○200の3『自然と人間の歴史・日本篇』享保の分地制限令(1721)と質地禁止令(1722)

2020-09-24 22:50:55 | Weblog
200の3『自然と人間の歴史・日本篇』享保の分地制限令(1721)と質地禁止令(1722)


 まずは、江戸時代に入ってからの、この問題の経緯をかいつまんで顧みよう。1643年には、次のような田畑永代売買禁止令が発布される。

 「一、身上能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者は田畑沽 却せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後田畑売買停止たるべき事。
寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)

 この法令で、田畑を売買することを禁止するまでには、その売買を通じて、農民の中の富裕層に土地が集まり、農民の間で階層分化がやむことなくすすんでいた。


 中でも1641年、大凶作が起きると、困窮した農民が田畑を売り払って没落し、その一部は流民になる事態が起こる。


 そこでこの法令では、田畑を売買した場合には、その売り手も買い手も厳罰に処される。売り手は村を追放され、買い手は買い取った田畑を没収された。

 しかし、そもそも田畑を売買するに至るのは、重い年貢を払えないからではないか。そうであるならば、そうなっていく下地そのものを改めていくべきだろう。しかし、それはならず、したがって以後も、そのような状況が改善されることはなかった。そのため、農民の中には厳罰を覚悟の上で田畑を売買する者が続く。


 こうした状況を前に、寛文期の法令が発布される。

 「一、百姓田畑配分定めの事、高は拾石、反別は壱町歩より内所持のものは割り分くべからず。
 前々より拾石の内田地持つものは、配分御制禁たりとい へども、近来、密々猥りに相分け候由相聞え候。
 自今、拾石、壱町歩の外 に余分を配分すべし、此定より少し残すべからず。

 是より内所持のものは 配分御停止に候間、厄介人之れ有るものは、同所にて耕作の働き仕り、渡 世致させ、又は相応の奉行に差し出すべき事。(以下、略)
 延宝元年」(「徳川禁令考」)

 それでも効果がなかった、と見えて、1721年(享保6年)には、寛文期に続いて、次なる「享保の分地制限令」が出される。

 「一、田畑配分定(さだめ)の事、高拾石、地面壱町
 右の定よりすくなく分け候停止(ちょうじ)たり。尤(もっと)も、分け方に限らず、残り高も此(こ)の定よりすくなく残すべからず。   然ル上は高弐拾石地面二町よりすくなき田地持ちは、子供を始め、諸親類の内え田地配分罷(まか)り成らず候間、養介人(ようかいにん)これ有る者は、在所にて耕作の働きにて渡世(とせい)致させ、或いは相応の奉公人に差し出すべき事。
 (「御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゆうせい)」)

 改善点としては、制限を一層明確にしたこと。分地する方も分地される方も10石一町歩(ちょうぶ)以下になってはならない。そして、石高20石、田畑二町歩以下の者の分地を禁じたことになっている。
 たしかに、「石高20石、田畑二町歩」で線引きし、そこで激流を、塞き止めるというのは、一利あろう(ちなみに、筆者の生家は専業農家であって、その農地は一町八反であったから、この定めの意味するところは、なんとなく(体)でわかる気がする)。しかしながら、波の勢いの方が上回っていたのであろうか。
 
 さらに、それでも効果がなかった、と見えて、1722年(享保7年)、幕府は、今度は田畑の売買禁止にあわせて、田畑の質流れを認めない法令としての「質地禁止令」を発布する。

 それと、公権力を使って田畑を質入れすることを禁じることには、1722年(享保7年)~1723年(享保8年)にかけて、越後(えちご)、羽前(うぜん)一帯で大規模な反対運動(これを「質地騒動」と呼ぶ)が起こり、結局、約1年で廃止されてしまう。

 それからの幕府は、土地の質流れによる農地の小規模化、空洞化を黙認するのであった。そのため、以後は質入れされる田畑が「影に日向に」増えていく。


(続く)


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新○174『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の農民政策(~1673)

2020-09-24 21:53:45 | Weblog
174『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代初期の農民政策(~1673)

 1643年(寛永20年)、幕府は本百姓体制の維持を目指して「田畠永代売買の禁令」を出す。おりしも、前年来の全国的な「寛永飢饉」の最中にあった。そのとき、3代家光将軍を補佐していたのは、「智慧伊豆」の異名を持つ松平信綱(まつだいらのぶつな)に他ならない。

 「一、身上能き百姓は田地を買い取り、弥(いよいよ)宜く成り、身躰(しんだい)成らざる者は田畠こ却(こきゃく)せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後(きょうご)田畠売買停止為るべき事。(寛永)二十年(1643年)未(ひつじ)三月」(御触書寛保集成より)

 ならば、「田畑永代売買禁止令の罰則条項」はどうなっていたかというと、甚だ厳しい掟(おきて)となっていた。
 「田畑永代売買御仕置
一、売主牢舎之上追放。本人死候時ハ子同罪。
一、買主過怠牢。本人死候時ハ子同罪。但買候田畑ハ売主之御代官又ハ地頭江 取上之。
一、証人過怠牢。本人死候時ハ子ニ構なし。 
一、質に取り候者、作り取りにして質に置き候者より年貢役相勤候得ハ、永代 売同前之御仕置、但頼納質といふ。
  右の通り田畑永代売買御停止之旨被仰出候。
   寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)

