○192の5『自然と人間の歴史・日本篇』生類憐みの令(1687~1707)

2020-09-28 22:01:08 | Weblog
192の5『自然と人間の歴史・日本篇』生類憐みの令(1687~1707)

 
 日本史の中でも、最近、その評価が某か変わってきている歴史話が少なからずあるという、次に紹介する法令は、その中の一つで、かなり変わっている。
 第一には、幕府法令から紹介しよう。「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」という一本だけの法令があったのではなく、似通った体裁の令がたびたび出された。

 (1)番目の法令には、「捨牛馬の禁令(すてぎゅうばのきんれい)」の通称が付いている。

 「生類あハれみの儀に付、最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。向後、相背に於ては、急度曲事仰せ付けらるべく候条、御料は御代官、私領は地頭より前方仰せ出され候趣、弥堅相守り候様、念を入れ申し付くべき者也。
 貞享四年(1687年)卯四月日」

 これに「最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。」とあることからは、多くの人が、「なんでこんなに大袈裟にいうのか」の感を禁じ得なかったのではないだろうか。


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 (2)としては、この法令の対象とは、犬ばかりでなかったことがわかる。しかも、「捨子これ有り候はば」云々が最初に論じられている。


 「覚
一、捨子これ有り候はば早速届けるに及ばず、其所の者いたはり置き、直に養 ひ候歟、又は望の者これ有り候はば遣はすべく候。急度付届けるに及ばざる 事。
一、鳥類畜類、人の疵付け候様成る儀は、只今迄の通り相届けるべく候。其外 ともぐひ、又はおのれと痛煩ひ候計にては届けるに及ばず、随分養育致し、 主これ有り候はば返し申すべき事。
一、無主犬、頃日は食物給させ申さず候様に相聞え候。畢竟食物給させ候得は、 其人の犬の様に罷成(まかりな)り、以後迄も六ケ敷事(むつかしきこと)と存じ、いたはり申さず候と相聞、不届に候。向後左様にこれ無き様に相心得べき事。
一、飼置き候犬死に候得は、支配方え届け候様に相聞え候。別条無きに於ては、 向後左様の届無用に仕るべく候事。
一、犬計りにかぎらず、惣て生類人々慈悲の心を元といたし、あはれみ候儀、 肝要に候事。
    以上
   貞享四年(1687年)卯四月」(「正宝事録」)

 ここまでいうと、およそ「生きとし生けるもの」のかなりが、この禁令の保護範囲に入ることになるのではなかろうか。

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 (3)としては、「前々より仰せ出され候ところ」を、いささか「無理押し」の感じが漂うではないか。

 「生類憐憫の儀、前々より仰せ出され候ところ、下々にて左様これなく、頃日疵付き侯犬共度々これあり、不届きの至に侯。向後、疵付き候手負犬、手筋極り候て、脇より露見致し候はゞ、一町の越度たるべし。并びに辻番人の内、隠し置き、あらわるゝにおいては、相組中越度(あいくみちゅうおちど)たるべき事。
 (元禄七年(1694年))戊五月廿三日」(「御当家令条」)

 これに「辻番人」とあるのは、辻斬り防止のため、1629年(寛永6年)に設けられた役職にて、大名や旗本が自分の武家屋敷の辻(十字路)におき、見張りを行わせた。

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 第二には、この法令に関して、どのような政策なり措置が行われたのだろうか。

 その1としては、この時代、犬を中心とした数々の生き物を慈しむ旨の法令が乱発された。これが引き金となり、侍屋敷、市中でも飼っている犬の世話が煩わしくなり、飼うのをやめ野には放つことが相次いで起こる。すると、あちらこちらで、飼い主を持たない捨て犬が増加するのであった。
 そうした犬たちを放置することは、彼らを飢えにさらすことにもなっていく。人間の生活環境を荒らすとともに、ひいては狂犬病の発生源ともなりかねない。そこで、そうした犬を収容し、保護飼育するための施設を、地方の大名たちに申しつけ、彼らの費用で、江戸市中、中野をはじめ、四谷、大木戸の外、喜多見といった場所にも作らせ、そこそこの場所に収用する。
 そうして増大する野犬を囲うのであるから、当然、1日に一度くらいは餌も与える話なのであって、さもなくば彼らは生き続けなくなるだろう。
 そんな犬小屋を連ねた、実態は犬長屋の中でも中野の御犬囲は、四谷の犬屋敷取り壊しに伴い次々に拡張されていく。そうこうするうちに、同敷地内は5つの御囲に区切られ「壱之御囲」が3万4538坪、「弐之御囲」、「参之御囲」、「四之御囲」がそれぞれ5万坪、「五之御囲」が5万7178坪もの広大なものであったというのだが。
 そういえば、現在の東京都中野区、JR中野駅近くの区役所の敷地内に、数体の犬の像があるという。この像は、江戸時代、この場所に犬の保護施設、「御犬囲(中野犬屋敷)」があったことにを記念したもの。

 次に移ろう。それでは、上記の特段の規模であったという、江戸の中野に建てられた、雇い主に恵まれない犬のための「犬小屋」の建設は、どうようにして建てられたのだろうか。以下では、を幕府に命じられた津山藩の事情をしばし振り返ってみよう。しかして、上記の事柄にあわせてみれば、こうある。

 「1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。

(追って、追加予定)


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 第三には、江戸やその周辺、地方においては、どのような状況であったのだろうか。幾つかの報告が寄せられている。

(4)

 「元禄六年一〇月条、江戸の有様戦々兢々たり。」(「鸚鵡籠中記」)


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(5)

 「頃日、江戸千住海道に犬を二疋磔置く。札に此の犬、公方の威を仮り諸人を悩すに仍って此の如く行う者也。又は浅草の辺に狗の首を切り、台にのせ置く。御僉議として黄二十枚かかる。」(「鸚鵡籠中記」)


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(6)

 「犬に人のおぢおそるる事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置いて、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもまごりつきて、人をおそれず、道中に横たはりに臥して(中略)もし手足をそこぬる事あれはば、外科をかけて養生治療をくはふる。」(「御当代記」)




(続く)


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