175『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山期、江戸初期の対外政策(糸割府制度と朱印船貿易、海舶互市新例)
顧みて、安土桃山から江戸時代の初期にかけての外国との貿易を始めとする関係は、どのようになっていたのだろうか。まずは、1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで、当時博多に出向いていた豊臣秀吉が出したバテレン追放令には、こうある(再録)。
顧みて、安土桃山から江戸時代の初期にかけての外国との貿易を始めとする関係は、どのようになっていたのだろうか。まずは、1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで、当時博多に出向いていた豊臣秀吉が出したバテレン追放令には、こうある(再録)。
「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処。下々として猥義曲事。
一、伴天連其知恵之法を以心さし次第に檀那を持候と被思召候へは、如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可帰国候。其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事。
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、可成其意事。
已上、天正十五年六月十九日 朱印」(『松浦家文書』)
この中で「きりしたん国」とは、ポルトガルとスペイン。「伴天連」とは、宣教師。「黒船」とあるのは「ポルトガルの船」。「今日より廿日之間に用意仕可帰国候」とある。宣教師たちにとっては過酷な沙汰であったろう。背景には、ポルトガル人が日本人を奴隷として連れ去る噂が流れたり、長崎を領する大村純忠(おおむらすみただ)による教会へに寄進の動きがあったりで、そのため疑心暗鬼となった秀吉が態度を硬化させていったとも観られる。
ちなみに、これより5年前の1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名複数の名代として、ローマに少年使節団が派遣されていた。日本で布教に努めていたローマ・カトリック巡察使アレッサンドロ・ヴアリニャーノが、財政難に陥っていた日本での布教事業を立て直そうとして提案したものであった。1590年(天正18年)に日本に帰ってきた4人の日本人は聚楽第で秀吉に謁見したのであったが、特段の不利益は受けなかった。
しかし、これには後日談があり、それから40年ばかり時代が下った1633年(寛永10年)、先頭に立って布教活動をしていた中浦ジュリアン神父は長崎で囚われ、穴吊しの刑で殉教した。なお、4人の仲間のうち一人は「転び」(転向者)となっていて、遠藤周作の小説『沈黙』の主人公、クリストファン・フェレイラとして描かれている。
このように秀吉の禁令は厳しい内容であったとはいえ、その中では「黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事」として、南蛮船による商売は認めていた。それから十数年が経過した16世紀も末の1592年(文禄元年)、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)が行われることになる。『長崎実録大成』には、こうある。
「一、文禄之初年より長崎・京都・堺之者御朱印を頂戴して広南、東京、占城(チャンバ)、 柬捕寨(カンボジア)、六昆(リゴール)、太泥(バタニ)、暹羅(シャム)、台湾、呂宋(ルソン)、阿媽港(アマカワ)等に商売として渡海する 事御免之れ有り。
長崎より五艘、末次平蔵二艘、船本弥平次一艘、荒木宗太郎一艘、糸屋随右衛門一艘、京都より三艘、茶屋四郎次郎一艘、角倉一艘、伏見屋一艘。堺より一艘、伊勢屋一艘」
(『長崎実録大成』、1770年刊)
ここに「占城」(チャンバ)、「六昆」(リゴール)そして「太泥」(バタニ)とは、マレー半島にあった国や都市をいう。山田長政は、アユタヤの日本人町の首長から「六昆」の太守となった。その山田は、1612年の朱印船で、長崎から台湾を経てシャム(現在のタイのありを占めていた)に渡った、そこのアユタヤ郊外に出来ていた日本人街に住んで、貿易活動を営む。
やがては、マラッカ海峡の向こうのインドネシアなどにも進出して、東南アジアのかなり広い地域で交易を行っていた。その商売のやり方は、当時進出していたポルトガルやオランダなどの帝国主義的なやり方とは一線を画した、交易を通じて友好関係を築こうとするものであったらしい。
