仏教の諸行無常に比較的慣れ親しんだものには下記の文章はいささか過激で、およそあり得ないことのように思えるのだが。死のない世界など絶対にあり得ない、80歳がせいぜい200歳に伸びるだけであろうが、そして宇宙的時間感覚からは誤差の範囲である、それにしても現実にその中で生きていかなければならない我々の親子関係や会社の組織論、社会の混乱は計り知れない。
人類は先を開く能力はあるがもたらされる混乱については対処する能力を持たないことを自覚する必要がある。AIを進める経済人は「神が助けてくれる、あるいは神の見えざる手が良きに計らってくれる」というどこかお気楽な危険な楽観主義があるに違いない。(実際に話してみてもそんな気がする時がある)
ホモ・デウス下では、人類の未来に焦点を当て、特にテクノロジーとデータの役割についてハラリは、人間が生物学的な限界を超え、人工知能や遺伝子編集によって「神のような存在」(ホモ・デウス)に進化する可能性を探る。また、「データ主義」という新たな価値観が台頭し、データが人間の決定や行動を支配する未来を描写しこれにより、個人の自由や社会構造がどのように変化するかについても論じている。
具体的には、以下のようなテーマが取り上げられている。
1.生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2.知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3.意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。老齢や死との戦いは、飢饉や疾病との昔からの戦いを継続し、現代文化の至高の価値観、すなわち人命の重要性を明示するものにすぎない。 私たちは、人間の命こそこの世界で最も神聖なものである、と事あるごとに教えられる。誰もがそう言う
学校の教師も、議会の政治家も、法廷の弁護士も、舞台の俳優も。第二次世界大戦後に国連で採択された世界人権宣言(これは今のところ、世界憲法に最も近いものかもしれない)は、「生命に対する権利」 が人類にとって最も根本的な価値である、ときっぱり言い切っている。死はこの権利を明らかに侵害するので、 死は人道に反する犯罪であり、私たちは総力を挙げてそれと戦うべきなのだ。
歴史を通して、宗教とイデオロギーは生命そのものは神聖視しなかった。両者はつねに、この世での存在以上のものを神聖視し、その結果、死に対して非常に寛容だった。
それどころか、死神が大好きな宗教やイデオロギーさえあった。キリスト教とイスラム教とヒンドゥー教は、私たちの人生の意味はあの世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していたので、これらの宗教は死を、世界の不可欠で好ましい部分と見ていた。
人間が死ぬのは神がそう定めたからであり、死の瞬間は、その人が生きてきた意味がどっとあふれ出てくる神聖な霊的経験だった。
「一 日だけ待ってください!」と哀願する。だが、頭巾を被 った死神は、「駄目だ! 今、来るんだ!」と厳しい声で ささやく。こうして私たちは死ぬ。
死のない世界でキリスト教やイスラム教やヒンドゥー教がどうなるか、想像してほしい。それは、天国も地獄も再生もない世界でもあるのだから。
現代の科学と文化は、生と死を完全に違う形で捉える。 両者は死を超自然的な神秘とは考えず、死が生の意味の源泉であると見なすことは断じてない。現代人にとって死は、 私たちが解決でき、また、解決するべき技術的な問題なのだと。
「三つあると思います」と彼は言う。「受け容れることもできるし、否定することもできるし、戦うこともできます。私たちの社会は、否定か受容で頭がいっぱいの人ばかりですが、私は戦うことを選びます」。
このような発言は、ティーンエイジャーがよく抱く類の幻想として切り捨てる人が多いだろう。とはいえ、ティールのような人物の言葉は真剣に受け止める必要がある。な にしろ彼は、シリコンヴァレーでも有数の成功を収めている、影響力の大きい起業家で、その個人資産は二三億ドルと推定され ているほどだから。
先行きは見えている。社会経済的な平等は流行後れとなり、不死がもてはやされるだろう。 遺伝子工学や再生医療やナノテクノロジーといった分野は猛烈な速さで発展しているので、ますます楽観的な予言が出てきている。人間は二三〇〇年までに死に打ち勝つと考える専門家もいれば、二二〇〇年までにそうなるとする専門家もいる。
したがって、昨今はもっと率直に意見を述べ、現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである、と明言する科学者が、まだ少数派ながら増えている。その最たる例が、老年学者のオーブリー・デグレイと、博学の発明家 レイ・カーツワイル (アメリカ国家技術賞の一九九九年の受賞者)だ。
