○162の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の宗教政策

2020-09-17 21:15:51 | Weblog
162の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の宗教政策


 豊臣秀吉の政権は、キリシタン大名の統制を決め、1587年6月18日付けで、次の命令、「天正十五年六月十八日付覚」を出す。おりしも、秀吉は九州に滞陣していた。現地で、キリシタンの情報を得たり、かれらを呼んで問い質したことで、かかる大方緩めの禁令を発することになったものと見える。

 「一(第1条)、伴天連門徒之儀は、其者之可為心次第事、


 一(第2条)、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。

 一(第3条)、其国郡知行之義、給人被下候事は当座之義に候、給人はかはり候といへ共、百姓は不替ものに候條、理不尽之義何かに付て於有之は、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。

一(第4条)、弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事。

一(第5条)、右の知行より下を取候者は、八宗九宗之義候條、其主一人宛は心次第可成事。

一(第6条)、伴天連門徒之儀は一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡に寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりに成候儀、無其隠候事。

一(第7条)、本願寺門徒其坊主、天満に寺を立させ、雖免置候、寺内に如前々には不被仰付事。 

一(第8条)、国郡又は在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事は、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者は可被加御成敗候事、

一(第9条)、伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義は、八宗九宗之儀候間不苦事。

一(第10条)、大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本におゐて人の売買停止の事。

一(第11条)、牛馬を売買、ころし食事、是又可為曲事事。

右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也。

天正十五年六月」秀吉朱印」(「神宮文庫文書」)

 これにて、なかなかに興味深いのは、(第4条)に、「弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事」ということで、大名や上級武士がキリスト教に入信するためには、秀吉の許可がいることにし、彼らには信仰の自由を認めていない。

 それも「つかの間」ということになろうか、翌1587年6月19日付けでは、次のような、延暦寺や本願寺といった伝統的な勢力と対抗させようとした感がある信長とは異なり、ややこわもての文書、俗にいう「吉利支丹伴天連追放令」または「バテレン追放令」が出される。


「定

 一、日本は神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。

 一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。

 一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第に檀那を持候と被思召候ヘば、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事。

 一、黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。

一、自今以後佛法のさまたけを不成輩は、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。

已上(いじょう)
天正十五年六月十九日 」(「松浦家文書」)


 ついては、これの3番目にある「伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事」というのは、今日から20以内に、このような次第となっているバテレンたちを日本の外に無事導くことにした。

 それでも、「黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事」とあるように、ポルトガル商人との交易はこれからも長く続けていくように命令している。

 秀吉がこれを決めたのは、九州征伐の時とされ、キリシタンへの改宗によって、一説には、神社仏閣の破却が行われ、また教会が日本で領地を所有するようになっている、との情報を得たのが決め手になったという。
 とはいうものの、最後に「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」とあり、今後仏法を邪魔しないようなら、キリシタンの国から日本にやって来てよいことにしている。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○162の1『自然と人間の歴史・日本篇』織田政権の宗教政策

2020-09-17 18:30:23 | Weblog
162の1『自然と人間の歴史・日本篇』織田政権の宗教政策

 信長は、他にも、和泉の槇尾寺(まきおじ)や甲斐(かい)の惠林寺(けいりんじ)と焼いているから、一時の振舞いであろう筈がない。彼が武力をもって臨んだ相手は、武器を持った僧兵ばかりではなかった。
 それというのも、よく知られているのは、比叡山焼討による大量虐殺のみではない。すなわち、1574年(天正2年)伊勢の長島、その2年後の1576年(天正年)の越前での一向一揆の際、相手にまわしたのは浄土真宗信徒たる農民などであった。

 その辺り、例えば、「一向一揆文字瓦」といって、越前国小丸城遺跡から出土した文書(1576年(天正4年)にその城に籠城していた一揆勢の誰かにより記された、現在は越前市指定文化財 味真野史跡保存会蔵)には、こうある。
 
(原文) 
 「此書物、後世に御らんしられ/御物かたり可有候、然者(しかれば)五月廿四日/いき(一揆)おこり、其まゝ前田又左衛門尉殿、いき千人はかり/いけとりさせられ候也/御せいはいは、はつつけ/かまにいられ、あふられ候哉/如此候、一ふて書とゝめ候。」

(書き下し文)
 「この書き物、後世に御覧じられ、御物語りあるべく候。然れば5月24日、一揆起こり、其のまま前田又左衛門尉(利家)殿、一揆千人ばかり生け捕りさせられ候。御成敗は磔(はりつけ)、釜に入られ、炙(あぶ)られ候やかくの如く候。一筆書き留め候。」
 それらの一向宗徒による一揆鎮圧の仕上げが1580年(天正8年)に集結した本願寺・石山合戦であった。この合戦で織田軍は苦戦を強いられるのだが、正親町天皇に間に入ってもらって調停を取り付けることに成功する。そして、頭目であった顕如(けんにょ)を石山本願寺から退去させるのに成功した。

