○175『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山期、江戸初期の対外政策(糸割府制度と朱印船貿易、海舶互市新例)

2020-09-23 20:51:45 | Weblog
175『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山期、江戸初期の対外政策(糸割府制度と朱印船貿易、海舶互市新例)

 顧みて、安土桃山から江戸時代の初期にかけての外国との貿易を始めとする関係は、どのようになっていたのだろうか。まずは、1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで、当時博多に出向いていた豊臣秀吉が出したバテレン追放令には、こうある(再録)。

 「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処。下々として猥義曲事。
一、伴天連其知恵之法を以心さし次第に檀那を持候と被思召候へは、如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可帰国候。其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事。
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、可成其意事。
已上、天正十五年六月十九日 朱印」(『松浦家文書』)

 この中で「きりしたん国」とは、ポルトガルとスペイン。「伴天連」とは、宣教師。「黒船」とあるのは「ポルトガルの船」。「今日より廿日之間に用意仕可帰国候」とある。宣教師たちにとっては過酷な沙汰であったろう。背景には、ポルトガル人が日本人を奴隷として連れ去る噂が流れたり、長崎を領する大村純忠(おおむらすみただ)による教会へに寄進の動きがあったりで、そのため疑心暗鬼となった秀吉が態度を硬化させていったとも観られる。

 ちなみに、これより5年前の1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名複数の名代として、ローマに少年使節団が派遣されていた。日本で布教に努めていたローマ・カトリック巡察使アレッサンドロ・ヴアリニャーノが、財政難に陥っていた日本での布教事業を立て直そうとして提案したものであった。1590年(天正18年)に日本に帰ってきた4人の日本人は聚楽第で秀吉に謁見したのであったが、特段の不利益は受けなかった。
 しかし、これには後日談があり、それから40年ばかり時代が下った1633年(寛永10年)、先頭に立って布教活動をしていた中浦ジュリアン神父は長崎で囚われ、穴吊しの刑で殉教した。なお、4人の仲間のうち一人は「転び」(転向者)となっていて、遠藤周作の小説『沈黙』の主人公、クリストファン・フェレイラとして描かれている。

 このように秀吉の禁令は厳しい内容であったとはいえ、その中では「黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事」として、南蛮船による商売は認めていた。それから十数年が経過した16世紀も末の1592年(文禄元年)、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)が行われることになる。『長崎実録大成』には、こうある。

 「一、文禄之初年より長崎・京都・堺之者御朱印を頂戴して広南、東京、占城(チャンバ)、 柬捕寨(カンボジア)、六昆(リゴール)、太泥(バタニ)、暹羅(シャム)、台湾、呂宋(ルソン)、阿媽港(アマカワ)等に商売として渡海する 事御免之れ有り。
 長崎より五艘、末次平蔵二艘、船本弥平次一艘、荒木宗太郎一艘、糸屋随右衛門一艘、京都より三艘、茶屋四郎次郎一艘、角倉一艘、伏見屋一艘。堺より一艘、伊勢屋一艘」
(『長崎実録大成』、1770年刊)

 ここに「占城」(チャンバ)、「六昆」(リゴール)そして「太泥」(バタニ)とは、マレー半島にあった国や都市をいう。山田長政は、アユタヤの日本人町の首長から「六昆」の太守となった。その山田は、1612年の朱印船で、長崎から台湾を経てシャム(現在のタイのありを占めていた)に渡った、そこのアユタヤ郊外に出来ていた日本人街に住んで、貿易活動を営む。
 やがては、マラッカ海峡の向こうのインドネシアなどにも進出して、東南アジアのかなり広い地域で交易を行っていた。その商売のやり方は、当時進出していたポルトガルやオランダなどの帝国主義的なやり方とは一線を画した、交易を通じて友好関係を築こうとするものであったらしい。

 この貿易だが、徳川家康の幕府開府になっての1604年に、再開される。その後1635年の幕府による鎖国開始の前まで、大名から武士、の商人が船主となって盛んに行われた。
 商人には、中国人や欧州人もいた。商人たちが扱っていた品目の量及び種類については、この貿易が行われていた約11年の間での朱印状下付数は353通あった。
 輸出は、銀、銅、鉄、薬罐、雑貨、扇子、傘、硫黄、樟腦などであった。また輸入は、生糸、鹿皮、羅紗、絹、綿織物、伽羅、砂糖、蘇木などであった。