カーツワイルは二〇一二年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその一年後、「死を解決すること」を使命として表明するキャリコという子会社を設 立した。グーグルは二〇〇九年にも、やはり不死の実現を心から信じるル・マリスを、投資ファンドのグーグル・ ベンチャーズのCEOとして採用した。
マリスは二〇一五年一月のインタビューで、「五〇〇歳まで生きることは可能かと今日訊かれ たら、私の答えはイエスです」と述べている。マリスは自分の勇ましい言葉を裏づけるように、大金を注ぎ込んでいる。グーグ ル・ベンチャーズは二〇億ドルのポートフォリオの三六パーセントを生命科学のスタートアップ企業に投資しており、そのなか には、野心的な寿命延長プロジェクトを手がける企業もいくつか含まれている。
マリスは死との戦いをアメリカンフットボール になぞらえて次のように説明する。「数ヤードのゲインを担っているわけではありません。試合に勝とうとしているのです」。「死ぬより生きている方がいいからです」。
ワイルとデグレイはそれに輪をかけて楽観的で、二〇五〇年の時点で健全な肉体と豊富な賀金を持っている人なら躍もが、死を 一〇年単位で先延ばしにし、不死を狙って成功する可能性が十分あると主張している。二人によれば、ほぼ一〇年ごとに医療機 関に足を運び、修復治療を受け、疾患を治してもらうだけでなく、劣化してきた組織を再生し、手や目や脳をアップグレードし てもらうこともできるようになるという。そして、次の治療の時期が来る頃には、医師たちは新たな薬やアップグレード手法や 装置を発明し終えているだろう。もしカーツワイルとテグレイが正しければ、あなたの間をすでに不死の人たちが歩いて いるかもしれない。少なくとも、あなたが歩いている通りが、たまたまウォール街か五番街であれば。
ティールは最近、自分が永遠に生きることを目指しているのを告白した。「[死へのアプローチの仕方は、否定することもできるし、戦うこともできます。私たちの社会は、否定かでがいっぱいの人ばかりですが、私は戦うことを選びます」
心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショックで動きを回復させられるし、それでも効き目がなければ、新 しい心臓を移植することができる。たしかに現時点では、技術的問題のすべてに解決策があるわけではないが、だからこそ私たちは 、癌や病原菌、遺伝学、ナノテクノロジーの研究にこれほど多くの時間とお金を注ぎ込んでいるのだ。 科学の研究に携わっていない一般人でさえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっている。誰かが医院に行き、「先 生、どこが悪いのでしょう?」と尋ねると、医師は、「ああ、インフルエンザです」とか、「結核です」「神経痛です」などと答える。
だが医師は、「人はどのみち、何かで死ぬものです」などとはけっして言わない。だから私たちはみな、インフルエンザや 結核や痛は技術的な問題であり、いつの日か、技術的な解決策が見つかるかもしれないという印象を持っている。 私たちは、ハリケーンや自動車事故や戦争で人が亡くなったときにさえ、それは防ぎえた、そして防ぐべきだった技術上の失 敗と見なす傾向にある。政府がもっと良い政策を採用してさえいたら、あるい地方自治体がきちんと責務を果たしてさえいたら、はたまた、軍の司令官がもっと賢明な決定を下してさえいたら、死は避けられただろう、と。死は、訴訟や調査にほとんど自動的につながる理由となった。「どうして彼らが死ぬなどということが起こりえたのか? どこかでしくじったに違いない」というわけだ。
科学者や医師や学者の大多数はまだ、不死という夢をあからさまに語る段階までは行っておらず、あれやらこれやら、具体的な問題を克服しようとしているだけだと主張する。とはいえ、老化も死も具体的な問題の結果にほかならないので、医師と科学 者が立ち止まり、たとえば、「ここまでにしよう。これ以上は一歩も進まない。結核と船には打ち勝ったが、アルツハイマー病 と戦うためには何一つしない。これからも人がアルツハイマー病で死に続けてもかまいはしない」と言い放つような時点はけっして訪れない。世界人権宣言には、人間には「九○歳まで生きる権利」があるとは書かれていない。いかなる人間にも生命に対 する権利がある、と書いてあるだけだ。その権利はどんな有効期限にも縛られてはいない。
ところが現実には、人間が死ぬのは黒マントの人物に肩を叩かれたから、あるいは神がそう定めたから、はたまたそれが何らかの宇宙の構想の不可欠の部分だからではない。人間はいつも、何らかの技術的な不具合のせいで死ぬ。たとえば、心臓が血液 を押し出すのをやめる。大動脈が脂防性沈着物で詰まる。細胞が肝臓に拡がる。肺で病原菌が増殖する。それでは、これらの技術的問題は何が引き起こすのか?