この貿易だが、徳川家康の幕府開府になっての1604年に、再開される。その後1635年の幕府による鎖国開始の前まで、大名から武士、の商人が船主となって盛んに行われた。
商人には、中国人や欧州人もいた。商人たちが扱っていた品目の量及び種類については、この貿易が行われていた約11年の間での朱印状下付数は353通あった。
輸出は、銀、銅、鉄、薬罐、雑貨、扇子、傘、硫黄、樟腦などであった。また輸入は、生糸、鹿皮、羅紗、絹、綿織物、伽羅、砂糖、蘇木などであった。
要するに、ポルトガル船が長崎に着いたら、糸職人は糸割符仲間の年寄共が「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず」とし、幕府の認める京都、長崎、堺(1631年からは大坂と江戸も入る)の特権商人たちに糸割符仲間を結成させ、その仲間に生糸を一括購入させる、それにあわせてその時々の商品の値段を決めさせた。
そうすることで、それまで主にポルトガル人商人が独占していた中国産生糸の価格決定権を日本側に取り戻し、日本側に利潤が得られるように取り計らう。当時はまだ国産生糸の生産が少量であったことから、国内での生糸産業を保護する施策でもあったろう。
1600年(慶長5年)には、オランダ(蘭)船ダ・リーフデ号が豊後水道(ぶんごすいどう)に現れる。これを受けて1603年(慶長8年)、幕府は長崎奉行を設置する。そして、長崎などにおける白糸 (上質の生糸)を貿易するに、糸割符制度(いとわっぷせいど、ポルトガル人仲間では「パンカダ」と呼ばれた)が設けられる。
というのは、日本国が貿易のうまみに預かろうとした。中国産の生糸の輸入は、それまでポルトガル商人が独占していた。その生糸の価格決定権を日本側に取り戻そうと、1604年(慶長9年)になって、糸職人向けに次の触れを出す。
「黒船著岸の時、定置年寄共、糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候。糸ノ直相定候上ハ、万望次第に商売致すべき者也。
慶長九年五月三日、本多上野介(正純)、板倉伊賀守(勝重)
右の節、御定ノ題糸高(だいいとだか)。京百丸、堺百弐拾丸、長崎百丸。三ケ所合三百弐拾丸、但壱丸五十斤(きん)入。壱斤掛目(かけめ)百六十目。」(「糸割符由由緒書」、1604~1815での「糸割り符仲間」による記録にして、江戸時代末期に編集されたもの)
この文中には、「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候」とある。これを、「白糸 (上質の生糸) 割符商法」という。これにより、幕府から特別に許しを得た都市、すなわち1604年(慶長9年)には京都、長崎、堺商人が、1631年からは大坂、江戸の商人も加わる形にて、やがては「五箇所商人」の特権商人に「糸割府仲間」を結成する。中国産生糸を一括輸入する仕組みができた。
なお、この制度のその後については、1655年(明暦元年)に廃止されてしまう、
それが1685年(貞享2年)には復活し幕末までつづく。そうはいっても、その途中での18世紀中頃には、国産生糸の生産量が増加したことで、精彩はすでに失われていた。
徳川家康はこれらの得失を踏まえつつ、1609年(慶長14年)、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える。そして、商館を平戸(現在の長崎県平戸市)に設置することを許した。いわゆる「オランダ平戸貿易」の開始である。1610年(慶長15年)、徳川秀忠はスペイン国に通商を許し、翌1611年(慶長18年)、広く南蛮人へ向けて通商が許可された。
徳川家康はこれらの得失を踏まえつつ、1609年(慶長14年)、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える。そして、商館を平戸(現在の長崎県平戸市)に設置することを許した。いわゆる「オランダ平戸貿易」の開始である。1610年(慶長15年)、徳川秀忠はスペイン国に通商を許し、翌1611年(慶長18年)、広く南蛮人へ向けて通商が許可された。
さらに、1715年(正徳5年)に出された『海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。
(続く)
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「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。
(続く)
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