 要するに、ポルトガル船が長崎に着いたら、糸職人は糸割符仲間の年寄共が「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず」とし、幕府の認める京都、長崎、堺(1631年からは大坂と江戸も入る)の特権商人たちに糸割符仲間を結成させ、その仲間に生糸を一括購入させる、それにあわせてその時々の商品の値段を決めさせた。

 そうすることで、それまで主にポルトガル人商人が独占していた中国産生糸の価格決定権を日本側に取り戻し、日本側に利潤が得られるように取り計らう。当時はまだ国産生糸の生産が少量であったことから、国内での生糸産業を保護する施策でもあったろう。

 1600年(慶長5年)には、オランダ(蘭)船ダ・リーフデ号が豊後水道(ぶんごすいどう)に現れる。これを受けて1603年(慶長8年)、幕府は長崎奉行を設置する。そして、長崎などにおける白糸 (上質の生糸)を貿易するに、糸割符制度(いとわっぷせいど、ポルトガル人仲間では「パンカダ」と呼ばれた)が設けられる。
 というのは、日本国が貿易のうまみに預かろうとした。中国産の生糸の輸入は、それまでポルトガル商人が独占していた。その生糸の価格決定権を日本側に取り戻そうと、1604年(慶長9年)になって、糸職人向けに次の触れを出す。

 「黒船著岸の時、定置年寄共、糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候。糸ノ直相定候上ハ、万望次第に商売致すべき者也。
 慶長九年五月三日、本多上野介(正純)、板倉伊賀守(勝重)
 右の節、御定ノ題糸高(だいいとだか)。京百丸、堺百弐拾丸、長崎百丸。三ケ所合三百弐拾丸、但壱丸五十斤(きん)入。壱斤掛目(かけめ)百六十目。」(「糸割符由由緒書」、1604~1815での「糸割り符仲間」による記録にして、江戸時代末期に編集されたもの)

 この文中には、「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候」とある。これを、「白糸 (上質の生糸) 割符商法」という。これにより、幕府から特別に許しを得た都市、すなわち1604年(慶長9年)には京都、長崎、堺商人が、1631年からは大坂、江戸の商人も加わる形にて、やがては「五箇所商人」の特権商人に「糸割府仲間」を結成する。中国産生糸を一括輸入する仕組みができた。

 なお、この制度のその後については、1655年(明暦元年)に廃止されてしまう、
それが1685年(貞享2年)には復活し幕末までつづく。そうはいっても、その途中での18世紀中頃には、国産生糸の生産量が増加したことで、精彩はすでに失われていた。

 徳川家康はこれらの得失を踏まえつつ、1609年(慶長14年)、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える。そして、商館を平戸(現在の長崎県平戸市)に設置することを許した。いわゆる「オランダ平戸貿易」の開始である。1610年(慶長15年)、徳川秀忠はスペイン国に通商を許し、翌1611年(慶長18年)、広く南蛮人へ向けて通商が許可された。

 さらに、1715年(正徳5年)に出された『海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
 「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
 正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
 これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。

(続く)

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○200『自然と人間の歴史・日本篇』享保の改革 (1716~1745) 

2020-09-23 11:28:14 | Weblog
😗 200『自然と人間の歴史・日本篇』享保の改革 (1716~1745) 

 ここに享保(きょうほ)の改革とは、徳川吉宗が8代将軍に就任した1716年(享保元年)に始まる、一連の改革をいう。ここでは、そのごく大まかな内容を記したい。


 第一のカテゴリーは、より積極的な、年貢などの増徴策をおこなう。その柱としては、新田開発が目玉となっていた。1722年(享保7年)、幕府は日本橋に次の高札を立てる。

 「覚

 一、諸国御料所又は私領と入組候場所(かかる状況のことを「相給」と呼ぶ。)にても、新田に成るべき場所これ有るに 於ては、其所の御代官、地頭并百姓申談じ、何も得心の上新田取立候仕形、 委細絵図書付にしるし、五畿内は京都町奉行所、西国、中国筋は大坂町奉行 所、北国筋、関八州は江戸町奉行所え願出ずべく候。

