171の2『自然と人間の歴史・日本篇』文禄の役(1592~1596)、慶長の役(1597~1598)
この時期での朝鮮への出兵の狙いとしては、日本による大陸への領土拡張、侵略であり、秀吉にとっての、日本統一の前からの野望であった。そういえば、信長も生前、大陸への侵略を口にしていた。
朝鮮はおろか、明国まで攻め入ろうとして、九州の名護屋に諸候を集め、準備を整えていく。
そして迎えた文禄(ぶんろく)の役、日本からの遠征軍は、9つに編成されていた。その内訳は、次の通り。
第一軍は、小西行長、宗義智ら1万8700人。第二軍は、加藤清正、鍋島直茂ら2万2800人。第三軍は、黒田長政、大友義統らで1万1000人。第四軍は、島津義弘、毛利吉成らの1万4000人。
第五軍は、福島正則、蜂須賀家政らで2万5000人。第六軍は、小早川隆景、立花宗茂らで1万5700人。第七軍は、毛利輝元の3万人。第八軍は、宇喜多秀家の1万人。そして第九軍は、豊臣秀勝らの1万5500人。それらの総計は、15万8700人どされる(以上は、「毛利家文書・秀吉朱印状」)。
最初に上陸したのは、釜山浦(現在のプサン)であった。それから20日位で都の漢城(ハニャン、現在のソウル)を占領する。まさに、破竹の勢いであった。
その後は、もたついていく。第一軍については、平安道(ピョンアンド現在の北朝鮮西部)を平壌(現在のピョンヤン)までいく。
第二軍は、咸鏡道(現在の北朝鮮東部)を行き、そのうち現在の北朝鮮・中国・ロシア国境付近まで攻めていく。
その間は、概ね連戦連勝ながらも、明からの援軍到来、李舜臣率いる朝鮮水軍の奇襲、義兵の蜂起により、戦局は傾いていく。
この時期での朝鮮への出兵の狙いとしては、日本による大陸への領土拡張、侵略であり、秀吉にとっての、日本統一の前からの野望であった。そういえば、信長も生前、大陸への侵略を口にしていた。
朝鮮はおろか、明国まで攻め入ろうとして、九州の名護屋に諸候を集め、準備を整えていく。
そして迎えた文禄(ぶんろく)の役、日本からの遠征軍は、9つに編成されていた。その内訳は、次の通り。
第一軍は、小西行長、宗義智ら1万8700人。第二軍は、加藤清正、鍋島直茂ら2万2800人。第三軍は、黒田長政、大友義統らで1万1000人。第四軍は、島津義弘、毛利吉成らの1万4000人。
第五軍は、福島正則、蜂須賀家政らで2万5000人。第六軍は、小早川隆景、立花宗茂らで1万5700人。第七軍は、毛利輝元の3万人。第八軍は、宇喜多秀家の1万人。そして第九軍は、豊臣秀勝らの1万5500人。それらの総計は、15万8700人どされる(以上は、「毛利家文書・秀吉朱印状」)。
最初に上陸したのは、釜山浦(現在のプサン)であった。それから20日位で都の漢城(ハニャン、現在のソウル)を占領する。まさに、破竹の勢いであった。
その後は、もたついていく。第一軍については、平安道(ピョンアンド現在の北朝鮮西部)を平壌(現在のピョンヤン)までいく。
第二軍は、咸鏡道(現在の北朝鮮東部)を行き、そのうち現在の北朝鮮・中国・ロシア国境付近まで攻めていく。
その間は、概ね連戦連勝ながらも、明からの援軍到来、李舜臣率いる朝鮮水軍の奇襲、義兵の蜂起により、戦局は傾いていく。
それからは、敵味方で入り乱れてもあり、一進一退の攻防を繰り広げる。日本は攻めあぐねるようになり、明との講和交渉が始まる。
その一方で、戦局は日本にとりうまくなくなっていく。朝鮮半島南部の支配、日本本土との補給連絡線の確保に難渋していく。また、李舜臣の率いる朝鮮水軍の奇襲にあう。それにも備えるべく、朝鮮半島南岸に多くの城を築く。
その一方で、戦局は日本にとりうまくなくなっていく。朝鮮半島南部の支配、日本本土との補給連絡線の確保に難渋していく。また、李舜臣の率いる朝鮮水軍の奇襲にあう。それにも備えるべく、朝鮮半島南岸に多くの城を築く。
1597年(慶長2年)、日本と明との間で行われていた講和交渉は決裂してしまう。日本軍は、再び朝鮮半島へ。数ヶ所で城を築き、朝鮮半島南部を拠点に北上を狙う。
ところが、秀吉の突然の死により、再度の侵略は頓挫が決定付けられたようだ。やむなくというか、「もう疲れた」というか、しかし、多くの武将がかれの死により遠征は早晩終わると、確信したのではなかったか。徳川家康らが中心となり撤退方針をまとめ、現地に命令を下し、全軍は朝鮮半島を撤退していく。
それでは、これら二つの「役(えき)」が国内にもたらしたものとは、何であったのだろうか。まずは、豊臣政権の弱体化が進んでいった。この道理なき戦いに主に動員されたのは西国の大名で、秀吉恩顧の面々の中には、しだいに政権の中枢から遠ざけられ、重用されないままに重い負担を強いられた分、人によっては複雑な心境になるのを強いられたのかもしれない。
別に、黒田官兵衛については、晩年の頭がまともに働かなくなり、羅針盤を失いつつあった秀吉にとっては頼みの綱であったろうに、官兵衛もまた側近政治に疎まれていく。そう言えば、かの伝説を作ったと評判の「中国大返し」も、天下統一の決め手となったであろう「九州平定」についても、官兵衛の働きがあってこそのことであろうし、自身が衰えつつあることを自覚していたであろう秀吉は、政権内の実力者となりうる官兵衛を警戒してしていたのではなかろうか。
しかしながら、水というものは、つっかえがなくなれば、高きから低きへと流れていくものだ、世の中もまた然り。秀吉への忠誠心から彼の存命中は持ちこたえでいたのであろう。けれども、かかる主君がいなくなると、今度は石田三成ら内務官僚の顔を持つ者などへの反感が増していくは自然の成り行きであったろう。
(続く)
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(続く)
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