200の3『自然と人間の歴史・日本篇』享保の分地制限令(1721)と質地禁止令(1722)
まずは、江戸時代に入ってからの、この問題の経緯をかいつまんで顧みよう。1643年には、次のような田畑永代売買禁止令が発布される。
「一、身上能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者は田畑沽 却せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後田畑売買停止たるべき事。
寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)
この法令で、田畑を売買することを禁止するまでには、その売買を通じて、農民の中の富裕層に土地が集まり、農民の間で階層分化がやむことなくすすんでいた。
中でも1641年、大凶作が起きると、困窮した農民が田畑を売り払って没落し、その一部は流民になる事態が起こる。
そこでこの法令では、田畑を売買した場合には、その売り手も買い手も厳罰に処される。売り手は村を追放され、買い手は買い取った田畑を没収された。
しかし、そもそも田畑を売買するに至るのは、重い年貢を払えないからではないか。そうであるならば、そうなっていく下地そのものを改めていくべきだろう。しかし、それはならず、したがって以後も、そのような状況が改善されることはなかった。そのため、農民の中には厳罰を覚悟の上で田畑を売買する者が続く。
こうした状況を前に、寛文期の法令が発布される。
「一、百姓田畑配分定めの事、高は拾石、反別は壱町歩より内所持のものは割り分くべからず。
前々より拾石の内田地持つものは、配分御制禁たりとい へども、近来、密々猥りに相分け候由相聞え候。
自今、拾石、壱町歩の外 に余分を配分すべし、此定より少し残すべからず。
是より内所持のものは 配分御停止に候間、厄介人之れ有るものは、同所にて耕作の働き仕り、渡 世致させ、又は相応の奉行に差し出すべき事。(以下、略)
延宝元年」(「徳川禁令考」)
「一、身上能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者は田畑沽 却せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後田畑売買停止たるべき事。
寛永二十年未三月」(「御触書寛保集成」)
この法令で、田畑を売買することを禁止するまでには、その売買を通じて、農民の中の富裕層に土地が集まり、農民の間で階層分化がやむことなくすすんでいた。
中でも1641年、大凶作が起きると、困窮した農民が田畑を売り払って没落し、その一部は流民になる事態が起こる。
そこでこの法令では、田畑を売買した場合には、その売り手も買い手も厳罰に処される。売り手は村を追放され、買い手は買い取った田畑を没収された。
しかし、そもそも田畑を売買するに至るのは、重い年貢を払えないからではないか。そうであるならば、そうなっていく下地そのものを改めていくべきだろう。しかし、それはならず、したがって以後も、そのような状況が改善されることはなかった。そのため、農民の中には厳罰を覚悟の上で田畑を売買する者が続く。
こうした状況を前に、寛文期の法令が発布される。
「一、百姓田畑配分定めの事、高は拾石、反別は壱町歩より内所持のものは割り分くべからず。
前々より拾石の内田地持つものは、配分御制禁たりとい へども、近来、密々猥りに相分け候由相聞え候。
自今、拾石、壱町歩の外 に余分を配分すべし、此定より少し残すべからず。
是より内所持のものは 配分御停止に候間、厄介人之れ有るものは、同所にて耕作の働き仕り、渡 世致させ、又は相応の奉行に差し出すべき事。(以下、略)
延宝元年」(「徳川禁令考」)
それでも効果がなかった、と見えて、1721年(享保6年)には、寛文期に続いて、次なる「享保の分地制限令」が出される。
「一、田畑配分定(さだめ)の事、高拾石、地面壱町
右の定よりすくなく分け候停止(ちょうじ)たり。尤(もっと)も、分け方に限らず、残り高も此(こ)の定よりすくなく残すべからず。 然ル上は高弐拾石地面二町よりすくなき田地持ちは、子供を始め、諸親類の内え田地配分罷(まか)り成らず候間、養介人(ようかいにん)これ有る者は、在所にて耕作の働きにて渡世(とせい)致させ、或いは相応の奉公人に差し出すべき事。
(「御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゆうせい)」)
(「御触書寛保集成(おふれがきかんぽうしゆうせい)」)
改善点としては、制限を一層明確にしたこと。分地する方も分地される方も10石一町歩(ちょうぶ)以下になってはならない。そして、石高20石、田畑二町歩以下の者の分地を禁じたことになっている。
たしかに、「石高20石、田畑二町歩」で線引きし、そこで激流を、塞き止めるというのは、一利あろう(ちなみに、筆者の生家は専業農家であって、その農地は一町八反であったから、この定めの意味するところは、なんとなく(体)でわかる気がする)。しかしながら、波の勢いの方が上回っていたのであろうか。
たしかに、「石高20石、田畑二町歩」で線引きし、そこで激流を、塞き止めるというのは、一利あろう(ちなみに、筆者の生家は専業農家であって、その農地は一町八反であったから、この定めの意味するところは、なんとなく(体)でわかる気がする)。しかしながら、波の勢いの方が上回っていたのであろうか。
さらに、それでも効果がなかった、と見えて、1722年(享保7年)、幕府は、今度は田畑の売買禁止にあわせて、田畑の質流れを認めない法令としての「質地禁止令」を発布する。
それと、公権力を使って田畑を質入れすることを禁じることには、1722年(享保7年)~1723年(享保8年)にかけて、越後(えちご)、羽前(うぜん)一帯で大規模な反対運動(これを「質地騒動」と呼ぶ)が起こり、結局、約1年で廃止されてしまう。
それからの幕府は、土地の質流れによる農地の小規模化、空洞化を黙認するのであった。そのため、以後は質入れされる田畑が「影に日向に」増えていく。
(続く)
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それからの幕府は、土地の質流れによる農地の小規模化、空洞化を黙認するのであった。そのため、以後は質入れされる田畑が「影に日向に」増えていく。
(続く)
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