 願人或は百姓をだまし、 或は金元のものえ巧を以て勧め、金銀等むさぼり取候儀を専一に存じ、偽り を以て申出づものあらば、吟味の上相とがむるにてこれ有るべき事。

 一、惣て御代官申付け候筋の儀に付、納方の益にも相成らず、下々却て難儀致 し候事これ在らば、これを申出ずべし。併し申立べき謂もこれ無く、自分勝 手によろしき儀計願出におゐては、取上これ無き候事。 右の趣、相心得うべき者なり。
 享保七年寅七月廿六日 奉行」  

 同年、幕府直轄領について出した、新田開発を促す法令には、こうある。

 「惣じて自今新田開発有るべき場所は、吟味次第障りこれなきにおいては、開発仰せ付けらるべく候。(中略) しかしながら、私領一円の内に開くべき新田は、公儀より御構いなく候。心得のため此段相通し候。九月(享保七年)」(「御触書寛保(かんぽう)集成」)


 これの後者は、幕府の基本方針を宣言し、従うように促したもの。また、これの前者は、江戸と京都、大坂の三都の商人に対し新田開発を奨励したもので、これにより開拓されたものを「町人請負新田」と呼ぶ。
 かかる新田の恩恵を受けたのは、商人資本であった。彼らは、幕府から小作料の取得を認められた開発地主となり、その財力で紫雲寺潟新田や飯沼新田、鴻池新田(17世紀初め、河内国)などが拓かれていく。


 次には、年貢の収益、すなわち収納法の改変が加わる。こうなるのには、つまるところ、どのような意図が働いたのだろうか。
 その話とは、こうである。それまで幾分低下傾向であった年貢率そのものの引き上げを図るのが施政者側の正攻法なら、収納方法を畝引検見法から有毛検見法(ありげけみほう)に変更して農民たちに課すことは、「巧妙なる収奪」とでも形容できるだろうか。
 前者は、その年の収穫不足に応じた田畑面積を減じた上(これを「畝引(せびき)」という)、残りの面積の所定の年貢率を掛けて、その年の全体の年貢高を算定する。これなどは、農民にも、受け入れ安いところがあったに違いあるまい。

 これに対して後者は、かなり異なる。すなわち、その田畑の任意の一区画の実収高(これを「有毛」と呼ぶ)を調べ、その高に面積を掛けて収穫高を出し、それに同年貢率を掛けて全体の年貢高を決定するものだ。

 そもそも定免法(じょうめんほう)は、過去数年間の収穫高から年平均の出来高を割り出し、これを基準に3年から10年にわたっての免、すなわち一定の年貢率に割り当てる。
 
 これに対して、有毛検見法とは、田畑の等級によらず、その出来高によって年貢を賦課するもので、定免法が実施されなかった幕府直轄領に対して行われる。

 参考までに、「福井県史」の中には、こんな説明がしてある。

 「定免法は二・三・五・七年などと年期を限るか無年期で、それまで一〇年間ぐらいの年貢の平均をとり、豊凶に関係なく納めさせる方法である。しかし幕府や諸藩の定免法には破免条項もあり、幕府は享保十七年(一七三二)に三割以上の被害があった時には、その年に限って検見取を行うことを定めている。
 幕府領では享保七年から全国的に実施されたが、福井藩ではそれ以前から定免法を採用している村もあり、勝山藩では小笠原氏の入部当初の元禄十年(一六九七)から多くの村で定免法が採用され、鯖江藩も十九世紀には大多数の村で採用していた。
 また、丸岡藩や小浜藩等で採用された土免法は、土地の善し悪しを基準にして租率を春のうちに定めるものであり、農民の願いに応じて行われることが多く、二年、三年といった年期を限り、同一額の年貢を納めることが認められたという点など、定免と大差がなかった。丸岡藩では延宝期(一六七三~八一)にすでにかなりの村で行われていた形跡もあり(斎藤新右衛門家文書)、享保期以降はほとんどの村で行われている(南田家文書)。」(「福井県史」通歴史編集3「近世」)


 それらのほかにも、幕府は、抜け目のないこととして、三分一銀納法を採用、棉花や菜種などの収益性の高い畑作物に対して、主に畿内や西国の農民に適用されていた。それを1722年(享保7年)、幕府はその三分の一銀納を止めてその分を米での納入にするようにと布達した。

 そのあたりのからくりは、例えば、こう言われる。

 「これは最初から農民の困惑を利用して三分一銀納の部分を競り上げることを目的としており、年貢の増徴をもくろむものであった」(仁木良和「1章幕藩体制の成立」:老川・仁木・渡邉「日本経済史ー太閤検地から戦後復興まで」税務経理協会、2002)。