 それでは、なぜ信長はこのような一連の挙に出たのだろうか。信長の宗教観は、本人からは述べられていない。
 それでも、1569年に記されたルイス・フロイスの書簡にも「此の尾張の王は、年齢三十七歳なるべく、(中略)善き理解力と明晰なる判断力を有し、神仏そ其他偶像を軽蔑し、異教一切のトを信ぜず、名義は法華人なれども、宇宙の造主なく、霊魂不滅なることなく、死後何物も存せざるべからざることを明らかに説けり」(訳文、出所は吉田小五郎『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行から引用)とあって、仏教だけを、その信仰内容に目をつけ毛嫌いしていたのではあるまい。

 そこで残る動機としては、仏徒が他の政治勢力と結んで信長の政策妨げたからであるというのが、どうやら本当のことらしい。それが窺えるのが彼のキリスト教への寛容な態度であって、外国からやってきた布教者たち、主にバードレなどが彼の政策に逆らうことなく、高度の新知識を提供し、同時に彼の自負心を満足するように振る舞った。



 さても、その頭脳明晰な筈の信長が、どうしたものか、近臣の者を目的達成のための手段として冷酷に使うところがあった。おそらくは、そのために相手の恐怖や怒りをかうところがあって、妹婿の浅井長政(あざいながまさ)の反発の時は冷や汗をかく。

 ついには家臣の明智光秀に対しても冷たい仕打ちを重ねて止まなかったのに、「このままでは滅亡させられる」と、「反逆」の決意を固めるに至ったのだろうか。光秀の奇襲によって、その信長は志半ばにして本能寺の露と消える。彼の死の前後における、日本のキリスト教布教の状勢を伝えたものに、コエーリョの報告があって、こう書かれている。

 「本年日本に住むキリシタンの数は、ビジタドール(ヴァリニヤノのこと)の得た報告によれば、十五万人内外で、其中には豊後、有馬及び土佐のキリシタンの王(大友宗鱗、有馬晴信、一條兼定)の外にも、高貴な人で親戚及び家臣と共にキリシタンとなった者が多数ある。(中略)キリシタンの在る諸国に大小合せて二百の聖堂がある」(訳文、出所は吉田小五郎氏の『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行、などから引用)

 翻って、この国にキリスト教が伝わったのが1549年(天文18年)であって、そのときのキリシタンたちは、次のような成り行きであった。いわく、「1549年8月の聖母の祝日、デウスは、我らがこれまでにして到着を望んでいた当地方、日本に我らを導き給うた」(「1549年11月5日、鹿児島よりゴアの聖パウロ学院の修道士らに宛て書き送った書簡」、出所は「16~17世紀イエズス会日本報告書」)と。

 それから約30年を経ての、彼の死の前後における、日本のキリスト教布教の状勢を伝えたものに、コエーリョの報告があって、こう書かれている。

 「本年(1581年)日本に住むキリシタンの数は、ビジタドール(ヴァリニヤノのこと)の得た報告によれば、十五万人内外で、其中には豊後、有馬及び土佐のキリシタンの王(大友宗鱗、有馬晴信、一條兼定)の外にも、高貴な人で親戚及び家臣と共にキリシタンとなった者が多数ある。
 キリシタンの大部分は下(しも)の地方、有馬、大村、平戸、天草たさなどに居り、また五島列、壱岐(いき)の地にもキリシタンが在って、その数は十一万五千人に上り、豊後国には一万人、都地方に二万五千人ある。(中略)
 キリシタンの在る諸国に大小合せて二百の聖堂がある」(訳文、出所は吉田小五郎氏の『キリシタン史』慶応義塾大学通信教育部編集、1987発行から引用)



 ちなみに、当時の日本の総人口は、1500万人くらいとされている。この資料からも、信長は、誠は、彼の後の秀吉や家康よりもずっと開明的な君主(彼の脳裏に、「日本国王」としてか、天皇を差し置いての「皇帝」のいずれがあったのかは、判然としない)として振る舞っていく用意というか、度量があった、当時としては珍しい人格識見の持ち主であったことが窺える。

 その最中の1582年6月21日(天正10年旧暦6月2日)、その主君の織田信長が家臣の明智光秀に殺された。これを「本能寺の変」と呼ぶ。これを巡っては、老獪な光秀自身の権力欲によるものか、信長によって追放された前将軍の足利義明の命であるとか、信長が日本国王を目指したことへの反発なのか、イエズス会のフロイスによる述懐などにある家康暗殺説もあって、定説はない。これらの最後の説には、例えば次の如き外国人の見方も加わっている。