 これと並んで、同年、「田畑勝手作の禁止令」が出される。

 「一、…本田畑にたばこ作申間敷旨、被仰出候。
 一、田方に木綿作り申す間敷事。
 一、田畑共に、油の用として菜種作り申す間敷事。
    寛永二十年八月廿六日」(「徳川禁令考」)

 こちらは、「郷村御触」23か条の中、本田畑でのたばこ、木綿、菜種の作付けを禁止する令をいい、寛永の飢饉(ききん)による農村の疲弊という状況下で、年貢の確保と本百姓の経営を守るのを目的とする。 
 なお、この条文は。1871年(明治4年)、明治政府の田畑勝手作りの許可により廃止された。
 
 それらにもかかわらず、政策の効果の出具合が薄かったものと見える。そこで幕府は、1673年(寛文13年・延宝元年)になると、幕府は農民の零細化を防止するために、名主は2町歩・20石、百姓は1町歩・10石以上の者の土地分割相続を制限した措置を講じる。

 「一、名主、百姓、田畑持候大積(おおづも)もり、名主(なぬし)(二十)石以上、百姓は(十)石以上、それより内に持に候者は石高猥(みだ)りに分ヶ申間敷(もうすまじき)・・・・・。」(近藤守重『憲教類典』より)

 これとても、封建社会乍らの商品経済が発達していく中、土地の質入れなどによる流動化を止めることはできず、その後も同様の法令などが繰り返されることになっていく。これが解禁になるのは、封建的な土地所有がブルジョア的な土地規制に置き換わる最初となる、明治の土地改正条例公布の前年、1873年(明治5年)のことである。

 1649年(慶安2年)、3将軍徳川家光の時、32か条にわたる農民への「お達し」が下されたことになっている。近年その存在が疑問視されていることもあるが、次のように微に入り細に入り、「これでもか」といわんばかりに農民生活のあれこれを指図している。

 「慶 安 御 觸 書
慶安二丑年二月廿六日
  諸國郷村江被仰出
一 公儀御法度を怠り地頭代官之事をおろかに不存扨又名主組頭をハ眞の親とおもふへき事
(中略)
一 朝おきを致し朝草を苅晝ハ田畑耕作にかゝり晩にハ繩をないたわらをあみ何にてもそれそれの仕事無油斷可仕事
一 酒茶を買のみ申間敷候妻子同前之事
(中略)
一 百姓は衣類之儀布木綿より外ハ帶衣裏ニも仕間敷事
(中略)
一 たは粉のみ申間敷候是ハ食にも不成結句以來煩ニ成ものニ候其上隙もかけ代物も入火の用心も惡候万事ニ損成ものニ候事
(中略)
  附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事

一 親に能々孝行之心深くあるへしおやに孝行之第一は其身無病にて煩候はぬ樣ニ扨又大酒を買のみ喧嘩すき不仕樣に身持を能いたし兄弟中よく兄は弟をあわれみ弟は兄に隨ひたかいにむつましけれは親殊之外悦ものニ候此趣を守り候得ハ佛神之御惠もありて道にも叶作も能出來とりみも多く有之ものニ候何程親に孝行の心有之も手前ふへんに而は成かたく候間なる程身持を能可仕候身上不成候得はひんくの煩も出來心もひかみ又は盗をも仕公儀御法度をも背しはりからめられ籠に入又は死罪はり付なとにかゝり候時は親之身に成ては何程悲しく可有之候。

 其上妻子兄弟一門之ものにもなけきをかけ恥をさらし候間能々身持を致しふへん不仕樣に毎日毎夜心掛申へき事右之如くに物毎入念身持をかせき申へく候身持好成米金雜穀をも持候はば家をもよく作り衣類食物以下に付心之儘なるへし米金雜穀を澤山に持候とて無理に地頭代官よりも取事なく天下泰平之御代なれは脇よりおさへとる者も無之然は子孫迄うとくに暮し無間きゝん之時も妻子下人等をも心安くはこくみ候年貢さへすまし候得は百姓程心易きものは無之よくよく此趣を心かけ子々孫々迄申傳へ能々身持をかせき可申もの也。
慶安二年丑二月廿六日」(「慶安御觸書」は、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の『徳川禁令考』に所収)

 これらのくどくど百姓の生活をがんじがらめにしておきながら、締めくくりのフレーズである「附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事」において、「年貢さへすまし候得ハ百姓程心易きものは無之」、つまり、「年貢さえ納めてしまえば、百姓ほど気楽なものはなく」と続ける。まさに、百姓とその家族を人間扱いしない、封建社会の冷酷無情さがにじみ出ているのではないか。

 その原型としては、すでに江戸幕府の草創期に既に出されていることに留意されたい。
 その端緒として、 徳川家康の家臣にして参謀役でもあった本田正信が記したとされる『本佐録』に、当時の武士側からの農民観が滲み出ているのではないか。
 「百姓は天下の根本なり。(中略)百姓は財の余らぬやうに、不測になきやうに治むる事道也。」

 ならば、徳川家康その人の農民観を伝えるものに、次に紹介する『昇平夜話』の一節がある。

 「百姓は飢寒に困窮せぬ程に養ふべし。・・・・・東照宮上意に、「郷村の百姓は死なぬ様に、生ぬ様に」と・・・・・」(高野常道の作か?『昇平夜話』、1796年刊)

(続く)

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