他の技術的問題だ。心臓の筋肉に酸素が十分到達しないために、心臓は血液を押し出すの をやめる。遺伝子が偶然、変異を起こし、遺伝の指令を書き換えたから、癌が拡がる。誰かが地下鉄でくしゃみをしたから、私の肺に病原菌が巣くう。超自然的なところは少しもない。万事、技術的な問題なのだ。 そして、どの技術的問題にも技術的解決策がある。だから、死を克服するためにはキリストの再臨を待つ必要はない。尋常で はない頭脳を持つ人が二、三人いれば、研究室で解決できる。伝統的には死は聖職者や神学者の得意分野だったが、今や技術者 が彼らに取って代わりつつある。
私たちは、癌細胞を化学療法やナノロボットで殺すことができる。抗生物質で肺の病原菌を ちは絶できる。心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショックで動きを回復させられるし、それでも効き目がなければ、新 しい心臓を移植することができる。
たしかに現時点では、技術的問題のすべてに解決策があるわけではないが、だからこそ私た 、癌や病原菌、遺伝学、ナノテクノロジーの研究にこれほど多くの時間とお金を注ぎ込んでいるのだ。 科学の研究に携わっていない一般人でさえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっている。誰かが医院に行き、「先 生、どこが悪いのでしょう?」と尋ねると、医師は、「ああ、インフルエンザです」とか、「結核です」などと答える。だが医師は、「人はどのみち、何かで死ぬものです」などとはけっして言わない。
だから私たちはみな、インフルエンザや 結核や痛は技術的な問題であり、いつの日か、技術的な解決策が見つかるかもしれないという印象を持っている。 私たちは、ハリケーンや自動車事故や戦争で人が亡くなったときにさえ、それは防ぎえた、そして防ぐべきだった技術上の失 敗と見なす傾向にある。政府がもっと良い政策を採用してさえいたら、地方自治体がきちんと責務を果たしてさえいたら、はたまた、軍の司令官がもっと賢明な決定を下してさえいたら、死は避けられただろう、と。死は、訴訟や調査にほとん ど自動的につながる理由となった。「どうして彼らが死ぬなどということが起こりえたのか? どこかで誰かがしくじったに違いない」というわけだ。
科学者や医師や学者の大多数はまだ、不死という夢をあからさまに語る段階までは行っておらず、あれやらこれやら、具体的 な問題を克服しようとしているだけだと主張する。とはいえ、老化も死も具体的な問題の結果にほかならないので、医師と科学 者が立ち止まり、たとえば、「ここまでにしよう。これ以上は一歩も進まない。結核と船には打ち勝ったが、アルツハイマー病と戦うためには何一つしない。これからも人がアルツハイマー病で死に続けてもかまいはしない」と言い放つような時点はけっして訪れない。世界人権宣言には、人間には「九○歳まで生きる権利」があるとは書かれていない。いかなる人間にも生命に対 する権利がある、と書いてあるだけだ。その権利はどんな有効期限にも縛られてはいない。
現実には、そのような人は「不死」ではなく「非死」と言うべきだろう。神とは違い、未来の人たちは依然として映像や事 故で死にうるし、何をもってしても彼らを黄泉の国から連れ戻すことはできない。それでも、死を免れえない私たちとは違い、 彼らの人生には有効期限はない。
爆弾で体を木っ扇散期にされたり、トラックにひかれたりしないかぎり、彼らはいつまでも生きていられる。だとすれば、彼らは史上最も不安な人々となるだろう。
私たちは、日々、命の危険を冒している。どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。だから私たちはヒマラヤ山に登りに行くし、海で泳ぐし、通りを渡ったり外食したりといった危険なことを他にも多くする。だが、もし自分が水遠に生きられると思っていたら、無限の人生をそんなことに賭けるのは馬鹿げている。
それならば、平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標から始めるほうがいいかもしれない。人類は二〇世紀に、40年から70年へと平均寿命をほぼ倍増させたから、二一世紀には、少なくとももう一度倍増させて150年にできるはず、と。不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。
子供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。 あるいは、キャリアについて考えてほしい。今日、人は一〇代や二〇代で一つ職能を身につけ、残りの人生をその職種で過ご すものと思われている。実際には四〇代や五〇代になってさえ、新しいことを学ぶのは明らかだが、人生はたいてい、まず学ぶ 時期があって、働く時間がそれに続くというふうに分かれている。