 「そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。(中略)
 兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。(中公文庫「完訳フロイス日本史3」より)

 続いて、豊臣秀吉が毛利氏と備前の高梁城を囲んで相対峙する。その最中の1582年6月21日(天正10年旧暦6月2日)、その主君の織田信長が家臣の明智光秀に殺されたという知らせが入った。その時の秀吉は、高梁城を高さ7メートル、長さ3キロメートルの土塁をたった12日間で築くという離れ業をやってのける。

 それで城主の清水宗治に対し水攻めを行っている最中で、ようやく勝機をつかみつつあった。そこで、毛利方と急遽和議を取り結んで、備中高梁から決戦の地である山崎まで10日ばかりで「中国大返し」を行って、明智光秀を滅ぼした。秀吉は、その後、宿老の柴田勝家を滅ぼして織田の跡目を継ぎ、さらに徳川家康も陣営に引き入れる形で、九州、そして小田原を平らげ、1590年(天正18年)に天下統一を果たした。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆

○160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

2020-09-17 10:28:56 | Weblog
160『自然と人間の歴史・日本篇』織田「政権」の政治経済

 織田・豊臣の両政権の時代を指して、日本の「近世」と呼んでいる。手元にある国語辞典をみると、中世とは古代と近世との間の時代、「日本では通常近古を指す。
 また、時に中古をも含める」(金田一京助他「新明解国語辞典」三省堂)とし、その近古(中古の後)と中古(上古と近古の間)はそれぞれ「日本史では鎌倉・室町時代を指す」と「主として平安時代を指し、特に鎌倉時代を含む」のだという。一方、経済史で封建時代とは、普通は奴隷制が崩れてゆく過程もしくはその後に来る社会経済体制のことをいう。
 その封建社会の特徴(メルクマール)は、主な生産手段が封建領主の手に属し、そこで労役を担う者が農奴と呼ばれる。農奴とは、同じ国語辞典をめくると「(中世ヨーロッパなどで)領主から貸与された土地を耕作し、領主に賦役・地代その他の税を納めた人たち。(移動・転業などの自由が奪われていたが、奴隷と異なり人格は認められていた)」とされている。

 そこで、これを基本に日本史の出来事を追ってゆくと、どうなるであろうか。まず奴隷制から封建制への移行の時期には、大別して2説があって、史学の上では未だすっきりとした形では決着がついていないように見受けられる。この見解の違いは、経済史家の土屋喬雄においても、すでにこう述べられる。

 「また多かれ少なかれ奴隷を農耕その他に使役した時代が、我が国の古代にもあった。それは古墳時代・奈良朝時代から平安朝の初期を中心とする時代であったとするのが、従来の定説であった。しかし、ギリシャ・ローマなどのように、自由民の数倍というような多くの奴隷が使役されたことはなかったと考えられている。
 もっとも、十数年前、ある若い歴史学者は、この問題に関する新説を発表し、史学界において論争も行われた。新説とは、日本の歴史上奴隷使役の時代をはなはだ長く見るもので、古代から桃山時代の文禄年間の太閤の検地までをそうした時代とする説である。
 すなわち古代から桃山時代まで家内奴隷として多くの奴隷が農耕にも使役されていたので、桃山時代までが奴隷制の支配的な時代であり、太閤検地を活期として、奴隷から農奴への転換が行われ、したがってそれ以来はじめて日本に封建社会が形成された、という趣旨である。」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)

 この当時の新説については、平安時代の中期以降になると荘園の拡大が起こってくるところから、その新たな担い手としての武士の台頭と相俟って、ここに封建社会の萌芽が発生したというのと、大きな矛盾は認められないのではないか。

 時代が鎌倉時代に下っていくうち、「新補地頭」が幕府の認めるところとなっていった経緯にも見られるように、我が国封建社会は従前からの朝廷を中心とする領地経営に風穴を開けるまでに成長していく。この時代から室町時代(その上半期は「南北朝時代」とも言われる)の中期にもなると、守護大名も台頭して、かれらの領した土地の大きさたるや、もはや荘園すなわち朝廷や貴族や社寺などの領地の大きさの比ではない。
 これら大名たちの間ではしばしば両道拡張のための戦争が行われ、弱小な者が兄弟な者にしだいに併呑されていく過程において、大名領地を基礎とするこの国の封建時代の原型が出来上がったと言えるのではないか。大方の解説書において、守護大名から転じた「戦国大名」たちによる「戦国時代」が、「我が国封建時代の一大転換期であった」(土屋前掲書)とされるのも、この文脈によるのであり、この点、新説には同意しかねる。

