お二方とも寺の息子だ。初期仏教と法華経をそれぞれがよりどころとされている。しかし共通点を探っていくと興味深いことが見えてくる。
今回は死をどう考えるかについて。佐々木閑は死、特に自死について、周りを悲しませることでありやらない方が良い。しかしブッダの弟子の一人の涅槃への道として自死をした人の逸話を引いて、仏教的には一つの選択しとしてギリギリの状況ではブッダも認めていると説く。
どうやっても解脱に到達できない男の最後の手段として自死をしたケースをブッダは特別の非難をしていないそうだ。
こんなことよく話せるなと思うが仏教的真実を語って置かなければとの強い信念がそう語らせるのだろう。タブーに近い話であろうし、物議を醸すことを承知でこのように語ることが氏の真骨頂なのだろう。
つまり仏教を信仰するとということは上っ面だけの優しくて甘美なことを求める道では無いよ、万人向けのものでは無いそれでしか救われない人の最終野戦病院なのだと言いたいのだろう。
仏教がなくても立派に幸せに生きていける人には必要がないとも言う。これも仏教学者としては凄い事を言う。
紀野一義はどうか。高齢の女性の集まりで、お迎えが来たら怖がらずに逝きなさい。70、80まで生きたのだから未練などもちなさんなと後ろを押す。
農薬で自死したおばあさんについても親しみを込めてエピソードを語っている。
お二方には死に対する思いにどこか共通点があると感じる。