だが、一五○年生きるとなると、それではうまくいかない。 新しいテクノロジーにたえず揺るがされている世界では、なおさらだ。人々はこれまでよりもずっと長いキャリアを通るので、 たとえ九〇歳になっても、自分や生活や働き方を何度となく一新しなければならない。
物理学者のマックス・プランクは、科学は葬式のたびに進歩するという有名な言葉を残した。ある世代が死に絶えたときにようや く、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味だ。これが当てはまるのは科学だけではない。ここで少し自分の職場のことを考えてほしい。あなたが学者だろうが、ジャーナリストだろうが、料理人だろうが、サッカー選手だろうが。
現実には、そのような人は「不死」ではなく「非死」と言うべきだろう。神とは違い、未来の超人たちは依然として戦争や事 故で死にうるし、何をもってしても彼らを黄泉の国から連れ戻すことはできない。それでも、死を免れえない私たちとは違い、 彼らの人生には有効期限はない。爆弾で体を木っ端微塵にされたり、トラックに轢かれたりしないかぎり、彼らはいつまでも生 きていられる。
だとすれば、彼らは史上最も不安な人々となるだろう。死を避けられない私たちは、日々、命の危険を冒してい る。どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。だから私たちはヒマラヤ山脈に登りに行くし、海で泳ぐし、通りを 渡ったり外食したりといった危険なことを他にも多くする。だが、もし自分が永遠に生きられると思っていたら、無限の人生を そんなことに賭けるのは馬鹿げている。
それならば、平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標から始めるほうがいいかもしれない。人類は二〇世紀に、四○年から七○年へと平均寿命をほぼ倍増させたから、二二世紀には、少なくとももう一度倍増させて一五〇年にできるはず、というわけだ。
不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。まず、家族の構造や結婚や親子 関係が一変する。今日、人は「死が二人を分かつまで」結婚生活を続けることが相変わらず当然と思われているし、人生の多くが子をもうけて育てることを中心に回っている。
だが、寿命が一五〇年の女性を想像してほしい。四〇歳で結婚しても、まだ一 一〇年残っている。その結婚生活が一一〇年続くと見込むのは、果たして現実的だろうか? カトリックの原理主義者でさえ、 二の足を踏むかもしれない。というわけで、何度も結婚と離婚を繰り返すという現在の傾向が強まりそうだ。四〇代で二人の子供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。
あるいは、キャリアについて考えてほしい。今日、人は一〇代や二〇代で一つ職能を身につけ、残りの人生をその職種で過ごすものと思われている。実際には四〇代や五〇代になってさえ、新しいことを学ぶのは明らかだが、人生はたいてい、まず学ぶ 時期があって、働く時期がそれに続くというふうに分かれている。だが、一五○年生きるとなると、それではうまくいかない。 新しいテクノロジーにたえず揺るがされている世界では、なおさらだ。人々はこれまでよりもずっと長いキャリアを送るので、 たとえ九〇歳になっても、自分や生活や働き方を何度となく一新しなければならない。
それに、人々は六五歳で引退することもなければ、斬新なアイデアや大志を抱いた新世代に道を譲ることもないだろう。物理学者のマックス・ブランクは、科学は葬式のたびに進歩するという有名な言葉を残した。ある世代が死に絶えたときにようやく、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味だ。これが当てはまるのは科学だけではない。ここで 少し自分の職場のことを考えてほしい。あなたが学者だろうが、ジャーナリストだろうが、料理人だろうが、サッカー選手だろうが。
二二〇〇年までにそれができるかどうかは、まったく定かではない。 それでも、死を克服する試みが失敗に終わるたびに、私たちは目的に一歩近づき、そのおかげで期待が高まり、なおさら努力を重ねる気になる。グーグルのキャリコは、グーグルの共同創業者のセルゲイ・プリンとラリー・ペイジを不死にするのに間に合うように死を解決することはおそらく無理だろうが、細胞生物学や遺伝医学や人間の健康に関して重大な発見をすることはほ ぼ確実だろう。したがって、次世代のグーグル社員は、今より有利な新しい位置から、死への攻撃を始められるはずだ。