 さて、そうした戦国大名の中から頭角を現してきた織田信長は、封建領主でありながら、商工業者が自分の領地で活動するのに便宜を与えることに長けていた。
 1567年(永禄10年)には、岐阜城の城下である美濃の加納地域において、そして1577年(天正5年)には安土(あづち)城下を対象として、織田信長は『楽市楽座令』を出している。この政策には、他の地方で前例があったのだけれども、それに目をつけたのは慧眼であった。
 後者の『楽市楽座令』には、こうある。この措置により、信長の支配地域内での、それまでの「座」による特権商工業者の地位は失われた。

 「定、安土山下町中
一、当所中楽市として仰せ付けられるるの上は、諸座、諸役、諸公事等、悉く免許の事。一、往還の商人、上海道は之を相留め、上下共(のぼりくだりとも)当町に至り寄宿すべし。
一、伝馬(でんま)免許の事。
一、分国中徳政(ぶんこくちゅうとくせい)、之を行ふと雖も、当所中は免除の事。
一、他国ならびに他所の族(やから)当所に罷越し、有付(ありつく)の者、先々より居住の者同前、誰々家来たりと雖も、異議有るべからず。若しくは給人と号し、臨時課役停止(りんじかえきちょうじ)の事。
天正五年六月日」

 なお、これにより「楽市場」での座は廃止されたものの、その他の地域・空間での座の存在、そして関係者の特権が否定されたのではないことに留意されたい。  

 信長は、美濃攻略が成ると本拠地を美濃の岐阜城(稲葉山城から改名)を造り、そのうちに天下を望もうとしたのであろう、あれやこれやの文書などに「天下布武」の朱印を用いる。
 ただし、その「天下」とは、当面は畿内(山城、大和、摂津、和泉、河内など)もしくは京だけを指す場合に限られていた。

 そんな中でも、「関所の撤廃」については、1568年(永祿11年)に自らの領国内の関所を廃止した。

 「永禄十一年十月、(中略)且は天下の往還の旅人御憐愍の儀を思しめされ御分国中に数多ある諸関諸役上(あげ)させられ、都鄙(とひ)の貴賎一同に忝(かたじけな)しと拝し奉り、満足仕り候ひおわんぬ。」(「信長公記」)
 
 これの最大の狙いは、領内の、足利幕府や荘園領主らが商人らに課していた通行料の徴収を廃することで、かれらの独自財源を奪うとともに、自らの領国の専制支配、掌握、それに経済の発展を計るためのものであったろう。


 次には、信長が行った「指定検地」というのは、どんなものであったのだろうか。僧侶の英俊の記した「多聞院日記」には、こうある。

 「天正八年九月廿六日、当国中寺社・本所・諸寺・諸山・国衆悉く以て一円に指出す可きの旨、悉く以て相触れられおはんぬ。沈思沈思。申出さる一書の趣、これを写す。
  敬白 霊社起請文前書の事。
一、当寺領并びに私領買得分皆一職。何町何段の事。
一、諸談義唐院・新坊何町何段の事。
一、名主拘分、何町何段の事。
一、百姓得分、何町何段の事。
一、当寺老若・衆中・被官・家来私領并びに買得分、扶持分、何町何段の事。
 右、五ケ条の書付以て申入れ、田畠・屋敷・山林聊も隠置き申す儀これ無く候。その為、何れも本帳御目に懸け候。若し此の旨御不審に於ては、急度百姓前直ちに御糺明なさるべく候。
 その上多少に寄らず出来分これあるに到らば、曲事たり。惣寺領悉く以て御勘落あるべし。安土、上聞に達せらるべし。証文として、宝印を飜し、血判を据え申上ぐる者なり。仍て前書件の如し。
  九月 日 興福寺衆徒中
 滝川左近殿
 惟任日向守殿
 此の如く申したる。前代未聞是非なき次第。日月地におちず、神慮頼み奉る計りなり。(中略)。
 十一月二日。(中略)滝川・惟任今暁七つ時分より帰了と。三十八日ばかり滞留か。その間の国中上下の物思ひ・煩ひ、造作苦痛迷惑、既果たる衆地獄の苦しみも同じならん」(英俊「多門院日記」)

 しかして、これに「指出」と、いうのは、新たな領内の旧領主たちが信長に差し出す土地についての書類にて、当該地域の所領内容の目録とその基準となる帳簿の提出を求める、そしてこれを吟味し、承認することにしていた。あわせて、必要と認める場合は、越前などのように、現地に人を派遣して実地調査を行う。
 ちなみに、本史料の出元は、1580年(天正8年)の大和国の案件につき、興福寺の僧侶、英俊が紹介したものであり、これより前に信長は、大和一国支配権利を松永久英や原田直政に与えたことで、興福寺の当該地への支配は弱体化もしくは有名無実化していたのが推察されよう。

(続く)


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


(続く)


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