162の2『自然と人間の歴史・日本篇』豊臣政権の宗教政策
豊臣秀吉の政権は、キリシタン大名の統制を決め、1587年6月18日付けで、次の命令、「天正十五年六月十八日付覚」を出す。おりしも、秀吉は九州に滞陣していた。現地で、キリシタンの情報を得たり、かれらを呼んで問い質したことで、かかる大方緩めの禁令を発することになったものと見える。
豊臣秀吉の政権は、キリシタン大名の統制を決め、1587年6月18日付けで、次の命令、「天正十五年六月十八日付覚」を出す。おりしも、秀吉は九州に滞陣していた。現地で、キリシタンの情報を得たり、かれらを呼んで問い質したことで、かかる大方緩めの禁令を発することになったものと見える。
「一(第1条)、伴天連門徒之儀は、其者之可為心次第事、
一(第2条)、国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事。
一(第3条)、其国郡知行之義、給人被下候事は当座之義に候、給人はかはり候といへ共、百姓は不替ものに候條、理不尽之義何かに付て於有之は、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
一(第4条)、弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事。
一(第5条)、右の知行より下を取候者は、八宗九宗之義候條、其主一人宛は心次第可成事。
一(第6条)、伴天連門徒之儀は一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡に寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりに成候儀、無其隠候事。
一(第7条)、本願寺門徒其坊主、天満に寺を立させ、雖免置候、寺内に如前々には不被仰付事。
一(第8条)、国郡又は在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事は、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者は可被加御成敗候事、
一(第9条)、伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義は、八宗九宗之儀候間不苦事。
一(第10条)、大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本におゐて人の売買停止の事。
一(第11条)、牛馬を売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也。
天正十五年六月」秀吉朱印」(「神宮文庫文書」)
これにて、なかなかに興味深いのは、(第4条)に、「弐百町ニ三千貫より上之者(貫高に直すと、2000~3000貫より上の所領を持っ者をいう・引用者)、伴天連に成候に於いては、奉得公儀御意次第に成可申候事」ということで、大名や上級武士がキリスト教に入信するためには、秀吉の許可がいることにし、彼らには信仰の自由を認めていない。
それも「つかの間」ということになろうか、翌1587年6月19日付けでは、次のような、延暦寺や本願寺といった伝統的な勢力と対抗させようとした感がある信長とは異なり、ややこわもての文書、俗にいう「吉利支丹伴天連追放令」または「バテレン追放令」が出される。
それも「つかの間」ということになろうか、翌1587年6月19日付けでは、次のような、延暦寺や本願寺といった伝統的な勢力と対抗させようとした感がある信長とは異なり、ややこわもての文書、俗にいう「吉利支丹伴天連追放令」または「バテレン追放令」が出される。
「定
一、日本は神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
一、伴天連其智恵之法を以、心さし次第に檀那を持候と被思召候ヘば、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事。
一、黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
一、自今以後佛法のさまたけを不成輩は、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上(いじょう)
天正十五年六月十九日 」(「松浦家文書」)
ついては、これの3番目にある「伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事」というのは、今日から20以内に、このような次第となっているバテレンたちを日本の外に無事導くことにした。
それでも、「黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事」とあるように、ポルトガル商人との交易はこれからも長く続けていくように命令している。
秀吉がこれを決めたのは、九州征伐の時とされ、キリシタンへの改宗によって、一説には、神社仏閣の破却が行われ、また教会が日本で領地を所有するようになっている、との情報を得たのが決め手になったという。
とはいうものの、最後に「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」とあり、今後仏法を邪魔しないようなら、キリシタンの国から日本にやって来てよいことにしている。
天正十五年六月十九日 」(「松浦家文書」)
ついては、これの3番目にある「伴天連儀日本之地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之は、曲事たるへき事」というのは、今日から20以内に、このような次第となっているバテレンたちを日本の外に無事導くことにした。
それでも、「黑船之儀は商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事」とあるように、ポルトガル商人との交易はこれからも長く続けていくように命令している。
秀吉がこれを決めたのは、九州征伐の時とされ、キリシタンへの改宗によって、一説には、神社仏閣の破却が行われ、また教会が日本で領地を所有するようになっている、との情報を得たのが決め手になったという。
とはいうものの、最後に「自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」とあり、今後仏法を邪魔しないようなら、キリシタンの国から日本にやって来てよいことにしている。
(続く)
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