現実の世界に戻ると、カーツワイルやデグレイの予言が二〇五〇年あるいは二二〇〇年に実現するかどうかは、およそ確かとは言えない。私自身の見るところでは、二二世紀中に永遠の若さを手に入れるという希望は時期尚早で、その実現に期待をかけ 過ぎている人は誰であれ、苦い失望を味わうことになるだろう。自分がいずれ死ぬことを知りながら生きるのは楽ではないが、 不老不死になれると信じていて、それが間違っていることがわかったら、なおつらい。 過去一〇〇年間に平均寿命が倍に延びたとはいえ、それに基づいて、今後一〇〇年間で再び倍に延ばして一五〇年に達することができると見込むわけにはいかない。
一九〇〇年には、世界の平均寿命は四○年にすぎなかったが、それは多くの人が幼いうちや若いうちに、栄養不良や感染症や暴力のせいで亡くなっていたためだ。それでも、飢饉や疫病や職争を免れた人は、優に七 ○代、八〇代まで生きられた。それがホモ・サピエンスの自然寿命だからだ。一般的な見方とは裏腹に、昔も七〇代まで生きる ことは自然界の異常現象とは考えられていなかった。ガリレイは七七歲、アイザック・ニュートンは八四歳、ミケランジェロは八八歳の高齢まで生きている。それどころか、密林のチンパ ンジーたちでさえ、六〇代まで生きることがある。
もし人の寿命が一五〇年だったら、二〇一六年には一三八歳のスターリンが依然モスクワで君臨 毛沢東主席は初老の一二三蔵、エリザベス王女は一二二歳のジョージ六世から王座を引き継ぐのを手をこまぬいて待ち続けているはずだ。息子のチャールズに至っては、二〇七六年まで順番が回ってこない。政界ではいっそう悲惨な結果になりかねない。
上司が一二〇歳で、ヴィクトリアがまだイギリスの女王だった頃に生まれたアイデアにしがみついており、あと二〇年は上司であり続ける可能性が高かったら、どう感じるだろうか? 政界ではいっそう悲惨な結果になりかねない。たとえば、プーチンにあと九〇年も居座ってほしいだろうか?
じつのところ、現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。医学の最大の功績は、私たちが 早死にするのを防ぎ、寿命を目いっぱい享受できるようにしてくれたことだ。たとえ今、私たちが糖尿病をはじめとする主な死因を克服したとしても、ほとんどの人が九〇歳まで生きられるだけであり、一五〇歳にはとうてい届かず、五〇〇歳など問題外だ。
二二〇〇年までにそれができるかどうかは、まったく定かではない。 それでも、死を克服する試みが失敗に終わるたびに、私たちは目的に一歩近づき、そのおかげで期待が高まり、なおさら努力 を重ねる気になる。グーグルのキャリコは、グーグルの共同創業者のセルゲイ・プリンとラリー・ペイジを不死にするのに間に 合うように死を解決することはおそらく無理だろうが、細胞生物学や遺伝医学や人間の健康に関して重大な発見をすることはほ ぼ確実だろう。したがって、次世代のグーグル社員は、今より有利な新しい位置から、死への攻撃を始められるはずだ。
自分がいずれ死ぬことを知りながら生きるのは楽ではないが、 不老不死になれると信じていて、それが間違っていることがわかったら、なおつらい。 過去一〇〇年間に平均寿命が倍に延びたとはいえ、それに基づいて、今後一〇〇年間で再び倍に延ばして一五〇年に達することができると見込むわけにはいかない。
一九〇〇年には、世界の平均寿命は四○年にすぎなかったが、それは多くの人が幼いう ちや若いうちに、栄養不良や感染症や暴力のせいで亡くなっていたためだ。それでも、飢饉や疫病や戦争を免れた人は、優に七 ○代、八〇代まで生きられた。それがホモ・サピエンスの自然寿命だからだ。一般的な見方とは裏腹に、昔も七〇代まで生きることは自然界の異常現象とは考えられていなかった。抗生物質や予防接種や臓器移植の助けを借りもせずに、
近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた
現代の文化は、宇宙の構想をこのように信じることを拒む。私たちは、どんな壮大なドラマの役者でもない。人生には脚本もなければ、脚本家も監督も演出家もいないし、意味もない
だから、何でも好きなことができる。方法さえ見つけられれば、私たちを束縛するものは、自らの無知以外、何一つない
新しいテクノロジーが経済成長を促し、経済が成長すれば、さらに多くのお金を研究に回せる。月日の流れに伴って、私たちはますます多くの食べ物を食べ、ますます速い乗り物に乗り、ますます優れた機械を使うことができる。
世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ
現代の経済にとって真の脅威は、生態環境の破壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。
裕福なアメリカ人と同じ生活水準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの1個しかない。
