日本で正月を迎える頃はいつも
去年今年貫く棒の如きもの (高浜虚子 昭和25年)
の句が頭に浮かんだ。バリで暮と正月を迎えるとなるとこの句の感慨は少し無理がある。世間は年があらたまるという。師走の商店街などでは買い出しの客で賑わい、自らもその気になっていく。日本人は特にあらたまるということが好きな国民のように見える。反省とか三省とかが好きで、子供の時からそんな反省好きの空気の中で育ってきた気がする。初詣などもあらたまりの代表的行事だ。
バリでは周りに年のあらたまるという空気がまるでない。ガルンガンでバリの年があらたまっているせいだろう。滞在客である私も同様に年があらたまってくるという実感がまるでない。町にしめ縄や塩鮭を売る光景がないためだ。「棒の如きもの」は人間世界のあらたまるという思いがないと、その反対の自然界の何も変わらないさまが強調されない。当たり前の事実であり、年から年中棒のようなものだからことさらこの句で感慨もわいてこないということになる。
それでもお正月にはおせちを頼んでみることにした。去年もある店に頼んで失望したのだが、今回はホテルの知り合いによると期待できるレベルだというので楽しみにしている。幸いおもちも多少ストックしてある。鯛は無理だが見かけはよく似たスナッパーが手に入るのでこれを塩焼きしてみようと計画している。
バリに師走と新年の空気は皆無だが、暦で長年しみついた習慣が多少は刺激される。正月2日にはバリの聖地ベサキ寺院に行って、あらたまってみようと思う。