 これらが事実なら、当時の施政者の念頭にあったのは、封建制を何が何でも盤石にしたい、そのためには百姓たちからは獲れるだけ獲とろうとする冷酷非情さ、そして剛胆さであったという他はない。

 これらの年貢増徴策により、幕府の年貢収入は、1716年から1725年までの年平均で約140万石であったのが、途中飢饉などによる収納減収のより道を経て、1744年(延享元年)に一時的に180万石を記録するほどに増加したという(同論文)。


☆☆☆

 第二のカテゴリーとしては、現在でいうところの「財政再建」の主に歳出に関わる改革なのだろう。まずは、代官所の経費をそれまでの口米(くちまい)で賄うのをやめ、その費用を財政から支出することに改める。


 まだある、1722年(享保7年)から1730年(享保15年)までは、「上米(あげまい)」の制度を運営する。この法令には、諸大名に対して、こうある。

 「御旗本に召し置かれ候御家人、御代々段々相増し候。 御蔵入高も先規よりは多く候得共、御切米御扶持方、其外表立ち候御用筋の渡方に引合候ては、畢竟年々不足の事に候。

 然共只今迄は所々の御城米を廻され、或ひは御城金を以て急を弁ぜられ、彼是漸く御取続の事に候得共、今年に至て御切米等も相渡し難く、御仕置筋の御用も御手支の事に候。 


 それに付、御代々御沙汰候これなき事に候得共、万石以上の面々より八木差上げ候う様に仰付けらるべしと思召し候。左候はては御家人の内数百人も御扶持召放たるべくより外はこれ無く候故、御耻辱をも顧みられず、仰出され候。


 高壱万石に付米百石の積り差上げらるべく候。且又此の間和泉守に仰付られ、随分詮議を遂げ、納り方の品、或ひは新田等取立の儀申付け候様にとの御事に候得共、近年の内に相調へがたくこれ有るべく候条、其の内年々上り米仰付らるるこれ有るべく候。


 これに依り在江戸半年充御免成され候間、緩々休息いたし候様にと仰せ出され候。」(「御触書寛保集成」)



 ここに「万石以上の面々より八木(はちぼく)壱百石積もり差し上げらるべき候。(中略)之に依り、在江戸半年充御免成され候間、緩々(ゆるゆる)休息いたし候様ニ仰せ出され候。」とあるのが、この政策の「味噌」の部分なのだろう。

 つまり石高1万石について米100石の割合で幕府の財政に上納せよ、その代償に参勤交代の際に江戸にいる期間を半年に短縮するものであった。付言すると、これには、参勤交代を緩めると、大名統制の面で色々不都合な事が起きるとの、儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)の意見があったのだと伝わる。
 しかして、その後財政事情がやや好転した1730年(享保15年)には、この制度は「めでたく」御用済みとなる。


 次いで、1723年(享保8年)には、『足高の制』が設けられる、その法令には、こうあった。
 
 「享保八年六月、諸役人、役柄に応ぜざる小身の面々、前々より御役料定め置かれ下され候処、知行の高下之れ有る故、今迄定め置かれ候御役料にては、小身の者御奉公続き兼ね申すべく候。

 之れに依て、今度御吟味之れ有り、役柄により其場不相応に小身にて御役勤め候者は、御役勤め候内御足高仰付けられ、御役料増減之れ有り、別紙の通り相極め候。此旨申し渡し可き旨、仰せ出され候。

 但此度の御定の外取り来り候御役料は其侭下し置かれ候。五千石より内は、五千石高に成し下さる可く候。御側衆」(『吹塵録』)


 これはすなわち、「諸役人役柄に応ぜざる小身の面々」、つまり役人の中で与えられた役職を務めるのに禄高が少なくて見合わない者に対し、その「御役料」の足らない分を支給する「足高」を設けたものである。 要は、かかる優秀な人びとに対し、在職中のみ不足の石高を補うことで、人材の実力本位の登用をすすめようとしたのだろう。


 このように、吉宗はじめ幕府は、次々と新政策を打ち出していくのだか、それでも頭を「抱えてしまいかねない「後ろ向き」の話もある。中でも、17世紀中頃からとみに発達してきた貨幣経済は、士族を含め、一方では金銭貸借に関する訴訟を増大されてきていた。