今日、ヒンドゥー教、イスラム教徒、共産主義者、その誰もが、経済成長こそ、本質的に違うおのおのの目標を実現するカギであること信じるに至っている
人類は気がつくと、同時に二つのレースで走り続ける羽目になっていた。一方で私たちは、科学の進歩と経済の成長を加速させざるを得ないように感じている
科学者と技術者がいつも世界の破綻から私たちを救ってくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多過ぎる
現代の世界は、成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を冒すべきであると説く
個人のレベルでは、私は絶えず収入を増やし、生活水準を高めるように仕向けられる。たとえ現状で十分満足しているときでさえ、さらに上を目指して奮闘するべきなのだ。昨日の贅沢品は今日の必需品になる
環境を保護するというのはじつに素晴らしい考えだが、家賃が払えない人々は、氷が解けることよりも借金のほうをよほど心配するものだ
今日、全世界の法と秩序にとって最大の脅威は、神の存在を信じ、すべてを網羅する神の構想を信じ続けている人にほかならない。神を恐れるシリアのほうが、非宗教的なオランダよりもはるかに暴力的な場所だ
人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える
人殺しが悪いのは、どこかの神が「殺してはならない」と言ったからではない。そうではなく、人殺しが悪いのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えるからだ
政治において人間至上主義は、「有権者がいちばんよく知っている」
そのような人間至上主義のアプローチは、経済の分野にも重大な影響を与えてきた。
顧客は常に正しい。もし消費者がその自動車を欲しがらないのなら、その自動車が良くないのだ
今日は、神の存在を信じないことはたやすい。信じなくとも、何の代償も払わなくて済むからだ
仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる自己が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ
知識=経験x感性
中世ヨーロッパでは、知識=聖書X論理、科学では、知識=観察に基づくデータX数字
人間至上主義の人生における最高の目的は、多種多様な知的経験や情動的経験や身体的経験を通じて知識をめいっぱい深めることだ。人生に頂点は一つしかないー人間的なものをすべて味わい尽くしたときだ
人間至上主義は三つの主要な宗派に分かれた。正統派の人間至上主義では政治でも経済でも芸術でも、個人の自由意志は国益や宗教の教義よりもはるかに大きな重みを持つべきだ(自由主義)
自由主義は、やがて二つのまったく異なる分派を生み出した。社会主義的な人間至上主義と、ナチスを最も有名な提唱者とする進化論的な人間至上主義だ
人が民主的な選挙の結果を受け容れる義務があると感じるのは、他のほとんどの投票者と基本的な絆がある場合に限られる
自由主義の政治では有権者がいちばんよく知っており、自由主義の経済では顧客がつねに正しいのに対して、社会主義の政治では党がいちばんよく知っており、社会主義の経済では職種別組合がつねに正しい
進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二十一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い
たしかに自由主義は人間至上主義の宗教競争に勝ち、2016年現在、現実的に見て、それに取って代われるものは存在しない
本書は二十一世紀には人間は不死と至福と神聖を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。
この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張する
自由主義者が個人の自由をこれほど重要視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ
人が経済的な決定をどう下すかを知りたがっている行動経済学者も、同じような結論に達している。ほとんどの実験は、決定のどれを取っても、それを下しているような単独の自己が存在しないことを示している
SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピューターは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ
知能と意識ではどちらのほうが本当に重要なのか?
