152『自然と人間の歴史・日本篇』戦国大名の分国法
分国法(ぶんこくほう)というのは、戦国大事たちが自分史たちの領国支配のためにつくって、統治の要とした定めであった。
早い時期のものでは、「朝倉孝景条々」(認定は1471~1481)、「大内氏掟書」(認定者は大内持世(おおうちもちよ)、大内義隆(おおうちよしたか)、認定年は1495頃)が有名だ。
ここでは、武田晴信(のちの武田信玄)が1547年(天文16年)に定めた「甲州法度之次第」(「信玄家法」、「甲州法度」、あるいは「甲州式目」とも呼ばれる)を、ごく簡単に紹介しよう。
この年は、晴信が宿老の板垣らの要請があってか、父の武田信虎(たけだのぶとら)を追放した、それから十年目であり、そろそろ治世の本領発揮の時を迎えていたのだろう。
この法令の構成は、57カ条の上巻と、99カ条の下巻に分かれており、上巻が法令集なのに対し、下巻は前者よりやや緩い形での、概ね「家訓」に近い。
まずは、第1条において、「国中の地頭人」と「晴信被官」をはじめとする者らとの間柄を取り上げる。どのような関わりかというと、「田畠」のこと、「年貢・諸役等」、さらに「恩地」、「在家ならびに妻子資財の事」に至るまで、全般的に細かに説き起こすことを宣言する。
しかしながら、それだけでは心許ないのか、終わりの部分に近い第55条には、こうある。
分国法(ぶんこくほう)というのは、戦国大事たちが自分史たちの領国支配のためにつくって、統治の要とした定めであった。
早い時期のものでは、「朝倉孝景条々」(認定は1471~1481)、「大内氏掟書」(認定者は大内持世(おおうちもちよ)、大内義隆(おおうちよしたか)、認定年は1495頃)が有名だ。
ここでは、武田晴信(のちの武田信玄)が1547年(天文16年)に定めた「甲州法度之次第」(「信玄家法」、「甲州法度」、あるいは「甲州式目」とも呼ばれる)を、ごく簡単に紹介しよう。
この年は、晴信が宿老の板垣らの要請があってか、父の武田信虎(たけだのぶとら)を追放した、それから十年目であり、そろそろ治世の本領発揮の時を迎えていたのだろう。
この法令の構成は、57カ条の上巻と、99カ条の下巻に分かれており、上巻が法令集なのに対し、下巻は前者よりやや緩い形での、概ね「家訓」に近い。
まずは、第1条において、「国中の地頭人」と「晴信被官」をはじめとする者らとの間柄を取り上げる。どのような関わりかというと、「田畠」のこと、「年貢・諸役等」、さらに「恩地」、「在家ならびに妻子資財の事」に至るまで、全般的に細かに説き起こすことを宣言する。
しかしながら、それだけでは心許ないのか、終わりの部分に近い第55条には、こうある。
「晴信、行儀其の外の法度以下に於て旨趣相違の事あらば、貴賤を撰ばず 目安を以て申すべし。時宜に依って、其の覚悟すべきものなり。 右五十五ヶ条は、天文十六丁末(年)六月定め置きおわんぬ。 追って二ヶ条は天文二十三甲寅五月之を定む。」
かくして、施政者自ら「時宜に依って、其の覚悟すべきものなり」といい放ち、この法令を遵守すると誓う。そのことにより、一人の例外なく法令にたがわぬように仕向けている。すなわち、晴信が率先して模範を示すことでなければ、皆が納得してこの法令を遵守することにはなるまい、との熟慮が窺えよう。
かくして、施政者自ら「時宜に依って、其の覚悟すべきものなり」といい放ち、この法令を遵守すると誓う。そのことにより、一人の例外なく法令にたがわぬように仕向けている。すなわち、晴信が率先して模範を示すことでなければ、皆が納得してこの法令を遵守することにはなるまい、との熟慮が窺えよう。
それからは、家臣が喧嘩した際の「両成敗」をはじめ色々あるも、やはり統治の根本としては、土地とそこからの収穫、したがって年貢などに関しての、領主と「百姓」の、前者による後者に対しての支配(後者からいうと、前者への従属関係)を論じていて、おもなる項目としては、次の三つであろうか。
第6条
「百姓、年貢を抑留するの事、罪科軽からず。 百姓に於いては、地頭の覚悟に任せ所務せしむべし。 若し非分の儀あらば検使を以って之を改むべし。」
この規定は、農民が、地頭の年貢などを納入しないのを、あくまでも未然に防ぎたいのだろう。
第7条
「名田地、意趣なく取り放すの事、非法の至りなり。但し年貢等過分の無沙汰あり あまつさへ両年に至りては是非に及ばざるか。」
第57条
「百姓隠田あらば、数拾年を経ると雖も、地頭の見聞きに任せ、之を改むべし。 然うして百姓申す旨あらば、対決に及び猶以て分明ならずば、実検使を遣し 之を定べし。若し地頭非分あらば、其の過怠あるべし。」
これらの規定の中には、要は、百姓はがんじがらめの状態にして、万事抜かりなく、その働き如何を監視していたのが窺えよう。
これらの規定の中には、要は、百姓はがんじがらめの状態にして、万事抜かりなく、その働き如何を監視していたのが窺えよう。
なお参考までに、伊達氏の例にはさらなる下りがあって、「一、ひやくしやう、ちとうのねんくしよたう相つとめす、たりやうへまかりさる事、ぬす人のさいくはたるへし。」(153年の6「塵芥集」、伊達種宗(だてたねむね)、平易なかな混じり文でしるされているのは、「後成敗式も目」にならった、と伝わる)とあり、地頭の年貢などを納入することなく、他の領主の所領に逃げ込んだ場合には、「盗人」として追及することになっていた。
その他の珍しい取り決めでは、例えば第22条には、「浄土宗、日蓮宗と、分国に於いて法論あるべからず 若し取り持つ人あらば、師檀共に罪科に処すべし。」といって、支配階層から見て世俗権威にさからう者には信教の自由を認めていない。
なお、他の大名においても、領国の置かれている状況の違いを受けてだろうか、例えば、「今川仮名目録」(1526、今川氏親(いまがわうじちか))には、こうある。
「駿遠両国の輩(ともがら)、或(あるいは)わたくしとして他国よりよめ(嫁)を取、或ハむこ(婿)に取、むすめ(娘)をつかはす事、自今(じこん)以後これを停止(ちようじ)し畢(おわ)んぬ。」
と、いうことで、血統を重んじる家風を家臣に押し付けているのは、いかがなものか。
(続く)
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