相置かるべく候。
一、高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条、諸国へ遣はし候奉行共召返し、陣用意申付くべき事。
天正弐十五年(1592年)五月十八日、秀吉(朱印)」(前田尊経閣文庫蔵『古蹟分徴』)
これに紹介した文中に「高麗国、大明までも御手間入らず仰せ付けられ候。上下迷惑の儀、少も之無く候間、下々逃走の事も有まじく候条」とあるのは、当時の秀吉の誇大妄想ぶりを伝える。
そればかりではない、この文面からは、朝鮮半島を手中に収め、最終的な侵略目標は明(みん)であったことが読み取れる。いうなれざ、国内ではもはや満たせなくなった領土拡張の欲求を果たそうとしたのであった。
戦況は、初めは日本軍の大勝続きであり、朝鮮の王・宣祖(センジョ)は首都の漢陽(ハニャン)を出て撤退して追求を逃れた。その後、朝鮮の軍も頑強に抵抗するにいたり、戦況はだんだんに膠着状態に傾いていく。翌1593年(文禄2年)には休戦する。これを文禄の役と呼ぶ。
まだあって、1597年(慶長2年)の講和交渉決裂によって、秀吉は侵略の試みを再開させる。1598年(慶長3年・万暦26年、朝鮮側は宣祖31年の太閤豊臣秀吉の死をもって、この戦争は終結する。
それから、秀吉の経済政策のめずらしいところでは、全国の金山・銀山の収益を独占するに至った1587年から、通貨単位の統一を図るとともに金貨・銀貨の鋳造をはじめたことがある。
最も大きいのが「天正長大判」(てんしょうながおおばん)」である。これは、重さは約165グラム、大きさは縦17センチメートル×横10センチメートル程度の大きさで、表面に品質を保証する刻印や、「花押(かおう)」と呼ばれるサインが墨書きされている。もっとも、これらの大半は本来貨幣として用いられたというよりは、報償や贈答などに配られたという。
(続く)
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