もし人間にタクシーだけでなくあらゆる乗り物の運転を禁じ、コンピューターアルゴリズムに交通を独占させたなら、すべての乗り物を単一のネットワークに接続し、それによって自動車事故が起こる可能性を大幅に減らせるだろう
やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう
だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かをする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。
彼らは一日中、何をすればいいのか?薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない
2002年、低予算チームのオークランド・アスレチックスが、コンピューターアルゴリズムを使い、人間のスカウトが見過ごしたり過小評価したりしている選手を集めて、勝てるチームを作った。
この低予算のチームは、ニューヨーク・ヤンキースのような有力チームに引けを取らなかったばかりか、アメリカンリーグ初の20連勝も記録した。
デイヴィッド・コーブはカリフォルニア大学サンタクルーズ校の音楽学の教授だ。彼はEMI(Experiments in Musical Intelligence)というプログラムを7年かけて開発したところ、たった1日でバッハ風の合唱曲を5000も作曲した
ある音楽フェスティバルで演奏するように手配した。聴衆のなかには熱狂的な反応を見せる人々もいて、感動的な演奏として褒め称え、その音楽が心の琴線に触れたと興奮した様子で語った
ある企業が人工のスーパーインテリジェンスの第1号を設計し、円周率の計算のような無害の試験を行う。ところが、誰も事態を把握しないうちに、そのAIが地球を乗っ取って、人類を皆殺しにし、銀河の果てまで征服に乗り出して、基地の宇宙全体を巨大なスーパーコンピューターに変え、そのコンピューターがかつてないほど高い精度を追い求めて際限なく円周率を計算し続ける。なにしろそれが、自分の創造主によって与えられた神聖な使命なのだから。
遺伝子技術が日常生活に組み込まれ、人々が自分のDNAと次第に緊密な関係を育むにつれ、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になる
国民保健サービスの本部で誰かがそのデータを、他の何千もの医師から流れてくる報告と合わせて分析し、インフルエンザが流行しかけていると結論する。それまでには、たっぷり時間がかかる
グーグルなら、もの数分でやってのけられる。ロンドンの住民がメールやグーグルの検索エンジンに打ち込む単語をモニターし、それを病気の症状のデータベースと照合するだけでいい
なぜなら、グーグルが、私の政治的見解でさえ、私自身よりも的確に言い表すことができるようになるからだ
もし自分に代わって投票する権限をグーグルに与えていたら、そんな事態(選挙活動で有権者を洗脳するような候補者を選んでしまうという愚行)は避けられただろう
この展開に恐れをなしている人もたしかにいるが、無数の人がそれを望んで受け容れているというのが現実だ。すでに今日、大勢の人が自分のプライバシーや個人性を放棄し、生活の多くをオンラインで送り、あらゆる行動を記録し、たとえ数分でもネットへの接続が遮断されればヒステリーを起こす
匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は貧しく味気ないものになったのだろうか?そうかもしれない。だが、たとえそうだとしても、経済と政治の制度にとってはは十分価値があった
私たちは首尾良く体や脳をアップグレードすることができるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。けっきょく、テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない
最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する
チャールズ・ダーウィンが種の起源を出版して以来の150年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの80年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。
データ主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する
音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する単一の包括的理論だ
データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第5番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本観念とツールを使って分析できるデータフローのパターンに過ぎないという
この見方によれば、自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ
資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する
アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返し失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた膨大なデータをどうすればよいのかわかっていないようだ
もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する
情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。
新しいスローガンはこう訴える。「何かを経験したら、記録しよう、何かを記録したら、アップロードしよう。何かをアップロードしたら、シェアしよう」
あなたがすることをすべて記録して、インターネット上に掲示してください。こうしたことを全部すれば、すべてのモノのインターネットの偉大なアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、そして戦争を始めるべきかどうかを、教えてくれるでしょう
データ至上主義は、自由主義でも人間至上主義でもない。とはいえ、反人間至上主義的ではないことは特筆しておくべきだろう