 これについては、当事者間でなんとかならないか、そこで解決が迫られての話であり、1719年(享保8年))に出された「相対済まし令」については、こうある。

 「覚(おぼえ)
 一、近年金銀出入段々多く成り、評定所寄合の節も此儀を専ら取扱い、公事訴訟は末に罷(まかり)成り、評定の本旨を失い候。借金銀、買懸り等の儀は、人々相対 の上の事に候得ば、自今は三奉行所にて済口の取扱い致す間敷候。

 併(しか)し欲心 を以て事を巧み候出入りは、不届き糾明いたし、御仕置申し付くべく候事。

 一、只今迄奉行所にて取上げ、日切に申付け、段々済寄り候金銀の出入も、向 後罷出で間敷き由申し付くべく候事。
享保四亥年十一月」(「御触書寛保集成」)

 ところが、この法令に込められたもう一つの目論みとは、借財に追われる旗本や御家人を救おうというものであり、それなら貸さないという商人などの貸し渋りにも通じていく、そのこともあり、わずか10年後には廃止されてしまう。

 そうはいっても、武士社会の統制は、なし崩し的に緩めていいことにはなっていかなかい、そこで苦肉の策として、1740年(元文5年)に、寺社奉行の大岡忠相(おおおかただすけ)ら三奉行に命じて、現代でいう刑法及び刑事訴訟法を合併しての、「御事方御定書」並びに「御定書百か条」を編集させた。

 「二十六
 一、公儀諸願其外請負事等に付而賄賂差出候もの并取持いたし候もの 軽追放
 但賄賂請候もの其品相返申出におゐてハ賄賂差出候もの并取持いたし候もの供に村役人に候にはば役儀取上平百姓ニ候ははわ過料可申付事。」(「 徳川禁令考後聚(第二帙)67 」など、上下巻での全条文数は81プラス103イコール184か条)

 これらは、従来からの慣習、判例をもとに成文化したものであり、かの「御成敗式目」からの武家政治の経緯を踏まえ、公権力をもって制定されたものである。

 この中で注目すべきは、いたずらに刑を重くするのではなく、とくに重要な犯罪以外は、連座制や拷問をやめ、また追放刑を減らして罰金刑に変えるなどした。
 とはいえ、主人への犯罪行為は従来通りの厳罰で臨むことにしている。しかして、この法令は、一般には知らされず、三奉行と京都所司代、それに大阪城代までの扱いとされた。


☆☆☆
 さらに加えての第三のカテゴリーとして、、今日でいう、広い意味での物価政策なり、社会福祉政策に通じるものがある。

 この頃の物価政策としては、主に、武家の収入源であるところの米価の維持、並びに庶民の日常生活に欠かせない物質の安定供給を促すことであった。
 それというのも、元禄期からの商品経済の発展の過程で、商人たちによる価格支配力が強まっていく。その分、幕府としては、その膝元たる江戸や、「天下の台所」たる大坂での米価と生活関連物価との関係に神経を尖らせていた。

 はたして、そのような観点のみからであったのか、どうか。それというのも、1723年(享保8年)、米価が最高値から下がり始めた直後、大岡忠相ら町奉行は、老中(ろうじゅう)に物価統制を強めるよう、意見書を提出する。

 ついては、翌年春になって、職人親方を主体とする組合の設立を命じる町触が出される。幕府として、問屋に組合結成・登録をさせることに踏みきる。かかる組合は幕府の公認団体の位置付けであり、その統制力を通じ、職人は町奉行による町人支配の一環として体制側に組み込もうとした訳だ。
 ところが、流通はかなり複雑であり、その作業はなかなか進まなかった。ようやくにして迎えた1726年(享保11年)、なんとか15品目の取扱業者の登録ができたという。とはいえ、商品別の仲間結成には至らず、これをもって「株仲間の公認」といってよいのかどうかは、わからない(なお、この辺りの詳しい経緯なりは、辻達也「徳川吉宗とその時代」NHK出版、1995に詳しい。)

 さらに、この流れの後日談としては、吉宗の次の九代将軍家重の治世になると、同組合から徴収する仲間冥加金(なかまみょうがきん)という間接税が創設されており、ひいては職人から税金を巻き上げるとることになっていく。その次の、いわゆる「田沼時代」には、名実ともの形での株仲間を使って幕府が商人の上に君臨する、いわば彼らの元締めになっていく。


