まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

草創期のNTTデータ6 労働環境 2710文字

2020-06-15 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

 

 

当時のデ本は草創期で活気にあふれていたが、反面残業時間は極端に多く、電電公社の職場の中では中間管理職層の自殺者や過労死が多いことでも知られていた。システム開発の社員管理などのマネジメントがまだまだ幼稚な時代の影の部分だ。NTTデータの幹部が課長研修会などで「そう簡単には死なない」「死にはせん」などと平気で叱咤激励していた時代のことだ。

開発はコンピュータの使用時間が限られているので昼間であろうと深夜であろうとシフト勤務が常であり朝帰りの電車で眠ってしまい桜木町と渋谷間を2回も往復したこともある。相当過酷な環境で組合問題もたびたび起こしていた。しかし平塚清士のチームでは事故はなかった。

組合もデータとして独立した組織として活動を始めました。そしてある時、知り合いの役員が来て、役員会で浜銀のめちゃめちゃな勤務が問題になっている。平塚さんが危ないのではないかということでした。当時はまだシフト勤務はなく、本社(本部)は常日勤勤務でした。それが昼も夜も自分たちで勝手に時間を決めてやっている。労働協約無視、就業規則無視です。(寄稿文より)

しかし戦中派上司平塚清士はそのあたり総合的なマネジメントが実にうまかったのだと今にして思う。

 

NTTデータに在職中(1970~1989)の19年間で過労で亡くなったり自殺した職場の身近な先輩が三名いる。NTTデータから転職して16年間新たな職場で働いたが過労で倒れた仲間を聞いたことはない。NTTから斡旋されて新電電に転職してきた既に50代後半の吉野さんと一緒に米国調査出張などに出かけた折のことだ。

機内で吉野さんが「日比谷ではデータ村は自殺者が多いことで有名だった」とNTTデータ草創期の労働事情を語った。かつて内幸町に電電公社本社があるところから仲間内では日比谷と称していた。データ村がNTTデータ本部をさすのと対照的に電話事業の本社職員をさす。それまでは特に気にしたことがなかったのだが吉野さんからこの話を聞いてやはり草創期のデータ通信本部はストレスの極めて高い職場であったのだと再認識した。

この職場で中間管理職として頑張り過ぎ、若くして亡くなった先輩たちへの鎮魂の意味を込めて回想してみる。いずれも仮名であることをお断りしておく。

中山さんの自殺が忘れられない。ある社内基幹システムの開発責任者だった彼は、システム納期の遅れを気に病んである日、宿舎にしていた大阪のホテルの一室で首をつった。私は前夜、会社の近くの居酒屋で彼が一人で飲んでいるのを見かけており、衝撃を受けた。中山さんもやはり40代前半だったように記憶している。私もシステム開発のリーダで開発の遅れの大変さを経験しており彼の苦悩がよく分かる。実に進退極まるのだ。リーダとして途中で苦しいからといって投げ出すことは敗北を意味すると思い込んでしまい、無理を重ねたあげく正常な判断を失ってしまうのだ。

数百人の開発者集団を束ねるための疲労はどんどん蓄積していく。おまけに、納期遅れは、発注会社の基幹システムであるだけにその納期先会社に甚大な影響を与える。どういうわけか課長クラスの中間管理職が全重圧を背負うような仕組みになっていた。会社はときにあまりにも重い仕事を、負荷の配慮もせずに課長ひとりに押し付けるという愚考を犯したと思う。特に大阪などに行くとチェックシステムが働かない。


私が日本高速通信(現KDDI)へ転職したのは1989年、42歳のときで家族を西宮に残して東京へ単身赴任していた。ディズニーランドのある浦安の社宅のある日曜日、洗濯をしていたときにNTTデータ時代の元部下の橋本君から電話があった。橋本君は堀内さんの悲報を伝えてきた。堂島の職場で午前中に会議がありその途中で気分が悪いと言い残してタクシーで帰宅したが宝塚の社宅につく前に亡くなったという。堀内さんは私より一つ上だからまだ43歳であり、亡くなるような年ではない。電話を受けた私は一体どうしたのだろうと大変驚いた。

私がNTTデータを退職したのは悲報の一月前だ。転職の話をしたそのとき彼は今風邪が長引いて体調が悪いが、良くなったら一杯のみに行こうと約束していた。堀内さんの訃報を聞いて風邪をこじらせて亡くなったのかとひと月前の会話を思い出した。

後にそんな体調の悪い男に深酒を付きあわせたのは営業の川上課長だと聞いた。風邪が長引き体調の悪い男を深夜まで引っ張りまわし、そのまま家に帰らず会社のソファで仮寝をした。翌日の勤務中に気分が悪くなりそのまま亡くなった。かねてから営業の川上課長の酒癖の悪さを聞いていたので無性に腹が立った。

営業の川上課長が深夜まで引っ張りまわしたのが引き金になったとはいえ彼の若すぎる突然死に伏線はあった。彼の仕事スタイルは夜型で、かといって他の社員と同様に朝から出社している。しかし社員のあらかた帰った9時10時からが彼の資料作成タイムだ。電話もなく他に社員もいないオフィスで静かに仕事をすることを好み、企画資料を作っていた。

仕事が一段落すると深夜だが仕事場は堂島のどまんなかで、飲み屋には困らない。行きつけのスナックにいって飲む。それから又、会社に帰り、仕事の続きをするか、そのままソファや机を並べてそのまま寝る。翌日はそのまま会社で通常通りの仕事を続ける。これでは、いくら頑丈な体でもたまらない。体が知らぬ間に悲鳴を上げていたのだろう、とくに肝臓が。当時、かれの上司もこうした体も家庭も顧みぬ仕事ぶりを求めており、それに応えた男の戦死だと思った。

樺山さんもその少し前に40代で亡くなった。私と同じプロジェクト開発の仕事を東京と大阪で分業して進めており、彼は東京で東日本の、私は大阪で西日本側の開発責任者だった。いつも血圧の高そうな赤い顔をしていたので、大丈夫かなと心配していた。ストレスとそれに耐えるための酒で体ががたがただとも言っていた。

ある日、入院したと聞いたがその後すぐに亡くなった。仕事の過度なストレスを酒でごまかしているうちに肝臓に負担がかかり取り返しがつかなくなったのだろう。友人の山田さんが自らのストレスと酒について言っていた。「肝臓をやられるか、頭をやられるかだね」樺山さんはまさにその通りになった。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。