○169『自然と人間の歴史・日本篇』鉄砲伝来(1543)

2020-09-13 21:28:42 | Weblog
169『自然と人間の歴史・日本篇』鉄砲伝来(1543)

 
 日本の戦国時代に鉄砲がもたらされたのには、諸説がある。それらの大元の話としては、1543年(天文12年)での種子島伝来説が有名で、これにあるのは、種子島の門倉岬西村の小浦に漂着したポルトガル人により、島の領主たる種子島時堯が、二挺の鉄砲をポルトガル人から買い取ったという訳だ。

 その模様について、禅僧の南浦文之(なんぽぶんし)が1606年(慶長11年)に著した「鉄砲記」に、こうある。

 「是より先、天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。

 時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、(中略)、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』と。(中略)

 賈胡の長二人有り、一を牟良叔舎と日い、一を喜利志多佗太と日う。手に一物を携う。長さ二、三尺。其の体たるや、中通り外は直く、しかも重きを以て質となす。其の中常に通ると雖も、其の底密塞を要す。其の傍に一穴有り、火を通すの路なり。形象物の比倫すべきなきなり。

 其の用たるや、妙薬を其の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先ず一小白を岸畔に置き、親ら一物を手にして其の身を修め、其の目を眇にして、其の一穴より火を放てば、則ち立ち所に中らざるはなし。其発するや掣電光の如く、其鳴るや驚雷の轟の如く、聞く者其耳を掩わざるはなし。(中略)時尭其の価の高くして及び難きを言はずして、蛮種の二鉄炮を求め、以て家珍となす。」(南浦文之「鉄砲記」)


 これの作者の南浦文之は、中国の朱子学に精通し、薩摩の島津義久、島津義弘、島津家久の3代に仕え、藩の外交、内政に尽力した人物にして、種子島でのやり取りを、誰かに聞いたのであろうか。


 要は、こうしてポルトガル人により種子島に伝来したもの2丁のうち1丁が、島津氏の島津義久に渡り、そこから将軍足利義晴へと伝わり、義晴は近江国の国・国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の刀工にして国友鍛冶、善兵衛に対し種子島銃の模造を命じ、善兵衛は苦心の末に種子島銃の複製に成功したという。


 それでは、日本にもたらされた、もう一丁の種子島銃は行方はどうなったのだろうか。興味深いことに、こちらは種子島氏が手元に所有し、家臣に模造するように命じ、一説には、完成段階とはいえないにしても、なんとかして模造品をつくる技術が開発されたのであろう。

 そこから流れとしては、次の二つに別れて伝わっていく。まずは、当時、琉球との貿易に従事していた堺の貿易商・橘屋又三郎が種子島に立ち寄り、対馬氏からの製造技術を持ち帰る、そして堺の桜之町に鉄砲を作らせる。それというのも、堺の職人たちは、新技術に対応できる鍛冶屋の技能を持っていて、試行錯誤のうちにやがて目的のものをつくることができたという。

 そればかりか、紀州の根来寺(現在の和歌山県岩出市根来)にも、同様の技術が伝えられ、こちらは堺の刀工、芝辻清右衛門が依頼を受けて、苦心の末に種子島銃の複製に漕ぎ着けたという。
 

 それからは、戦国大名たちが、このできたばかりの種子島銃をこぞって手に入れようと働きかける。中でも織田信長は、1553年、舅である美濃の斎藤道三と初対面する際には、兵士に500挺もの新兵器の鉄砲を持たせた、と伝わる程に、大量の注文をするとともに、その生産地を支配下におくべく、精力を傾けていく。


(続く)

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