 次には、拡大を続ける、江戸の民生に大きく寄与したものに、小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)による公的医療をかいつまんで紹介しよう。

 しかして、かかる分野での案件の一つとして、名判官とうたわれた大岡忠相(おおおかただすけ)は、市井(しせい)に暮らす町人らの生活が危殆に瀕さぬよう腐心していた。そんな彼は、吉宗がまだ紀州藩主の時に見出され、その後も重用される。

 1722年(享保7年)、目安箱に入っていた町医、小川笙船(16721~1760)の投書を読み、大きな感銘を受けたと伝えられる。投書の内容は、1722年に小石川薬草園内に造られた小石川養生所が町奉行所管となったことに関するものであった。これを南町奉行職にあった大岡が担当するところとなり、貧困病人を中心に収容し治療を行う施設として管理、運営していく。

 ヨーロッパの病院が、教会、僧院から出発したのに比べると、こちらは時の政府の政策として展開したもの。ついては、わが国の病院制度の始まりであり、世界的にもさきがけの部類に入る、この国最初の公立病院ともいわれる。


 この方面での話は、まだあるのだろう。1720年(享保5年)には漢訳洋書輸入の緩和が、1721年(享保6年)には目安箱の設置が相次いで行われる。この二つが社会を明るくする可能性は少なからず、庶民に大いに期待されたであろうことは、想像に難くあるまい。とはいえ、その運用については、実績が規定に基づき記録されているわけではなく、「ちゃんとした」というか、然るべき政策として某かの期間通用したことにはなっていないように感じられる。



 ざっと、およそ以上のような多岐にわたる政策展開なのだが、当事者の一角としての幕閣は、どのような基本認識をもって一般庶民に当たっていたのだろうか。それを窺わせるものに、当代の経世の家の一人、本多利明はこういう。

 「田畑に際限あり、出産の米穀に亦際限あり、年貢租税に亦際限あり、其残りの米穀も亦際限あり、其際限ある米穀を以て、下万民の食用を達するを、士・工・商・僧・遊民、日を追、月を追、増殖するゆへ国用不足となる。
 是に於て是非無くも猾吏を選挙して農民を責め虐るより外の所業なし。終に過租税を取り、課役を掛るに至るなり。
 是に於て農民堪えかね、手余地と名け良田畑としれど亡処と為て、租税の減納を謀るなり(中略)斯なり行く勢ゆへに、出生の子を間引ことは扨置き、餓死人も出来する筈なり。
 斯の如く理道明白なるものを、神尾氏(1737年からしばらく勘定奉行として、辣腕を、ふるう・引用者)が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり、といへり。不忠・不貞いふべき様なし。
 日本へ漫る程の罪人共云べし。此の如きの奸曲成邪事は消失がたきものにて、渠が時の尹たる享保度の御取箇辻を以て、当時の規鑑となるは歎敷に非ずや。故に猶農民の詰りと成り、猶間引子するを恥辱とせず。
 次第に農民減少する故、租税も又減少するなり。租税減少する故、庶子も又貧窮するなり。ここに於て間引子の悪癖萌して次第に迷とせんとす。是又悪騒の萌と成なり。是、治乱・存亡・興廃の因てでる境界なり。」(本多利明「西域物語」)

 あわせて、当世の世間での評価はどうだったのかについては、「良い」ものが少なく、吉宗が彼らの視点でもって「名君」であったのかどうかを見極めるのは、かなり難しいのではないだろうか。ここでは、その中でも辛めのものを拾うと、例えばこうある。

 「「上げ米と、いへ上げ米は、気に入らず、金納ならば、しゞうくろふぞ。

 旗本に、今ぞ淋しさ、まさりけり、御金もとらで、暮すと思へば。
 
 物揃。上のおすきな物、御鷹野と下の難儀。毒にも薬にもならぬもの、さゆと戸田山城守。死でも人の惜まぬ物、鼠取らぬ猫と井上河内守。
 無理で人を困らせる物、生酔と水野和泉守。ふだん責めらるゝ物、無間地獄の罪人と小役人。すたり切ッた物、武士の道と太夫格子。なげきかなしむ物、諸人万人。」(「享保世話」、1722~1725をカバーしての、江戸庶民の世間話を集めたもの、著者と成立年代はともに不明)


(続く)


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